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書評『世界変革の政治哲学:カール・マルクス……ヴァルター・ベンヤミン……』
ミシェル・レヴィ著 山本博史訳
(つげ書房新社、1999年8月刊、3800円) |
「かけはし」2000年1月1日号に掲載 |
太田昌国 |
著者のミシェル・レヴィは、一九三八年ブラジルで生まれた政治哲学者である。現在はパリ国立科学研究所の社会学研究所長であり、革命的共産主義者同盟(JCR)のメンバーでもあるという。一九七四年に翻訳が刊行された『若きマルクスの革命理論』(福村出版)の著者だとの記憶を喚起されると、(私もそうだったが)懐かしい思いをいだく人もいるかもしれない。
全一四章を構成する各論文は、一九七〇年代から八〇年代にかけてフランスの雑誌に掲載された。一九九三年、それらは英訳されて『世界を変えるということ』と題した一書として刊行された。「序章」の短い文章だけが、この英語版単行本のために、一九九一年以降に、すなわち東欧社会主義圏に引き続いて起こったソ連邦の崩壊以降に、書かれたものなのだろう。
世界変革の理論と実践をめぐる時代状況が大変な様変わりを迎える直前に書かれた一連の論文が、いかに時代の検証に堪えているか。いまどき希少なタイトルをもつ本に向かい合って読者がいだく関心と期待は、こんなところにあるように思える。
「社会主義は死んだ」という大合唱が沸き起こっているが、それは本当だろうかと自問する著者は、まず言う。「生まれる前に死ぬことはできない。社会主義は、まだ生まれていないという正当な理由があるのだから、死んではいないのである」。
「序章」でこの一文を目にした私は身構えた。メディアが「共産主義国家」とか「現存社会主義」と名づけている体制は、せいぜい、主要な生産手段の私的所有が廃止された非資本主義社会でしかなく、社会主義とはかけ離れたものであったという論点で、「真の社会主義」を救い出そうとする新たな試みなのか、と思ったからである。
この論点がまちがいだと言いたいのではない。周到に提起されるなら、十分に批判の武器になり得る論点であると思う。だが現実には、はぐらかしに終わりがちな、危うい論議の方法にはちがいない。実際にこの一世紀を通して、世界中で無数の人びとが、(レヴィによれば)僭称された「共産主義」「社会主義」のためにたたかい、弾圧され、投獄され、拷問され、殺された。
その名の下で革命が成就すると、十数億、数億、数千万人から成る「国家」を運営し、国軍を保持し、戦争をたたかった。
新しい支配権力を構築し、敵対者を牢獄や収容所に送り込みあるいは殺害し、特権を享受する指導層も成立した。
共産主義の名の下での粛清の犠牲者が世界中で一億人にのぼると発表し、共産主義とドイツ・ナチの類似性を強調する『共産主義黒書』が、一九九七年のロシア革命八〇周年を期してフランスで出版され(いずれ恵雅堂出版から日本語訳が出版されるという)、ベストセラーとなって読まれている時代である。
それが「共産主義」「社会主義」だったと世の中の多くの人びとが受け取っている実感的なリアリティに、上に紹介したレヴィの言葉で理念的に対抗するのはむずかしいだろうと痛感しないではいられないのである。つまり、これは理論的というよりも実感的な思いである。
読みすすめると、幸いにもレヴィの論議の仕方は落ち着いており、「生まれてもいないものが死ねるか」といった、木で鼻をくくった物言いは、世の中にあまりに跋扈する「社会主義は死んだ」とする論者に向けた軽いジャブなのだとわかる。
一九八九〜九一年の東欧・ソ連圏の体制の崩壊以前に、「正統派マルクス主義者」たちによって展開されてきた理念と実践はすでに死に体となっていることを著者は痛感しており、だからこそ行なってきた別な道の理論的な模索の過程が、この一四の文章から見てとることができる。
では、著者は何に拠ってマルクス主義の再生をめざそうというのか。「カール・マルクス……ヴァルター・ベンヤミン……」という副題が示唆しているが、「マルクス主義の政治哲学の中に秘められているロマン主義的契機を、最前面に押し出そうとする試み」が本書全体を貫く通奏底音となっている。
ロマン主義は一九世紀以降の文学・芸術上の潮流にすぎないのではなく、それが本質としてもつ前資本主義的な価値観に基づいて産業文明やブルジョア文明に抗議する根本的な世界観だとするのが、自分自身の従来の見解を変えて本書でレヴィが到達している地点である。
常にマルクスに立ち戻って思考するレヴィは、とりわけ『共産党宣言』でロマン主義的な傾向を反動的なものと分類しているマルクスとエンゲルス自身が、一八六〇年代にはいってからいかに前資本主義的な社会組織に関心を深めていったかを力説する。
古代ゲルマン社会史学者マウラーの著作と、イロコイ・インディアンの社会構成を研究したモーガンの『古代社会』によって、マルクスとエンゲルスは「古典的ロマン主義者が賞揚した封建制度とは異なる、原始共同体という模範的な前資本主義的組織を発見した」。
それは、ブルジョア社会を以前の社会よりも普遍的に優れていると見做す単線的で無邪気な「進歩主義」を拒絶し、資本主義的進歩がもたらす諸矛盾を理解する道に繋がったという意味で、「後期マルクス」の出発点をなしたとレヴィは捉えている。
誰もが知るように、加えて一八八一年には、ロシア・ナロードニキのヴェーラ・ザスーリチに宛てた有名な書簡がある。レヴィはその一節を引く。「東インド諸島に関して言えば、そこにおける土地の共同所有権の抑制が、まさに、原住民を前進ではなく後退させるイギリスの暴力行為であったことは、誰もが知っている」(要約。本書が採用している「抑制」の訳語は大月版マル・エン全集では「廃止」、「暴力行為」は同じく「文化破壊行為」の語が充てられている)。
一八五〇年代のマルクスとエンゲルスのインド論やメキシコ論では、ヨーロッパ近代が他の諸地域に及ぼす影響力は「資本の文明化作用」として肯定的に評価されていたことを想起するなら、それを「文化破壊」と捉える視点は確かに彼らの思考方法におけるひとつの画期をなすと言える。死によって中絶することになるマルクスのこの方向での理論化作業を、現代的な条件の中で深めることを志すレヴィの問題意識には共感する。
ただ私たちは、前資本主義的な過去、すなわち原始共同体に対する単純なロマン主義的賛美が行き着いた地点もすでに見届けており、過去の社会体制の分析を「ポスト資本主義の未来に向かって投影する」という強靭な意志を欠くならば、好ましい結果は生まれぬ、という冷静な視線が必要不可欠だと思われる。
ところで、レヴィが提出しているこの論点は重要であり、かつ正統派マルクス主義が未だに無視・軽視していることを知れば強調に値はするが、私たちはすでに三〇年来親しんでおり、世界的にいっても目新しい考え方ではない。
新しさが感じられるとすれば、マルクス主義に内在すると著者が捉えるロマン主義的な局面を際立たせることによってそれをなそうとする点にある。マルクーゼとベンヤミンの理論創造の過程に著者が深い共感を示すのも、ふたりがロマン主義的革命論の体現者だからである。ふたりの思考スタイルを「絶望的な希望もしくは悲観的革命主義」と命名している著者だが、それに否定的な響きを込めていない点に、レヴィの思考方法がもつ幅の広さを感じる。
私自身は「正統派マルクス主義者」の理論的影響をほとんど受けてきておらず、反権力的な志向性は、伝統的な「党」(パルタイ)という「権力」にも向かうことになるが、その思想的な根っこにあるのは、「アナーキズム的な信条」と言えるように思える。
一九六〇年代後半から七〇年代にかけて晶文社から続々刊行された「ヴァルター・ベンヤミン著作集」を読みながら、若かった私には、ベンヤミンの心情が近しく感じられた。
その諸論文を読むと、彼は一九二〇年代、アナーキズムの方法が役に立たないことを知ったうえで、その目標が政治的なそれではないがゆえに重要であると考える心情的なアナーキストであったが、アナーキズムの重要な目標を達成する最善の方法が共産主義運動によって与えられることを思わざるを得ない立場に自らをおいていた。それが、私がベンヤミンに共感をおぼえた場所だった。
レヴィも、同じような文脈でベンヤミンの思考過程をふりかえっている。レヴィは「(ベンヤミンは)流れに逆らって漕ぐ技術という、貴重ではあるが修得が困難な技術の偉大な熟達者」であるがゆえに綿密な研究に値すると述べている。日本でも『パサージュ論』(岩波書店)の刊行によってベンヤミンのさらに豊かな社会認識の方法の開示がすすんでいるいま、レヴィの感慨は腑に落ちる。
本書には他に、ラテンアメリカの解放の神学に触れた「宗教論」や「民族問題論」が収められており、レーニン、ローザ、ルカーチ、グラムシらへの言及がなされている。
宗教論においてのみは、一九七九年以降のニカラグア革命におけるマルクス主義者とキリスト者の協働の意義が論じられるなど、きわめて現代的な視点で生き生きとしている。
ところが他の論文では、著者自らが本書の役割を「革命の伝統のいくつかの盛期ーー一七八九年、一九〇五年、一九一七年ーーを再訪すること」に限定したためであろうか、現代への視点と言及を欠いている。
著者は、資本主義的パラダイムを変革しうる新しい文明のビジョンとは、「民主主義的計画・再生可能なエネルギーやエコロジカルな生産・人種の平等や性の平等・自由な共同体や国際的連帯に基づく、新しい生き方のこと」だと述べている。
これらはすべて、一八〜一九世紀や二〇世紀前半の歴史を再訪するだけでは論及もできない、すぐれて「現在的な」諸問題である。次は、この問題に取り組んだ著者と対話ができることを希望している。
【一九九九年一二月一九日記】
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