ユーゴ空爆の背景 利権と歴史と謀略と侵略とメディアの嘘と(3)

ユーゴ戦争:報道批判特集

好戦報道を疑う温故知新「3題話」

1999.4.23 WEB雑誌『憎まれ愚痴』17号掲載

以下、mailの再録。

 江戸川柳に曰く「講釈師、見てきたような嘘を言い」。

 戦争報道には特に嘘が付き物です。今の今、コソボ空爆を伝えるアメリカのラディオ放送には、セルビア大統領ミロソヴィッチを「ヒトラーだ!」と非難する「アメリカ版・鉄の女」国務長官オルブライトの憎々しげなダミ声や、「これはホロコーストだ!」と煽るユダヤ人の芝居掛かった叫びが入ってきます。ニュースのコメントでは「最後の共産主義の独裁者!」と評されるミロソヴィッチ大統領個人の評価は別として、かのヒトラーを散々に手こずらせたユーゴスラヴィアの山地ゲリラの末裔が、なぜヒトラーになるのでしょうか。

 ヒトラーとかホロコーストとか叫べば、国連無視の空爆が正当化されてしまうという光景は、ジョージ・オーウェル著『1984年』の「真理省」「2分間憎悪」タイムのテレヴィ画面に現われては、「恐怖と憎しみ」をかき立てる「裏切り者」、「人民の敵エマニュエル・ゴールドスタイン」の実在化を思わせる不気味さなのです。

 英語には、When war is declared, Truth is the first casualty.(宣戦布告後の最初の犠牲者は真実である)という警句があります。日本の戦国時代の古典にも、現代そのままの「虚言(そらごと)」に関するエッセイがありました。


温故知新(その1)『徒然草』第73段


 世に語り伝ふること、まことはあいなきにや、多くは皆虚言(そらごと)なり。あるにも過ぎて人は物を言ひなすに、まして、年月過ぎ、境も隔たりぬれば、言ひたきままに語りなして、筆にも書きとどめぬれば、やがて又定まりぬ。道々の物の上手のいみじき事など、かたくななる人の、その道知らぬは、そぞろに神のごとくに言へども、道知れる人は更に信もおこさず。音に聞くと見る時とは、何事もかはるものなり。

 かつあらはるるをも顧みず、口にまがせて言ひ散らすは、やがて浮きたることと聞ゆ。又、我も誠しからずは思ひながら、人の言ひしままに、鼻のほどおごめきて言ふは、その人のそらごとにはあらず。げにげにしく、ところどころうちおぼめき、よく知らぬよしして、さりながら、つまづまあはせて語るそらごとは、おそろしき事なり。我がため面目あるやうに言はれぬるぞらごとは、人いたくあらがはず。皆人の興ずる虚言は、ひとり、「さもなかりしものを」と言はんも詮なくて、聞きゐたるほどに、証人にさへなされて、いとど定まりぬべし。

 とにもかくにも、そらごと多き世なり。ただ、常にある、めづらしからぬ事のままに心得たらん、よろづ違ふべからず。下ざまの人の物語は、耳おどろく事のみあり。よき人は怪しき事を語らず。

 かくはいへど、仏神の奇特、権者の伝記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗の虚言をねんごろに信じたるもをこがましく、「よもあらじ」など言ふも詮なければ、大方はまことしくあひしらひて、偏(ひとへ)に信ぜず、また疑ひ嘲るべからず。

(同書の現代訳)

 世間で語り伝えていることは、真実のことはおもしろくないのであろうか、たいていのことは、みな嘘偽りである。事実よりも以上に、人は物事をことさら大げさに言うものであるうえに、まして年月もたって、場所も隔ってしまえば、言いたいほうだいに作り話をして、文字にまで書きとめてしまえば、そのまま定説になってしまう。それぞれの専門の方面での芸道に達した人の、すぐれていることなどを、道理をわきまえないで、その道を知らない人は、むやみやたらに、神のように言うけれども、その道を知っている人は、まるで信仰する気もおこさない。噂に聞くのと目で見るときとは、何事でも違うものである。

 語っているはしから、一方ではすぐばれてしまうのもかまわず、口からでまかせに言いちらすのは、すぐに根のないこととわかる。また、自分も真実らしくないとは思いながら、人の言ったとおりに、鼻のあたりをぴくぴくさせて得意げに話すのは、その人の作った嘘ではない。いかにももっともらしく、ところどころぼかして、よく知らないふりをして、ぞれでもつじつまを合せて語る嘘偽りは、恐ろしいことである。自分のために名誉になるように言われてしまった嘘には、人はあまり争わない。誰もかれもがおもしろがる嘘は、自分だけが、「そうでもなかったのに」と言ってみたところで、しかたがないので、聞いているうちに、その話の証人にさえされて、いよいよ定説になってしまうだろう。

 いずれにしても、嘘偽りの多い世の中である。ただ、普通にある珍しくないことと同様に、受け取っておいたならば、万事まちがいないはずである。下々の人間の話は、聞いて驚くようなことばかりだ。教養あるりっぱな人は異常なことは語らないものである。

 こうは言っても、仏や神の霊験、また仏・菩薩が姿を変えて、仮にこの世に現れた権者(ごんじゃ)の伝記などは、そう一概に信じてはならないというわけでもない。こういう事柄は、世間の嘘偽りを、心の底から信じているのも、ばからしいし、「まさか、そんなことはあるまい」などと言っても、かいのないことであるから、だいたいは真実のこととして応対しておいて、いちずに信したり、また疑って、ばかにしてはならないものである。(以上、小学館『新編日本古典文学全集』1995, p.139-140)


 兼好法師とは?

~解説「作者について」(同書p.292-302)に基づき、本 Web週刊誌編集部が要約~

 兼好法師と通称されるト部兼好(1283年頃~1352年頃)は代々神祇官(じんぎかん)の名門の生まれで、朝廷の蔵人(くろうど)を勤めて左兵衞佐(さひょうえのすけ)の位を得ながら、1313年頃、30歳未満で出家したと推定されています。時代背景には、これも年代区分に諸説ありますが、鎌倉時代(1185-1333)末期から南北朝(1336-1392)に掛けての戦乱があります。一世紀以上前の鴨長明(1155-1216)が残した『方丈記』(1212)と同様、いわゆる戦国期の「無常観」を思想の原点としながらも、その後の歌詠み僧侶としての世間付き合いの広さが、多面的な人間観察を可能にしたのでしょう。


温故知新(その2)『陸軍葬儀委員長』

「命取りの支那事変」

 とても「慎重」には見えない鷹派の石原慎太郎が都知事になって、中国筋から「支那」という石原用語が非難の材料になっている折も折ではありますが、これは戦後に出た本の章の題なので、仕方のない歴史用語でしょう。

 自称「陸軍葬儀委員長」こと御当人の著者は、蘆溝橋事件直後、折から病床にあった現地の軍司令官および軍参謀長の了解を得て、「不拡大」方針を中央に具申したのに、「日本の新聞を見ると、支那を叩けと盛んに抗戦熱を煽っている」し、「北支在住の日本の浪人達」は「『池田参謀を葬れ』と気勢をあげ」るし、「支那事変のスタートを切った翌々日」、「天津軍参謀の職を解かれ内地に転勤を命ぜられた」のでした。

 以下は、私が、この本の核心の1つとして評価する部分です。


「数日経って私は近衛公を訪うた。公爵は開口一番『池田君とうとうやったね、支那事変は軍の若い人たちの陰謀だ』といった。

 公爵も関東軍の前科を類推して軍の陰謀だといったのだ。私は弁解して見てもつまらぬと思った。

『公爵、戦争張本人は軍でなくて、総理たるあなたですよ』

 といったら公爵はビックリした顔で私を見直した。

『なんですって?』

『そうですよ。公爵あなたの責任ですよ』と答えるなり、私は1枚の新聞を取出して公爵に見せた。それは7月13日附けのもので、折角我々が支那側と調印した現地解決案なるものは、新聞の1隅に小さく取扱って、1面から3面にかけて、大々的に国民の戦争熱を煽るような記事で充満していた。

『公爵、政府は不拡大方針を唱えながら、この新聞の扱いは何ですか、これでは戦争にならないのが不思議ではありませんか』

 公爵は私の真意が判ったのか黙ってしまった」


 近衛は、アメリカ軍に逮捕される前に服毒自殺しました。しかし、「戦争熱」を煽ったメディアの責任者は、一時的かつ形式的な「公職追放」だけで、直ちに復活しました。


温故知新(その3)「侵略者は常に平和愛好者である」
(『戦争論』)

 小林よしのりの『戦争論』のことではありません。「共和主義」の旗の下にヨーロッパばかりかエジプトにまで侵略の手を延ばし、大スフィンクスの鼻を大砲で欠いたナポレオンのことを、ドイツ人のクラウゼヴィッツが、こう皮肉っていたのです。


 ことの真相を正確に読み取るためには、歴史的観点が不可欠である。「歴史は現代を正しく映すための鏡である」というのが、現代歴史学の基本認識となっている。日本でも昔は『大鏡』『今鏡』といった呼名で歴史がつづられたものである。

 イギリスのジャーナリストで、植民地解放戦争にも従軍したアフリカ史研究家、バジル・デヴィッドソンは、次のような趣旨のことを書いている。

「アフリカの植民地化の歴史を論ずるときに、ヨーロッパの歴史家が陥りがちな過ちがある。歴史家はえてして、ヨーロッパ人とアフリカ人との紛争を、あたかも刑事事件の現場検証のように微に入り細をうがつ。どちらが先に手を出したかといったふうな、重箱の隅をほじくるような手法を取る。しかし、その土地はもともとアフリカ人の土地なのであって、基本的な侵入者はヨーロッパ人なのだ」

 19世紀末にヨーロッパがアフリカを本格的に侵略したときの口実は、アラブ人が奴隷狩りや奴隷貿易をしている、それをやめさせるのがキリスト教文明の使命だということだった。次には、現地のさまざまな王国や民族が抵抗すると、その野蛮さが強調された。侵略戦争を有利に進めるためには、カイライの族長を抱き込むのが、常套手段だった。

 日本が中国大陸に侵略を繰り広げたときには、中国東北政権のトップ張作霖は「馬賊上がり」だと宣伝され、「暴戻(人道にはずれた)なる支那軍を膺懲(うちこらす)すべし」という大義名分が立てられた。列車を爆破して張作霖を暗殺しても、「満州某重大事件」としか報道されず、天皇は機嫌を損ねただけ。下手人の軍人は罪を問われなかった。

 近代に入ってからのことにかぎると、侵略される側の国は、政治的にも遅れているのが普通であった。理想的な民主主義国(そんな国はどこにもないが)であるはずがない。逆に、侵略する側は近代ブルジョワ革命を経ており、「法治主義」だとか「自由・平等・博愛」の三色旗を掲げていたりしたのである。現地政権トップが独裁者だったり乱暴者だったりすれば、侵略を合法化する口実にこと欠かないから、大歓迎であった。

 これとまったく同じことがアラブの世界で再び行なわれたという基本認識が、最初に確認されるべきである。歴史的に見れば湾岸戦争は、軍事大国による新たな侵略のやり直し以外のなにものでもない。侵略を「正義」と認め、出征兵士に祝福を与えるオーソリティーが、教会や神社から国連フィクションに変わっただけの話なのだ。今度の戦争でも、まず最初に問われなければならないのは、だれが先に手を出したかではなくて、アラブ人の土地で爆弾をボカボカ落とし、大量殺戮したのはだれか、でなければならない。

 テレビに映ったアラブ民衆のデモのプラカードにも、「US、ゲット・アウト・オブ・アラブ・ワールド」と大書されていたのが印象的だった。


 以上。


(4)コソボに止まらぬ非武装平和部隊提言
ユーゴ空爆の背景
緊急:ユーゴ問題一括リンク
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