前首相・小渕の発案で首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」(座長・江崎玲於奈)が設置され第一回会合が開かれたのは、2000年 3月のことだった。小渕の死後、それは現首相の諮問機関として引き継がれ、去る 7月には早くも分科会報告がまとめられた。
そこで「小・中学生には二週間、高校生には一ヵ月の奉仕活動を求め、将来的には、満18歳の全国民に一年間の奉仕活動などを義務づけること」を提言したことは、すでに報道されている。前国会における首相・森の所信表明演説でも「学校教育に奉仕活動を導入する」ことの大切さが強調されていた。
この諮問機関の中間報告原案が公表されるのは、来る 9月22日だが、それに先立って、いくつもの観測気球が上げられ始めた。 9月末ギリギリに発売された『諸君!』10月号には、曽野綾子の「日本人へーー教育改革国民会議第一分科会答申全文」なる文章が載った。
「日教組的教育がおかしい」と感じていた曽野は、それでも「日本人の賢さと小器用さが、何とかその毒素を受けるのを防いでいるのだろう」と期待して委員を引き受け、答申案下書きの起草を担当したものらしい。
続いて、 9月 5日に記者会見した文相・大島理森は、国民会議が答申するであろう「奉仕活動を充実させる」という考え方は「文部省の方針にものっとるものだ。
首相からも来年の通常国会に照準を合わせて準備をしていくべきだと話があった」と語った。これら一連の動きをまとめた朝日新聞は、同月 6日付の紙面で、「政府・与党は、小・中・高校生にボランティア活動を義務づけるための関連法案を、来年の通常国会に提出する方針を固めた」と報じた。
この記事は「どのような奉仕活動を義務づけるのか」をめぐる議論は今後の詰めの問題としながらも、この「規定方針」の路線を走り始めた与党幹部のあけすけな発言をいくつか紹介している。曰く、奉仕活動の分野は「消防団でも、予備自衛官でも、介護でもよい」。
曰く、奉仕活動の義務化に「世間の親は反対しないだろう」。曰く、「ボランティアをやらないと大学も入れない。就職も認めない」 先に「観測気球」とは言ったが、打ち上げている側は、十分に昨今の情勢を読み込んで(=観測して)かなりの自信をもってこれらを行なっているように思える。
凶悪な少年犯罪の多発、学校教育現場の荒廃といった、誰の目にもわかりやすい現実は、これに「対応する」(かに見える)政策を政府が採用することを容易にしている。
同じ 6日の紙面で報道されている「少年法改正問題で、与党三党は、刑事罰適用年齢を現行の『16歳以上』から『14歳以上』に引き下げることで基本的に合意した」との方針も、「世間の親」は一般的に「重い罰則規定が、犯罪抑止効果をもつ」と考えやすいことを利用している動きだと言えるだろう。
朝日新聞政治部・阿部記者は「強制力をちらつかせ、義務だといってやらせる」奉仕活動のあり方に、当然の危惧を表明した( 6日付解説記事)。
吉本隆明は、自分の体験でも「義務づけられた勤労奉仕は工科大学生として徴用動員をされた時だけで、後は農村動員、雑作業の奉仕も学校単位の決定にゆだねられていた」として、「神聖天皇制下の軍国主義の戦争期に勝るとも劣らぬファッショ的な統制を、いやしくも江崎ダイオートの発明と開拓を推進した江崎氏のような科学者をチーフとする人々が決議」することは許されるべきことではないと論じた(朝日新聞 9月10日付)。
吉本特有の「科学者に備わっているはずの科学性」に対する相も変らぬ信仰告白と、このような方針が提起されようとしているのは「労働力不足」によるものだと吉本が判断して批判しているのは、見当違いもはなはだしい思うが、「青少年の非行防止のつもりなら、とんだ見当違いで、まず自分たち大人の非行、暴挙を即座に撤回すべきだ」とする結論に、異論はない。
公式発表に先んじて『諸君!』10月号に曽野綾子が寄稿した答申案を読んでみる。官僚指揮下の政府審議会では、自分のような小説家の文章の出番はないが、今回は「ことが人間性の問題なので」自分の文章でもいいだろうと考えた、と曽野は言う。
曽野に「人間性」など教わりたくないと考えている私には、「日本人へ」という、答申案の堂々たるよびかけも含めて、傍迷惑な「自信」である。
だが、たしかに、政府審議会答申案にはめずらしい文体の文章ではある。部分的には、いくぶん情緒的でもある。青少年の現状に対する怖さ、教育の現状に対する不満を抱えている「世間」には、それなりに受け入れやすい「雰囲気」はもっているので、それが果たしうる意味を軽視しないほうがよいと思う。
答申案は、社会性と世界性の欠如を特徴としている。大人が作り上げた社会への反省めいた言葉はある。
物質的な豊かさで失われた人間性への言及という、見慣れた風景もある。「地球上の多くで、子どもも大人も生きるために働いている」という、世界を見つめた文言もある。
それらが、有機的な構成の中で論理的に分析されることはない。垂れ流しのような文章として続くだけである。
その挙句末尾には「誰があなた達に、炊き立てのご飯を食べられるようにしてくれたか。誰があなた達に冷えたビールを飲める体制を作ってくれたか」という表現がくる。
私的領域の問題に、「体制」が、つまりは国家が顔を出し、「個」を脅しつける構造が透けて見える。
抽象的に感慨に耽る文章の中で、突然のように現れるのが「奉仕活動義務化」の方針なのだが、唯一具体的な「指針」がこれだけだという点に、「科学者」江崎や小説家・曽野らが、「体制」の意をうけてまもなく発表する「答申」の本質があると言える。
|