現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20~21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
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◆ペルーと日本政府・民間レベルの関係の闇・アルベルト・フジモリ「新聞・テレビ各社毎の独占会見」を読む

◆シモーヌ・ヴェイユ「革命戦争についての断片」再読

◆「革新疲労からの脱却」という選挙スローガンについて・高良倉吉ほか著『沖縄イニシアティブーー沖縄発・知的戦略』を読む
 
◆文芸春秋編『私たちが生きた20世紀』を読む

◆船戸与一著『午後の行商人』文庫版解説

◆「個」を脅しつける「体制」の論理
曽野綾子「日本人へ:教育改革国民会議第一分科会答申」を読む


◆小倉英敬著『封殺された対話:ペルー日本大使公邸占拠事件再考』書評

◆「ソ連論」で共感し、「日本論」で異論をもつ・内村剛介『わが身を吹き抜けたロシア革命』を読む

◆日の丸、君が代が戦争したわけではない?・加地信行編著『日本は「神の国」ではないのですか』を読む
  
◆書評:小倉英敬著『封殺された対話:ペルー日本大使公邸占拠事件再考』

◆「帝国主義と民族の問題」を捉える方法を先駆的に示す・玉城素の『民族的責任の思想』

◆「現実的とは何か」をめぐる、大いなる錯誤 高良倉吉らの「沖縄イニシアティヴ」を読む 

◆図書新聞アンケート 「2000年上半期刊行図書の収穫」

◆キューバ革命とラテンアメリカ文学

◆漫画を使わず「言葉を尽した」本の、ファン向け専用トリック・小林よしのり「「個と公」論」を読む

◆受難と抵抗

◆書評:峯陽一著「現代アフリカと開発経済学:市場経済も荒波のなかで」

◆他山の石としての「ハノイ・敵との対話」 東大作著「我々はなぜ戦争をしたのか」を読む

◆新しい衣装の下に透けて見える守旧的立場・河野雅治著「和平工作:対カンボジア外交の証言」を読む

◆プエルトリコに沖縄を透視する

◆多様性しめす「場」の叛乱----エクアドル先住民族の動きに触れて

◆書評『世界変革の政治哲学:カール・マルクス……ヴァルター・ベンヤミン……』

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他山の石としての「ハノイ・敵との対話」
東大作著「我々はなぜ戦争をしたのか」を読む      
「派兵チェック」2000年4月号掲載
太田昌国


 1998年 8月 2日NHK総合テレビで放映されたNHKスペシャル「我々はなぜ戦争をしたのかーーベトナム戦争・敵との対話」を、私は都合で後半の一部分しか観ることが出来なかった。それでも深く印象に残り、いつか全体を観たいと思っていたが、その機会もないままに時間は過ぎた。

 ところが、そのテレビ番組を企画したNHKのディレクターが、この番組の製作に至る過程と論議の内容を明らかにし、補強取材を行なって一書にまとめたことを知って、さっそく読んでみた。

 東大作著『我々はなぜ戦争をしたのかーー米国・ベトナム 敵との対話』(岩波
書店、2000年 3月刊)である。

 NHKという大組織の中で、一地方局で仕事をしていた著者が、この番組を具体化するに至る過程で生じた、人びととの出会いの偶然と必然を語る冒頭部分が、まず面白いが、それはともかく、ソ連崩壊という衝撃的な事態の後で始まった「仇敵間の対話」が孕む問題こそが大事であり、私たちに語りかけるところが多いと思える。

 ペレストロイカ期のソ連と米国の間では1987年に、両国の研究者と政策立案者が集まり、1962年のいわゆる「キューバ・ミサイル危機」をめぐる討論が行なわれたこともあった。

 それは、いわば当事者であるキューバを除外したふりかえりの場であった。だがソ連崩壊後には元米国国防長官マクナマラもハバナへ赴き、カストロも参加してハバナ会議が開かれ、「ミサイル危機」に至る経過をそれぞれの立場からふりかえり、相手の証言と付き合わせるという作業が行なわれた。

 冷戦構造終結後の世界では、こうして、かつての「敵」同士の対話が思いがけない形で実現している。一方か、あるいは双方が、もはや政治・外交・軍事の現場にはいないという条件がそれを可能にするのだろう。

 ベトナム戦争に関してこの気運が生まれたのは、ベトナム戦争遂行の最高責任者のひとりであった人物が回顧録を書いたことに始まる。

『マクナマラ回顧録ーーベトナムの悲劇と教訓』である(原書1995年4月刊、日本語訳は共同通信社から1997年刊)。マクナマラはここで、ベトナム戦争は米国が犯した過ちだったと認めた。

 これに対しては当然にも、「ベトナム戦争における5万8千人もの米兵の死は、誤った目的のための無駄死にだったというのか」という、日本社会でも馴染み深い論難が数多く浴びせかけられた。私は、(米国内左派も批判しているようだが)彼が自己批判したとはいっても、自らの過ちをヨリ良く見せかけようとする詐術がはたらいていることを感じとらざるを得なかった。

 だが、この本の刊行を契機に事態は動いた。折りしも原書刊行から4ヵ月後の95年8月、ベトナムと米国は国交を樹立した。マクナマラは、ベトナム戦争はなぜ起き、それぞれの局面で双方はどう情勢を判断しており、戦争を回避する手立てはあったのかをベトナム側の指導者と話し合いたいと考え、側近を介してベトナムにはたらきかけていた。

 一方、ベトナム政府高官はマクナマラ回顧録を輪番で読み、彼の「反省」の率直さに驚いた。  

 やがてベトナム語に翻訳された同書は、ベトナムの一般の人びともこぞって読むベストセラーとなった。ベトナム側はこれらの情勢を見ながら、最重要課題である経済の発展のためには米国の高度な技術と資本を必要としている現状に鑑みて、対話に応じることにしたようだ。95年11月マクナマラのハノイ訪問を手がかりにして、97年6月、両国の当時の政策決定者が一堂に会しての「ハノイ対話」は行われた。

 この対話には学びとるべきことがたくさん含まれているように思える。たしかに、マクナマラ回顧録に感じたように、米国側の「反省」なるものが、時に盗人猛々しい物言いになる傾向は隠しがたい。

 それはマクナマラ自身の「ベトナムの指導者は、同胞の命のことなどまったく考えていなかったのではないか。同胞の死傷者の数を減らすことなど念頭になかったからこそ、戦争を早期に終結させる話し合いも拒否したのではないか」という発言で頂点に達する。

 瀬踏み交渉のなかでも北爆を続行しておいて、「これを認めなければ爆撃を続けるぞ」という物言いが、一方的に戦場にされている側から見てどう捉えられるかが、マクナマラにはついに理解しがたい地点なのだ。軍事行動を増大させつつ交渉のチャンネルを開こうとすることに、合理性をしか見ないところにマクナマラたちはいる。

 ベトナム側の憤りは当然にも強いが、対話を続けようとする意志によって辛うじて彼らは冷静さを保つ。

 著者自身もこの発言には驚き、対話が終わった後でマクナマラに本意を質問している。だがマクナマラは動じない。「もし私が北ベトナムの高官であったなら、米国の提案について交渉を開始し、和平達成の努力をしただろう」と断言する。かつて自らが関わった対ベトナム政策を「反省」しているマクナマラにしてこの水準の認識なのだということを確認することは大事なことだ。

 イラクやコソボの例を思い起こしてみても、一方的に「われわれの提案を認めない限り、爆撃を続ける」というに等しい対外政策を、米国は採り続けているからだ。

 にもかかわらず、このハノイ対話の意義は大きい。対話は、両者がいかに「敵」のこと(歴史・現実・意志)を知らなかったかを明らかにしている。

 過去の失敗をそれぞれ語り、その原因を究明し、(米国側はいまだ無自覚だとはいえ)責任のありかを明らかにする努力が、ここでは行なわれている。一見敵対している者同士の間でも、水面下では対立解消に向けての努力がなされる時期があることは、韓国・北朝鮮首脳会談の決定の報を見てもわかる

アジア太平洋戦争という歴史的過去に関して、そして現在の平和に関わって日本社会がどうするかという意味で、ハノイ対話は他山の石だと言える。

                        (2000年4月11日記)

 
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