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シリーズ《60年代の思想》を読むE
「帝国主義と民族の問題」を捉える方法を先駆的に示す玉城素の『民族的責任の思想』 御茶の水書房・1976年発行(現在絶版) |
「ピープルズ・プラン研究」3巻3号(2000年7月)号掲載 |
太田昌国 |
私自身のふりかえりとして、実感的にしか語ることができないが、一九六〇年代半ば、六五年の日韓条約反対闘争を経てもなお、日本の社会運動において「帝国主義と民族の問題」を自覚的に捉える方法は希薄だった。
しかし、その状況が根本的に変わるのは、つい数年先に待ち構えていた、と大急ぎで付け加えることができる。
それを可能にした理由はふたつある。ひとつには、眼前に展開する世界史(世界情勢)の具体的な動きから受けた刺激である。
ベトナムの抵抗戦争、ブラック・パワーやレッド・パワーなど米国内の被抑圧諸民族の解放闘争、キューバ革命の新たな展開など同時代の動きが、近代における帝国主義形成の過程をふりかえり、そこで「民族問題」がどのように派生したかを問わずにはいられない場に、私たちを導いたのである。
ふたつめには、それを解明する理論装置が提供されたことにある。世界的な規模の問題は別に譲るとして、ここでは、私たちの足元である東アジアの問題としてふりかえる。一九六五年、在日朝鮮人歴史研究者、朴慶植が『朝鮮人強制連行の記録』を刊行した(未来社)。その二年後の一九六七年、日本人歴史研究者、玉城素は『民族的責任の思想:日本民族の朝鮮人体験』を出版した(御茶の水書房)。
この二冊の本が、「帝国主義と民族の問題」を私たちに提起した、数少ない本の代表格であるが、今回は玉城の本をのみ取り上げる。
「日本民族の朝鮮人体験」とは、奇妙な表現である。経験に固執しその理論的一般化を怠ることの危うさを、玉城は知っている。悲惨で残酷であった日露戦争の旅順口戦闘が、体験した兵士の物語として流布すると、それは「日本民族の誇りと愛国的熱情の賛美」に結びつき、次の戦争を準備するイデオロギーと化したが、その轍を踏みたくないと自らに言い聞かせる。
そこで、「共有の歴史的体験を基礎とする民族という集団」が、異質の歴史を背負う他民族とのあいだの矛盾を意識し、問題化し、思想化する方法が、いくつもの視点から試みられる。
玉城が本書に収められた文章を書き綴っていたのは、一九六〇年から六七年にかけてである。一九四五年の日本「帝国主義」の敗北、それによる朝鮮「民族」の独立から数えて一五年から二〇数年しか経っていない段階である。
いきおい、問題提起は簡潔明瞭になされる。「朝鮮という存在は、日本民族の『原罪』の位置にある」。「朝鮮支配に直接的な責任を有する人びとが、天皇をはじめとして日本の指導層・支配層のうちに存在することをゆるしているあいだは、日本のどのような個人も、戦後に生まれた若い世代も、朝鮮人に対して同罪である」。
これらの断定は、しかし、「責任の範囲」、「責任をとる」行為の具体性、そこにしのびこむ可能性のある「家父長的責任意識」などをめぐる、うねるような思考回路を経てはじめて、なされる。
「体験」を持たない世代の出現が、民族的責任論を無効にしかねない、未来への予感もある。このように、論議のための諸条件には十分に目配りがきいており、三〇年以上を経た現時点での味読にも堪える。
「近代日本における朝鮮人体験」と題する論文における歴史認識にも見るべきものがある。古代の神功皇后、封建時代中期の豊臣秀吉、近代はじめの松蔭と隆盛などが、侵略イメージの対象として朝鮮を描いた時代は、「以前より強力な統一国家として」まとめあげようとした時期に当たると指摘する。
日清・日露戦争に関する記述については、左翼や進歩派の歴史家も、ずいぶんと危うい橋を渡ってきた。
西欧列強のアジア進出を前にして、これ以外の道はあったか、という記述になりがちで、結局は日本ナショナリズムの擁護へと行き着くのである。
玉城はちがう。「朝鮮の独立」とか「極東の平和」との美名に飾られたふたつの戦争は、朝鮮をいかに清国とロシアの影響から切り離すかという日本の計画に端を発し、韓国併合に至ったこと。二大国に戦勝することで日本人の優越感は膨張し、その後のアジア侵略を準備したこと。
二国との戦争においては、朝鮮はいつも勝手に戦場かつ日本軍の通路にされたが、それは単に朝鮮の地理的位置によるというより、そこに独立の民族がいることが、日本軍の考慮にのぼっていなかったことーーなどを的確に指摘している。
「現代日本における朝鮮人体験」は敗戦後の時期を扱っている。ポツダム宣言の受諾によって自動的に日本の朝鮮支配に終止符が打たれ、米国占領下で日本と朝鮮のあいだが遮断されたとういう外面的事情はあるにせよ、そこを越えて歴史的な解明を試みようとする。
敗戦時朝鮮に居住していた日本人の手記が参照され、庶民の感慨と知識人のそれの違い、共通点、限界の分析がなされる。
日本の知識人の「近代主義的善意」に対して、朝鮮の貧しい民衆の「あたたかさ」が対置されるのは図式的に過ぎると見えようが、前者を批判するためには止むを得ない時期だったのかもしれない。
戦後、宮城県に生活した玉城が共産党員として在日朝鮮人と接した時の内省も書かれている。
日本共産党の朝鮮人に関わる利用主義的方針には、皇民化や内鮮一体を唱えて侵略戦争に朝鮮人を動員した支配層のやり方と、思想構造上では共通していたという指摘もある。これは、すでに知られて久しいことだが、社会を覆う大国意識・先進国意識が社会変革を志す者にも及ぼす影響力の問題は、今後も私たちにとって避けがたいものとして残るだろう。
この問題についてはさらに「日本共産党の在日朝鮮人指導」と題する一章が設けられている。
私自身、世界革命運動情報編集部として、「在日朝鮮人共産主義運動文書集」の編集に玉城に少し遅れて取り組んだことがあるので、新しい問題意識が生まれてくることの同時代性とでもいうべきものをあらためて感じて、深い思いが残った。
ほかにも「日韓交渉をめぐる思想と運動」「朝鮮戦争とベトナム戦争」など、いま読み返すと、新しい状況の下、玉城が書いたときとはちがう課題としてせり上がってくるものもあることがわかる。
終章「差別から連帯へ」において、玉城はいくらか抽象的な思弁のレベルで、「民族的責任の思想」を総括的に論じようとしている。玉城は、たとえば次のように自分の場所を提示する。
(一)世界で起きているあらゆることの責任をひとりの人間が負うことはできないが、選択がなされるときにはかならず責任が生じる。生きるということは、選択の連続だ。
(二)市民の自然的な平等と自由というフィクションは、社会の外延部に、異人種・異民族を差別対象として設置することで、可能となる。被差別者の反逆こそ、鍵だ。
(三)政党や軍隊として自己を組織せず、国家に依拠しない、差別を根絶するための世界的連帯の運動としての永続革命と全体革命。
その後の玉城の仕事は、あまり知らない。佐藤勝巳を編者代表とする『韓国・朝鮮 そこが知りたい』(亜紀書房、一九八七年)と題する座談会での発言は、刊行まもなく読んだ。論じているテーマはちがい、座談の気楽さもあるが、二〇年前の『民族的責任の思想』での立場とは、ずいぶんとちがう場所に行ったな、という感想をもった。
いまさら、それ以上詮索するつもりはない。玉城の一九六七年における仕事が、その時代に独自の意義をもち、三〇数年後のいまも語りかけるところが多ければ、私たちはその地点で、残された課題に取り組めばよいのだと思える。
その意味で、上の規定は、いかにも六〇年代風のそれで、懐かしさをおぼえる。世代の若返りが一段と進行した現在、「自分の身におぼえもない植民地支配責任や戦争責任なんて知らないよ」という居直り方はさらに浮上するだろう。
玉城の先駆的な仕事を、この新しい状況下でどう豊かにできるか。討論を深めたいものだ。
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