(一)
主要国首脳会議ことサミットが始まったのは一九七五年のことだった。当時のフランス大統領ジスカールデスタンが、ドルの切り下げに伴う通貨の混乱と第一次石油危機によって世界経済秩序が危機に瀕していると考え、テーマを国際経済に限って首脳会議を開くことを提唱したのだった。
国際情勢の変化に即してその性格を融通無碍を変える会議の内実にはここでは触れないとして、その後、昨年の第二五回ケルン会議に至るまでの開催地をふりかえると、多くの場合、開催国の首都か、その国が近代国家として形成される過程で「前向きの」重要な役割を果たしたと一般的に考えられている市町村が選ばれている。唯一の(と言っていいと思うが)例外は、第二回目(一九七六年六月)の会議の開催地、サンフアンである。
その地を選んだ開催国はアメリカ合州国(以下、米国と記す)。サンフアンは、その米国の「自由連合州」(Estado Libre Asociado)であるプエルトリコの首都である。日本 では「連邦」(Commonwealth)ないしは「自治領」と呼ばれることが多いが、自由連合州がいう「自由」とは「独自の地方的な問題に関しては最高の権力からも自由である」ことを意味するに過ぎない。
きわめて限定された「(地方)自治」は認めつつ、連邦議会への代表権は認めず、国防・外交政策においては「連合」の名で米国政府の下に拘束するというこの制度の本質は、誰の目にも明らかだろう。
一九七六年当時の米国大統領フォードは、あえてこの地を第二回首脳会議開催の場所として選んだ。米国が一九世紀末以来プエルトリコに対して行なってきている植民地支配の現実からすれば、この頭越しの決定は、プエルトリコ独立派から見て、「権力の横柄な誇示」であり「プエルトリコ人を侮辱するこころみ」であり「友人を他人の家に勝手に招待するやり方だ」(註1)でしかなかったのは当然であろう。
一方、当時、「自由連合州」維持派や州昇格派(米国の五一番目の州に「昇格」することを目指す人びと)が多数を占めていたことも確かであった。その人びとからすれば、開催地に世界的な耳目が集中するこの決定に心をくすぐられ、自分たちの地が重用されていると感じるには十分なものであったであろうことも想像にかたくない。
数カ月後に行なわれる大統領選挙において、本土に住む二〇〇万人を越えるプエルトリコ系市民はもちろん、急増するラテンアメリカ系市民の支持を獲得するという狙いもあったにちがいない。
なにしろ、前年=一九七五年の四月、米国は一九六〇年代半ば以降たたかってきたベトナム侵略戦争に全面的に敗北していた。第二次大戦や朝鮮戦争の場合と同じようにここでも、プエルトリコから徴兵され犠牲となった兵士の数は、人口比率から見て他の州よりもはるかに多かった。その「失地」は、すみやかに回復されなければならなかったのである。
他にもいくつかの思惑はあっただろう。いずれにせよ、当時の米国および世界の政治・経済状況を総合的に分析し、その網の目の中に巧みに配置するものとして、会議開催地サンフアンの決定はなされたにちがいない。
ところで、プエルトリコは、沖縄で基地撤廃運動に取り組む人びとや沖縄の自立を構想してきている人びとのあいだでよく参照され、その歴史過程と現状の共通性に着目して「もうひとつの沖縄」と称される場合も稀ではない地域である(註2)。
第二六回目(二〇〇〇年)の首脳会議が、主催国・日本の政府の意向で、首都でもなく、近代国家・日本の形成過程で「前向きの」役割を果たしたとは一般的な歴史観のなかでは捉えられてもいない沖縄・名護で開催される予定であることを思うとき、前例のプエルトリコに沖縄を透視し、また沖縄にプエルトリコを透視する往還作業の必要性が、ある必然性をもって生まれてくるように思われる。
とりわけ、今回の決定を行なった日本の首相が、学生時代には沖縄の本土復帰運動に関わったなどとことさらに回顧/懐古し、沖縄への「特別な思いがあるからこそ」その地を「桧舞台に揚げる」決定を行なったなどという「美談」が演出されたり、同じ人物が沖縄を舞台とした中江裕司監督の「ナビィの恋」をいい映画だと称揚するような「お話」がふりまかれているときには……。
同時にまた、一九九九年四月、プエルトリコ・ビエケス島で、駐留米国海兵隊が「誤爆」事故を起こし、それを大きな契機に反基地闘争が高揚し、米国政府をいったんは演習停止、さらには演習場使用停止も検討せざるを得ないところまで追い詰めながら、「自治領」知事の「裏切り」によって演習再開の合意に至っているという昨今の過程を知るときには……。
ここでは、プエルトリコがたどった歴史をふりかえり、米軍基地撤廃をめぐる昨年来の動きを、ごく断章的にまとめておきたい。単なる経済事象として終わることのないグローバリズムが、唯一正当な原理として力まかせに世界を覆い尽くそうとするとき、それに抗する力は、或る地域ないしは現場、総じて〈場〉【ルビ:ローカル】というべきものに依拠してしかありえない。
そのことを確認することは、〈場〉の担い手相互の間に共感と連帯感を、したがってヨリ強い抵抗運動を生み出すよすがになりうるかもしれない。
(二)
西方はハイチとドミニカ共和国から成るエスパニョーラ島、東方は米国領ヴァージン諸島ーー【二倍ダーシ】というように二島に挟まれて、カリブ海域北東部に位置するプエルトリコ(本島および周辺のいくつかの小島から成る)は、面積でいえば四国の半分程度で、人口は三八〇万人である。米国本土には二〇〇万人以上のプエルトリコ出身者が生活していることについては、すでに触れた。
つい五世紀有余以前までは先住民族・タイノ人が生活していたこの地域一帯が、近代以降現在に至るまでたどった歴史を顧みるとき、ひとは、人間が作り出した歴史の、おそらくもっとも無惨な形のひとつがここにあると思わずにはいられない。
カリブ海域と近代といえば、即座に思い出されるのが、ラス・カサス(一四八四〜一五六六)の『インディアス破壊を弾劾する簡略なる陳述』(現代企画室版、および岩波文庫版)であろう。
そこでは、プエルトリコの当時の呼称=サン・フアンに関する部分はきわめて少なく、文庫本でも、ハマイカ(ジャマイカ)と合わせた記述で一頁に収められている程度である。だが、ラス・カサスは、スペイン人たちはここでも「目をそむけたくなるような暴虐を働き、犯罪を重ね」「殺戮・放火・火あぶり、はては獰猛な犬に投げ与えるなどインディオに対して犯罪を重ねたあげく」、生き残った者に対しても鉱山での強制労働につかせ拷問をくわえたので、「とうとう、あの不幸な無辜の民を絶滅させてしまった」と記している。
「(サン・フアンとハマイカの)二つの島には、かつて六〇万人以上、いやおそらく一〇〇万を越える人々が暮らしていたというのに、いまや、それぞれの島に二〇〇人を見るのみである」(現代企画室版、石原保徳訳)。
サン・フアンは、いわば石原が言う「死者の島」として、つまり「根源的な批判力をはらむ空間」のひとつとして、それ以降の世界史を見続けている場であると私たちは意識せざるを得ない。
それだけでは、ない。その後サン・フアンは「富める港」を意味するプエルトリコと呼ばれることになるが、プエルトリコは(同じカリブ海域のキューバと共に)、他の多くのラテンアメリカ地域がスペインからの独立を遂げた一九世紀前半以降もなお、同域におけるスペイン帝国の橋頭堡として機能することになる。
そして一九世紀後半、この二国にも独立の気運が高まり、(キューバを軸に)対スペイン独立の運動が頂点にさしかかったときに、米国はこれに軍事的に介入し、キューバ独立闘争の局面を「米・スペイン戦争」に変えてしまった。勝利した米国は、キューバやプエルトリコやフィリピンの独立運動の主体を無視し、スペインとの間に「講和条約」を結んだ。
スペインは、それまで植民地支配していたフィリピン、プエルトリコ、グアムを米国に「売り渡した」。一八九八年、プエルトリコを軍事占領した米軍を指揮していたのは、総司令官ネルソン・マイルズだった。
アメリカ・インディアン史に詳しい人ならすぐ思い出すように、彼は八年前の一八九〇年、第七騎兵隊司令官として、スー民族のシティング・ブル(かのカスター将軍の率いる騎兵隊を全滅させた)とその家族の謀殺に関わり、また同じ年のウンデッド・ニーにおけるインディアン虐殺事件を指揮した人物である。
ネルソン・マイルズは、こうしてインディアンの「征服」によって西部開拓史に終止符を打ち、西海岸から東海岸に至る大帝国を完成するに「功績」のあった人物である。その彼が、米国の海外進出の開始を象徴するプエルトリコ侵攻を指揮していたことを、私たちはしっかりと記憶をとどめておく必要がある。
(三)
米海軍は、連邦議会の決定と連邦裁判所の許可に基づき、第二次大戦中の一九四一年、プエルトリコのビエケス島の三分の二の面積を強制収用した。住民は告知から二四時間の猶予を与えられただけで、拒否しても強制的にブルドーザーで家屋を破壊されたという。
淡路島の五分の一の広さに、九三〇〇人が住む島である。僅かな面積の住民居住地区を挟んで、演習地と弾薬貯蔵地が広がる。本土以外では最大で、大西洋艦隊にとって実弾が使える唯一の演習地で、年間一八〇日以上、戦闘機爆撃や上陸演習など実戦訓練が行なわれている。
主要に使用するのは米軍だが、NATO加盟国軍も使用している(註3)。
このために、島の主要な経済活動であった砂糖工場とサトウキビ農場は潰された。人口比率からいって驚くべき数の人びとが本土に出向いている背景には、こんな事情があることを忘れるわけにはいかない。
一九九九年二月、ここで米軍は劣化ウラン弾二六三発を「誤って」発射した。同四月には、ユーゴ空爆の訓練飛行を行なっていた米軍機が五〇〇ポンド爆弾二個の「誤爆」を行ない、島民一人が死亡し四人が負傷した。
演習場内にキャンプを張って演習中止を求める住民の抗議運動の高まりを前に、米国大統領は訓練続行の是非を検討するための特別委員会を設置せざるを得なくなった。委員会は公聴会も開き、九九年九月二二日には、プエルトリコから一名だけ選出される四年任期の下院議員で、投票権を持たない本国駐在のプエルトリコ弁務官が証言している(註4)。
その人物は一九七〇年代後半に知事も務めたカルロス・ロメーロ=バルセロだが、彼は 「連邦議員選出権を剥脱されているプエルトリコに住む三八〇万人のアメリカ市民を代表するただひとりの人間である」と自らを規定する。
彼は、二〇世紀に米国がたたかった戦争のすべての局面にプエルトリコ人がつねに兵士として存在していたことを国防任務上当然だと考える立場にある人物ではあるが、それだけに、「アメリカの伝統である正義、平等、公正の精神」に訴えて、プエルトリコ人が被ってきている差別的な扱いに潜むアメリカ社会の欺瞞を指摘しており、その限りでは強い説得力をもっている。
「(ビエケス島の演習場の必要性を強調する海軍関係者の証言は印象深いが)その報告が明らかにしていることは、ビエケスこそ万全の条件を提供できる唯一の【唯一の、に傍点】場所であるということではなく、米国海軍にとってビエケスが最も好都合な【好都合な、に傍点】場所だということでしかありません。海軍の方たちが気にかけておられないことは、ビエケスに住むアメリカ市民にとってはそこが最も不便な場所でなっているということなのです」。
「問題は単に、海軍がビエケス島で演習を継続すべきか否かに留まるものではないのです。問題はむしろ、連邦議員の選出権をすら奪われているアメリカ市民の一集団が、事故の心配や不安を絶えず抱え、自らの生命を危機を晒しながら国防と軍事的即応態勢の重荷を担っている一方、この国の他の市民集団は平時にこれと同じ重荷を背負うことを要求されないのは、なぜかということなのです」。
(海軍が住民の意志を無視して、事故の危険性への適切な対応を怠り、環境上の配慮・水産資源や水資源の安全性の確保・動植物相の保全などを蔑ろにしてきたのは)「私たちが連邦議員の選出権を持たないアメリカ市民だからです。私たちは、五〇州のアメリカ市民がすべからく享受している基本的権利と庇護、すなわち、国の統治や政治過程に参加する権利を持たないからです」。
これらの証言や審議をうけて米国大統領は一二月三日、以下の諸点を明らかにした。@二〇〇〇年三月には模擬弾による演習を再開するが、住民の合意がない限り五年以内に演習を中止し、代替地を探す。A訓練期間は現行の年間一八〇日から九〇日に減らす。B演習の継続が認められるなら、ビエケス島の「経済開発」のために四〇〇〇万ドル(およそ四〇億円)を支出する。
@の後段は、米国政府の従来の路線からすれば画期的ともいえる要素を孕む提案だとする見方もありうる。だが住民は仕掛けられた「罠」を感じとったのだろう、即時基地撤去要求に対応していないとしてこの提案を拒否した。プエルトリコ知事ロセジョですらこれに同調した。
過程はいまだ詳らかにしないが、ここで米国政府の激しい巻返しが始まったであろうことは容易に想像できる。海兵隊司令官が公聴会で述べたように「もし米国が、自国の領土内での訓練を許さないならば、(米軍が駐留する)他国の国民は、どうして米国はその国での訓練を許すよう求めるのかと問うだろう」。
同じ質の問題を抱える沖縄などへの波及を恐れた彼らは、知事の抱き込みを図ったのだと推定できよう、明けて二〇〇〇年一月三一日、米国大統領は、プエルトリコ知事との合意に基づいて、以下の指令を発した。
@住民投票を二〇〇一年五月一日前後の二七〇日以内に行なうが、その日程は海軍の発意で決める。A選択肢は、基地撤去か、それとも基地と実弾演習継続か、である。B基地撤去が選択された場合には二〇〇三年五月一日までに撤去する。継続の場合には五〇〇〇万ドルの援助を追加する。C住民投票までの期間は、模擬弾で年間九〇日を上限として訓練を行なう。
知事はこれに同意した理由として、住民投票による米軍撤退の期日が明確になったことを挙げている。毎日新聞一月一七日付けワシントン発布施広記者の記事も、「住民投票で『撤去』の民意が示されるのは確実で、訓練場は閉鎖の方向で固まったとの見方が強い」と述べている。
演習再開反対で一致した活動を展開してきた住民運動や政党のなかにも、合意に賛成あるいは反対しないとの態度を表明するものも出始めた。
他方、米国政府ないし海軍との従来の約束が何度も反古にされたことを記憶する人びとや、海軍主導の住民投票なるものが、選択肢の問題を含めて民主的なものになるはずがないと警戒する人びとは、知事の「裏切り」に反発するとともに、州の権限であるはずの住民投票を大統領指令で押しつけることは、やはりプエルトリコをみくびった「独裁者のふるまいだ」として米国政府批判の声を挙げている。
実際に、米海軍が一九九九年に行なった研究では、模擬弾は精度が低く、これを使用した演習は一般住民への危険度がヨリ大きいことを明らかにしていた。「危険な演習を即時停止せよ」という要求に対して、実弾ではなく模擬弾による演習に代えるという対案のごまかしが、このことからもわかる。
そして、失業率の高さに苦しむ住民に対して「基地継続を承認するなら、総額九〇〇〇万ドルの地域振興資金を供与する」という政策を示せば、住民投票が行なわれるまでの期間に、現在は不利な形勢を逆転できるとの読みがあるのだろう。
(四)
以上が、決して多いとは言えないいくつかの情報源に基づいてまとめた、一九九九年四月以降現在に至るプエルトリコの状況である。二月末には、米国政府がプエルトリコ知事をホワイトハウスに招き、ビエケス島の米軍基地のごく一部(一一〇エーカー)の返還式を行なったというニュースも伝わってきた。
日米両政府が大々的に宣伝した「普天間基地返還」のからくりを思い起すならば、一九四一年以来使用しているビエケス島の基地機能のなかには、もはや現代の戦争行為に耐えることのできない旧式のものもあるだろう。それらの土地を選択的に取り出し、恩着せがましく「返還」することに、米国政府・海軍は何らの痛痒も感じないだろう。
かつて矢下徳治はこう書いた。「亜熱帯気候とサトウキビ、巨大な軍事基地と石油基地、その島嶼性……。プエルトリコは沖縄にあまりにも似ている。
似ているのは現象面だけではない。スペインから合州国へ支配者を変えつつ植民地支配を強いられてきたプエルトリコと、清ー日本ー米国、そして再び日本を支配者として植民地支配を継続されている沖縄とは、その民族問題の位相においても今日的課題においても近似性・共通性はたいへん多いのである」。(註5)
二〇〇〇年のいままた、正念場を迎えている米軍基地撤廃をめぐる問題の構造と事態の経過についても、上に見たように、両者の間には著しい近似性があることを私たちは感じとることができる。この相互認識が、沖縄とプエルトリコの「当事者」でない者も巻き込んで、軍事的「グローバリズム」に対する〈場〉の抵抗を創りだすことができるように、力を傾けたい。
(註1)引用は、しんぶん赤旗二〇〇〇年二月二〇日付け「潮流」欄より。
(註2)矢下徳治「『北方の巨人』の影におおわれるプエルトリコ」(原広司ほか『インディアスを〈読む〉:世界史の舞台として』、現代企画室、一九八四年、所収)。なお、関連書に以下のものがある。
比嘉良彦・原田誠司編『沖縄経済自立の展望』(鹿砦社、一九八〇年)
新崎盛 ・川満信一・比嘉良彦・原田誠司編『沖縄自立への挑戦』(社会思想社、一九八二年)
(註3)毎日新聞一九九九年一一月二六日付け、ワシントン発中井良則記者記事。
しんぶん赤旗二〇〇〇年一月一日付け、ビエケス発西尾正哉記者記事。
(註4)私はこのことを、一九九九年九月二四日付けインターネットのAML(オールターナティブ・メーリング・リスト)への青木雅彦氏の投稿によって知り、http://www.house.gov/hasc/testimony/106thcongress/99-09-22romero.htmで検索してみた。
(註5)前出「註2」に同じ。
(2000年3月6日記) |