若いこころが転機を迫られるような出会いというものがある。たいていの人間はそのとき、動揺し悩む時期を過ごしたにしても、ふりかえってみればその転機を何となくやり過ごしてしまったことがわかる。私の場合もそうだった。高校時代には、上野英信の『追われゆく坑夫たち』(岩波新書、一九六〇年)に出会って、こころが動いた。
大学に入ることに何の疑問も持たないまま受験勉強らしきものをしていた私にとって、この本は内容もさることながら、上野が大学を中退して炭坑で働いているという経歴に衝撃をうけた。この社会にまだ貧しさが残る、一九六〇年ころの時代の、小さなエピソードだ。その衝撃を圧し殺して大学に入ってからの六〇年代半ばには、シモーヌ・ヴェイユとの出会いで、再びこころが騒いだ。
日本では彼女の著作の本格的な紹介よりも、その伝記的な紹介が先行した。一九三四年、ロシア革命の現状と行く末を早くも否定的に見定めたヴェイユは、革命の可能性について絶望し、病弱をおして電気機器工場や鉄工所やルノーなどで工場労働に従事した、と伝記本は述べていた(大木健『シモーヌ・ヴェイユの生涯』、勁草書房、一九六四年)。
ヴェイユ自身が書いた文章はさして知らないままでも、その生き方に何らかの衝撃か批判的な示唆を受ける年齢に、私はあった。自分の存在形態に「後めたさ」を感じて、上野やヴェイユほどの徹底的は欠いていたが、真似事のようなことを試みたことがあった。中途半端に終わった。
上野英信のことは別に語るべき場所があるとして、シモーヌ・ヴェイユの著作は、その後まもなく本格的な紹介が始まり、彼女のさまざまな文章に実際に触れる条件が整った。春秋社版『シモーヌ・ヴェイユ著作集』全五巻が一九六七年から刊行され始めたのだ。
私は、一九六〇年代後半の時代状況の只中で初めてそれらに触れたのだから、一九〇九年生まれのヴェイユが、一九三〇年代の世界状況のなかで「革命」を希求し、やがてロシア革命やスペイン戦争などの実相を知るに至って「革命」を批判する過程を、切実な思いで読んでいたと言っていいと思う。
私は心情的アナキズムとでもいうべき立場にあったので、「プロレタリア独裁」をはじめとするボルシェヴィズムの革命概念を批判するヴェイユの立論のあり方は、親しく感じていた。
そして日本でも一九六〇年の安保闘争敗北以後は、左派的な立場からのスターリン主義批判やロシア革命批判は当然のごとくなされるようになっていた。そのような視点をもつうえで私がすでに影響をうけていたのは、埴谷雄高や吉本隆明の理論だった。
ヴェイユに新しさを感じたとすれば、彼女は一九三〇年代のヨーロッパで、ロシア革命やスターリニズムが孕む問題性をいち早く感じ取り、その具体的な経験に基づきつつ、稀にみる予見的な洞察力をもって物事を見つめているという印象をうけた点にあった。
だが「革命」を捨てて「神」の考察へと入ってゆくヴェイユの後年の軌跡だけは、当時も今も、私の気持ちからは遠く、まだ未知の領域として残っている。
三〇年有余前を思い起しながら、ふたつの問題を取り出すことができるように思える。ひとつは、スペイン戦争の捉え方に関わっている。
日本では、一九六六年、すなわちスペイン革命三〇周年の年を期して、スペイン革命に関わるさまざまな文献が初めて翻訳・紹介された。私(たち)はそれを、共和国派の義勇兵として赴いた国際旅団に象徴される国際主義的なロマンティシズムの側面と、その国際主義的な連帯のあり方を裏切ってゆくロシア・スターリン主義やスペイン共産党の問題性に偏して、捉えていたように思える。
それが無効だと言いたいのではない。問題の捉え方が一面的であったことによって、戦争の全体性を見損なっていただろうとふりかえりたいだけだ。
ヴェイユは、一九三六年八月、内戦勃発直後のスペインに共和国派の義勇兵として赴く。事故で火傷を負い、滞在わずか二ヵ月で心ならずも帰国するが、その行動の迅速さには見るべきものがある。
この滞在に基づいて書かれたものは「スペイン日記」(一九三六年八月)や「ベルナノスへの手紙」(一九三八年?)(いずれも春秋社版著作集第一巻に収録)などで、それほど多くはない。評伝によれば、ヴェイユもまた熱烈な共和国派としてふるまっているから、私は安んじて、上の国際主義的ロマンティシズムの側面でのみヴェイユを捉えていたのだろう。
だが「ベルナノスへの手紙」を再読すると、彼女は共和国派の、とりわけ底辺の民衆の渇望や犠牲的精神に促された義勇兵への共感を決して放棄してはいないが、同時に、味方の軍勢の中で吸い込んだ「血と恐怖のにおい」も記している。
それは、解放の主体が「金にやとわれた兵隊たちのするような戦争に落ち込んで」いき、「残酷な行為の数々」を加え「敵に対して示すべき思いやりの気持ち」を喪失する過程である。
この種の観察を、ヴェイユはすでに一九三三年に行なっている。「戦争に関する考察」と「革命戦争についての断片」(いずれも春秋社版著作集第一巻に収録)において、である。そこでヴェイユが取り上げるのは、個々の兵士の行為ではない。
いかに革命的要因によって行なわれた戦争に見えようとも、行政、警察、軍事機関という、本来打倒されるべき抑圧機構を、「正しい」目標をもった戦争そのものが強化せずにはおかないという、現実の歴史が生み出してしまったパラドックスをこそ彼女は問題にしている。
ここでも三〇年有余前を思い起せば、ヴェイユの論点はロシア・ボリシェヴィキへの批判としては十分に首肯き、共感できるものであった。
だが、同時代のベトナムで、アフリカで、パレスチナで、ラテンアメリカ各地で避けがたく戦われている解放戦争の現実を知る以上、私はヴェイユの立場に全面的には同意できない問題性も感じていた。ヴェイユとてこの自問に、すっきりとした形で自答するすべをもっていたわけではない。
三年後、義勇兵としてスペインへ駆けつけずにはいられないヴェイユの姿は、そのことを物語っている。大事なことは、矛盾の只中を生きることを厭わなかったヴェイユが戦争の本質を捉えるに当たって、たとえ「革命勢力」であるにせよ上からの指導部の視点ではなく、そこに「隷属」すべきものと見做される民衆の視点を失わなかったことにある。
世界情勢が激変を重ねて迎えた二〇世紀末、「戦争」と「革命戦争」に関してヴェイユが提出した問題は、いまを生きる私たちの力で新たな光を当てられることを待っているように思える。
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