内村剛介の本が久しぶりに出版された。題して『わが身を吹き抜けたロシア革命』という(五月書房、2000年 7月)。
1920年生まれの内村は戦前ハルビン学院に学び、卒業後は関東軍に徴用された。敗戦時に「平壌」に進駐したソ連軍に逮捕され、シベリアに抑留された(内村の年来の主張に従えば、「ソ連国家捕虜」とされた、という表現になる)。
11年間の捕虜生活を経て、1956年、最後の集団帰国者のひとりとして舞鶴に上陸した。まもなく松田道雄の推挽を得て文章を書き始めた。テーマは、主としてスターリン獄での経験や現代ソ連の思想・文学状況だった。
トロツキー文献や詩人・エセーニン、ソルジェニツィンをはじめとする現代ロシア抵抗文学の翻訳・紹介でも際立った役割を果たした。
「甘さ」が残る日本左翼や進歩派、戦後民主主義派のソ連論・社会主義論・ユートピア論を、独特の皮肉な口調で「揶揄」(必ずしも、後味の良くないことを意味しない)しながら展開されるラーゲリ論・ロシア革命論・現代日本社会論には、内村の複雑に屈折した心情が浮かび上がっていて、こころに響くものがあった。
同時代の日本の思想・社会状況に対する批判も苛烈だった。それは、たとえば、「わだつみ」に対するそれに見ることができた。特権的に学問をさせてもらっておきながら、学徒動員され、戦場に行くに当たって抵抗を試みることもなく戦死したからといって、特別に哀悼されるいかなるいわれもない。「亡びるべくして亡びたのは、われわれ学生だけではなかったのだ。
……いのち、死、それを他人事のように客観化しようとし、甚だしい場合には一般化さえしようとしたわれわれの同輩たちの、思い上がった、いい気な姿を、ぼくは、むしろ、ぼくら学生の罪業だとさえ思う。二十年後のこんにち、あとの世代に伝達すべきものは、わだつみの声などという繰り言であってはなるまい」(「情況にとってまことに残酷なこと」、『呪縛の構造』所収、現代思潮社、1966年)。
60年代〜70年代のおよそ20年間、私は内村を大事な表現者として、上の「わだつみ」に対する文章も含めて共感をもって読んできた。しかし『ロシア無頼』(高木書房、1980年)では、ロシアへの(ある意味で当然の)警戒論が、「羽田に、成田に、見よ(ソ連の)落下傘」式の表現に見られるように、「ソ連の脅威」を前にした日本国家の危機をアジるにまで至っていて、あぜんとした。
(日本)民族の自立は(ソ連の)武力による敗亡で失われるものではなく、精神まで武装解除されてはじめて完全に屈伏するのだが、屈伏しない精神の訓練はそれぞれの家族内のしつけの問題である、という類いの主張が、その本の後半では展開されていた。
それ以来、内村の本を読むことを、私はやめた。もっとも内村自身も、その後は長い間、本をまとめることをやめてきた。
かつて内村の本の編集者であった陶山幾朗の主宰で、98年から『VAV ばぶ』と題する不定期刊の雑誌が発行されている。
そこに、陶山が聞き手となった「内村剛介インタビュー」の連載がある。『シベリアの思想家:内村剛介とソルジェニーツィン』(風琳堂、1994年)の著者である陶山に対する信頼もあって、このインタビューは読んできた。
理由はもうひとつあって、内村が監修して、スターリン獄における内村の獄友というべきジャック・ロッシの『ラーゲリ強制収容所註解事典』がその間に出版されたのだが(恵雅堂出版、1996年)、それを読むと、『ロシア無頼』程度の著作の荒れ方を見て、内村のラーゲリ「体験」をそう簡単には忘れ去ることはできないと思い、内村を読むことをやめるというのは浅慮であったと思ったからだ。
インタビューと新著で久しぶりに相対した内村の表現は、かつてのように面白く、刺激的だった。
新著に収録されているソ連論は、主として1989年から94年にかけて書かれたもので、ペレストロイカ末期からソ連崩壊の直後までの時期に相当する。
そこで多様な角度から展開されるレーニズム、スターリニズム、総じてソ連社会主義批判には、「左」からの批判としての根源性があるように思える(内村自身は、「左」だなどと、通俗左翼と一緒にするなと言うかもしれないが、「根源性」という以上は、それなりの敬意をこめて私は言っている)。
ジョレス・メドヴェージェフの「スターリンの原爆プロジェクト」(『世界』2000年8〜9月号)を読むにつけても、ソ連論は、機密文書の公開に助けられていっそうの深化が期待されるが、その際内村の立論を無視するわけにはいかないようだ。
他方、インタビューは、「生い立ちの記」的な話から始まり、14歳の少年・内村が「少年大陸浪人」的な心情で満州へ向かう時代へと進む。
インタビューなので、表現・言葉の厳密性にはおのずと限界があるかもしれないが、満州国への視点、「脱亜」や入欧ならぬ「入亜」などの問題をめぐっては、やはり私の捉え方との間には不可避的な対立点が残る。
満州経験は「戦後デモクラシーの勝者たちの言うような、一方的な、全く不生産的な、罪だけの歴史ではなかった」という内村の考えは、「侵略には、連帯感のゆがめられた表現という側面もある」とした竹内好の考えに通じるものがある。
最近でも、長春(旧新京)の街を見て、その都市計画の見事さに「日本人に対する信頼の念を新たにした」と福田和也は語った(『正論』97年 5月号)。
安彦良和は、建国大学を舞台とした興味津々たる劇画『虹色のトロツキー』(潮出版社、全8巻、1993年、現在中公文庫)を描いた。
日清・日露戦争から満州国建国に至る近代日本のアジアとの歴史過程をふりかえり、内村は「帝国主義の時代に生きるために、日本に何か他の選択肢はあったか」と問う。この論点は、私たちも避けることのできない問題として対決し続けなければならないようだ。
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