ユーゴ空爆の背景 利権と歴史と謀略と侵略とメディアの嘘と(18)

ユーゴ戦争:報道批判特集

国際戦犯法廷に起訴されるべきはNATOだ

1999.6.4 WEB雑誌『憎まれ愚痴』23号掲載

 湾岸戦争でもアメリカは、イラクへの脅しと国際的な冤罪報道の小道具として、国際戦犯法廷をチラツカセたが、実際には、自らの戦争犯罪の追及を恐れて、法廷を開こうとはしなかった

 実際に開かれたのは、アメリカのケネディ政権で司法長官だったラムゼイ・クラークらの主催による草の根の「湾岸戦争・国際戦争犯罪法廷」(1992.2.29)だけだった。日本からも多数の参加者がニューヨークに赴いた。日本の司法界の最長老、元裁判官の故尾崎弁護士も参加した法廷で、アメリカとその同盟国には「有罪」が宣告された。

 ラムゼイ・クラークは、爆撃下のイラクにも入った。その記録のヴィデオは、私の手元にもある。このヴィデオは、上記「湾岸戦争・国際戦争犯罪法廷」の証拠ともなった。

 その日本語版を作成したのは、湾岸戦争を契機として結成され、現在、会員が300人を超えるに至った「民衆のメディア連絡会」の事務局を一貫して引き受けている「ビデオプレス」である。この貴重な現地ルポは、アメリカの大手メディアでは放映されなかったが、私も原告の一人だった日本の市民平和訴訟団の粘り強い要求によって、日本の東京地方裁判所の大法廷で、法廷の壁に、液晶ヴィジョンのプロジェクターによる大画面として、写し出された。訴訟そのものは最高裁に至るまで敗訴の連続だったが、訴訟の歴史的事実と、その経験は、永遠に生き続ける。

 歴史は繰り返す。今また、同じような、これこそ「真の戦争犯罪」が、ユーゴスラヴィアで無残にも犯され続けている。私は、湾岸戦争当時には存在しなかったインターネットという手段、人類史上最強のハイテク軍隊、アメリカ軍が開発した技術による即時コミュニケーション手段によって、この「戦地からの報告」を、いちはやく多くの人々に届けることができることを、喜びとするわけにはいかない。むしろ未曾有の、やるせない怒りと悲しみとして、今、噛みしめている。

 以下、日本軍のカンプチアPKO出兵反対闘争で知り合った仲の訳者、萩谷良からの直接の要望にも応えて、ラムゼイ・クラーク代表の「国際行動センター」スタッフによる「戦地からの報告」を、わがホームページに入力する。


戦地からの報告
Received: 99.5.29 6:50 AM
From: hagitani ryo,

国際行動センター "戦地からの報告"

*[ ]内訳者注

 グロリア・ラ・リヴァ、サラ・フラウンダーズ(ベオグラード発)

 ラ・リヴァとフラウンダーズは、5月14日に、国際行動センター(代表:ラムゼー・クラーク米国元司法長官)とともに、ユーゴスラヴィアに行った。

 パシフィカ・ラジオのジェレミー・スカヒル氏が同行した。ラ・リヴァは、すでに空爆開始1週間後にクラーク氏とともにベオグラードを訪れており、『NATOの標的たち』というビデオを製作している。フラウンダーズは、編集者で『バルカンのNATO』という本の共著者でもある。スカヒル氏は、ユーゴから米国の200以上のラジオ局に毎日2回ずつリポートを送る予定。

 5月18日 夜の11時30分に、大規模な爆発が2回起こって、ベオグラードでは、ユーゴに残る最後の石油貯蔵施設が破壊された。私たちの泊まったホテルから1マイル強のところだ。

 自分たちの目で米国とNATOの軍による最新の犯罪を見ておくため、急いで、暗い通りを、現場へと向かった。事実は逃れようがない。ユーゴスラヴィアに攻撃を加えるこの戦争は、その民衆に対する戦争なのだ。

 きょう、セルビア臨床センターで、私たちは、ほんとうにひどい負傷をした患者たちを目撃した。ヴラディミール・ユツィッチ医師は、徹底的な爆撃を受けたニーシュ市の負傷者に緊急の手術を行うため、同市に向かおうとしていたが、「私は肝臓移植が専門なのです。この病院では、肝臓移植の導入が間近でした。ところが、私は、爆弾で負傷した人達の手足の切断手術をすることになってしまいました」と語った。

 集中治療室で働いているソーニャ・パブロビッチ医師は、私たちをナーダという少女に会わせてくれた。15歳のナーダは、クラスター爆弾[集束爆弾:たくさんの子爆弾から成り、飛散する性質がある]のため、両脚をずたずたにされてしまった。彼女の家族は、セルビア人で、コソボに住んでいる。情け容赦もない爆撃に、親がナーダをコソボから逃がすためにバスでモンテネグロの親戚のところに送り出したのだ。バスはNATOのクラスター爆弾に撃たれた。ナーダは今、腰から下が動かない。飛散したクラスター弾を全身に受けたためだ。

 NATOの爆撃機の所業は悪魔的である。まず1発のミサイルを投下したあと、ちょうど救助隊がかけつけるタイミングに、第2のミサイルを発射するのだ。

 私たちは、ベオグラードの中心街にある軍の本部に救助隊として行ってきた民間防衛隊の2人の男性と話をした。二人の車が爆撃を受けた建物に近づいたとき、2番目の爆弾が命中した。一人の人は、ほとんど聞き取れない声で、このとき一緒に救助をしていた仲間ともども空中に吹き飛ばされ、その仲間はそのとき死んだと語った。この人自身も、両脚が吹き飛ばされるのが「千分の1秒で」わかったと言う。

 もう一人の負傷者、ネボイサ・スタルツェビッチさんは、再建手術を受けた。医師らはなんとかこれでこの人の脚を救いたいと願っている。

 この二人の人達は、生存のための戦いでも勇敢だが、私たちに、自分の身に起きた出来事を、その恐怖を改めてまざまざと思い出しながら語り得た点でも、勇気ある人達だった。ベオグラードの市民防衛のトップ役員も、ICUユニットの患者となっていた。

 パブロビッチ医師は言う。

「この人たちは、ほんとうに私たちの英雄です。2番目の爆弾が来るのを知っていて、現場に駆けつけ、けが人や死者を取り戻そうとしたのですから」

 日中は、ベオグラードでもほかの都市でも、人々が通りにみち、買い物や仕事に行く。生活は正常であるかに見える。しかし、空襲警報のサイレンが鳴り出すと、彼らの生活は一瞬のうちにひっくり返ってしまう。

 きょうの午後3時に、私たちは、ベオグラード繁華街のバルコニーに立って、そこから15分のところにあり、最近爆撃を受けた、ラコヴィツァという郊外の町の難民キャンプに向かって発とうとしていた。突然、サイレンが鳴った。数分後に、ラコヴィツァに再び爆弾が投下されたとの知らせがあった。

 ユーゴスラヴィアには、ペンタゴンと渡り合えるようなハイテック兵器はない。ならば、NATOの標的は何か?

 50日間の爆撃で、NATOの目標は、ユーゴの人々の外国の占領軍に対する抵抗力を破壊することであった。爆撃開始前にランブイエで米国が提示した主要な要求である。

 NATOの攻撃目標リストには、学校、病院、集中暖房施設、通信網、肥料工場(この豊かな農業国を破壊するためだ)、テレビ・ラジオ放送局、文化施設、宗教施設、バスと電車の駅、多忙な繁華街の通りの住宅が含まれている。

 政府や地方自治体の業務、燃料供給、橋梁がターゲットにされてきた。

 ハンガリーのブダペストからベオグラードまで車を走らせていくと、道を引き返さざるを得なくなる。主要な幹線道路は、橋や高架道路を含め、爆撃を受けて、通行不可能だからだ。

 田舎は、まぶしいばかりの緑。植えつけをすませたばかりの畑は、新しい作物が整然と列をなしている。

 ノヴィ・サドとベオグラードの間で、私たちは、まだくすぶっている小さなガソリンスタンドを見かけた。地面に何カ所もおびただしいガソリンがたまって、炎がそのうえをなめるように広がっていた。数時間前に4発のレーザー誘導爆弾を被弾したのである。ガソリンの煙が濃く空中にたちこめていた。2基の給油ポンプと、コーヒーやクラッカーやプラスチック瓶入りのオイルなどを販売する小さなキオスクが、今では溶けた瓦礫と化していた。不気味なかたちにねじ曲げられた、いくつもの燃料貯蔵タンクもあった。

 道路をへだてた小さな家は、2面の壁を残すのみで、屋根もない。やつれきった男性が一人いて、スタンドの店員だったが、最初の爆弾の命中するのが聞こえて畑に逃げ込んだときの様子を話してくれた。

「一分で、自分のものは、家も、何もかもなくなり、生きていくのに必要なものが一切なくなってしまった」

 と、その人は語った。

 現地の人々がまわりに立って、煙を吐く建物の残骸を見つめていた。

 ノヴィ・サドは、私たちがユーゴで泊まった最初の場所となった。ここには以前、ドナウ川にかかる3つの立派な橋があった。いちばん古いものは、中心街にあって、地元の人達が利用していた。もうひとつは鉄橋だった。そして、それより上流に、6車線の幹線道路の通る橋があった。

 爆撃のため、この3つの橋が、今では、ヨーロッパの主要水路であるドナウ川を塞いでいる。ドイツ、オーストリア、ブルガリア、ルーマニアから来る150隻ほどの船がユーゴスラヴィア国境で停められていた。ユーゴスラヴィア国内で合計35箇所の主要な橋が破壊されたか、傷めつけられたためだ。

 バルカンで最大の、いちばん進んだ心臓病研究所は、今では、フェリーボートで行かなければならない。大きな水上プラットフォームあるいは巨大ないかだの船尾に3基のエンジンを取りつけたようなそのフェリーは一回に数百人の人を運ぶことができる。そのほか何隻もの小型フェリーやボートがしきりに両岸の間を往復して、橋のなくなったのを埋め合わせていた。

 私たちの泊まったホテルは、湯が出なかった。市全体の暖房給湯設備が爆撃されたためだ。5月にこれでは、不便である。だが、来年1月には命にかかわる事態になるだろう。

 人々は平静だった。

 夜になる前に、ある被弾した学校を見に行った。以前校庭だったところは、巨大な噴火口のようになっていた。校舎の窓はみな吹き飛ばされ、壁面は真っ黒だった。

 それでも、2カ月もの間爆撃を受けてきた人々は、夜になり、空襲警報のサイレンが泣くように響いても、驚くほど落ち着いていた。会話は続けられた。人々は、しずかに防空壕に移動した。

 ベオグラードでの最初の日、私たちは爆撃跡をまわってみた。わき道ぞいの小さな家々から、ベオグラード新市街全体に暖房と湯を供給していた大規模な温水施設、現代になって開発された8万戸の新しいアパートまで。今、35万人の人々が、暖房も湯もなしに暮らしている。

 ベオグラード中心街にある新生児病院は、一見、安全な世界への一歩であるかに見えた。未熟児や重病の新生児がユースラヴィア全土から送られてくる。180人ほどの、小さく、弱々しい赤ん坊たちが、哺育器の中で、人工呼吸装置に頼って、命にしがみついている。もし電気が数分でも止まれば、たくさんの命が失われるだろう。しかし、バックアップのための発電装置は待機している。

 とはいえ、すでに、2ブロック先で、爆撃の音がやかましく聞こえており、新生児病院の精密に調整された装置は数回作動を中断された。

 6人の医師と会った。院長を含め、全員が女性だった。ユーゴスラヴィアは医療が無料である。医学校も無料だ。爆撃が始まってからこのかた、緊急治療室では、ベッド数と資材や薬剤を4倍に増強して対応している。

 防衛はきちんと組織されている。

 最初の頃、空爆は政府の建物を狙っていた。しかし、政府省庁はみな、すでに何週間も前に引越し、退避してしまっている。多くの貴重品や生命を維持するための物資が、国中に広く分散されている。防空壕は、蓄えが十分にあり、狙いをつけられている。小さな子どもでも空襲時の警告手順をそらんじている。

 ユーゴスラヴィアが西側諸国の帝国主義の圧力のもとで解体されていた間、何十万人もの人々が、何年間もあちこちを転々とする生活をしてきた。クロアチアのクライナ、ボスニア、そして今やコソボと、多数の難民で、住宅は満杯だ。

 爆撃以前は、大きなアパートがあちこちで建設されていた。そのクレーンは今も地平線にそそりたっている。だが、作業は一切停止している。

 最近の爆撃(この戦争で最大規模)以前にも、工場やインフラストラクチャーが破壊されたために、50万人の雇用が失われた。しかし、政府は、国民が飢えないように、給料を出し続けた。

 私たちは、コソボ州の北にあり、セルビア南部でもっとも激しい爆撃を受けたニーシュに行った。

 市内に入るときに渡った橋は、私たちがその上を通ってから、ほんの30分あとには吹き飛ばされていた。ベオグラードへの帰途は、別の道を取らなければならなかった。

 ニーシュは人口25万の都市だ。道ぞいに、破壊された製粉工場、バス停留所、多くの小さな家々が見えた。この地方全域で80万人の住民に暖房と調理のための燃料を供給してきた巨大なガソリン貯蔵タンクが破壊されているのも見た。

 最悪の犯罪のひとつは、ニーシュ中央市場が5月7日の昼に受けた爆撃である。11人の人が死に、何十人もの人が負傷した。屋根に明瞭に赤十字を表示していた病院が、クラスター爆弾を落とされた。数ブロックからなるある地区では、1300発の小型爆弾[bomblet:空中で飛散する]が投下された。

 クラスター爆弾と破片爆弾は、人員殺傷用兵器であり、すべての国際協定で禁止されているものである。かみそりのように鋭利な鋼鉄のひもを詰めた爆弾1発で、サッカー競技場ほどの面積の場所がずたずたにされてしまうのだ。

 青々とした芝生と道に、不発のクラスター爆弾が、明色のテープと、これを踏まないようにと警告した標識をつけて、置かれている。

 ギリシャ領事館も爆撃された。中国のときと同様、ギリシャでも、民衆はユーゴスラヴィアに多大の同情を寄せている。

 ニーシュの煙草工場では、ミロイェと言う名の工員が語ってくれた。

「頭の上をしょっちゅう飛行機が飛んでいますが、我々は毎日工場に来ます」

 恐くないかと聞くと、彼はこう言った。

「もちろんです。だけど、働かなくちゃ生きていけないしね」

 3000人が働いている、この工場は、これまでに3回の爆撃を受けてきた。

 ミロイェは、生後8カ月の娘のことを語った。

「あの子の将来がどうなるのかと思いますよ。娘が一人前に成長したときに、思い出すこともできないように、こんなことはもう終ってほしい」


 以上。1999.5.29.入力。


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