河野雅治著『和平工作:対カンボジア外交の証言』という本がある。1999年12月、岩波書店から刊行された。
本に巻かれたいわゆる帯の惹句には「冷戦後の国際社会の風向きを読み、戦後初めて日本が仕掛けた和平外交。外務省のキーパースンが明かす舞台裏の真実」とある。また「時代の風を読みとれ。外交ゲームの本領」とも言う。著者は外務省の現アジア局参事官であり、参考までに記すと、現在51歳。
ここまで書けばおわかりだろう、東西冷戦体制の崩壊を大きな契機にして起こった国際環境の変化を受ける形で、長いあいだ内戦に苦しんできたカンボジアに平和をもたらすという目標の下に一連の国際的な試みがなされた時期があったが、本書は、自らそのプロセスに関わり、日本が画期的な役割を果たしたと考える外交官の手になる回顧録である。
時代は、和平プロセスが開始された1989年から、和平協定の成立、国連カンボジア暫定行政機構の設立、日本国会におけるPKO(国連平和維持作戦)法案成立、自衛隊のカンボジア派兵などを経て、1993年のカンボジア制憲議会選挙の実施にまで至る数年間である。団塊の世代に属する著者は当時四〇歳代前半、外務省アジア局の南東アジア第一課長の任にあった。
前天皇の死、天安門事件、東欧社会主義国の崩壊の始まり、イラクのクウェート侵攻、ベルリンの壁崩壊、湾岸戦争、ソ連崩壊……と続いた、私たちにとっても忘れることのできない激動の日々と同時代に、このカンボジア和平の試みはあった。
当時を思い起してみると、確かにたとえば1990年 6月、日本政府のイニシアティブで開かれた「カンボジアに関する東京会議」の際には、米国の影に隠れて顔の見えないと言われてきた日本が、初めて独自の外交政策に乗り出したという肯定的な評価がメディアでは一斉になされた。
カンボジア和平について各国関係者が次々と記録を書き始めている時に、日本が後手をとって競争に負けると、またしても「日本外交には顔がない」と批判されるのでそれを避けるために書いたと著者は明け透けに語っている(朝日新聞99年 1月18日付け「カンボジア和平:日本の工作舞台裏は」)。
自信と自己肯定に満ちたこの本から、いくつかの重要な特徴を読みとることができる。
(1) 河野は、カンボジア和平をめぐって日本独自の動きを模索し始めた時に、米国を出し抜いてはその逆鱗に触れると心配する周辺の声を聞いている。その後の経過は、いくらか自慢めいた、米国高官との友情・信頼物語として薄められて書かれているが、米国の傲慢な在り方から考えると想像に難くはない。
防衛協力のための新ガイドライン策定の過程に見えるように、まったく主体性を欠いた対米交渉の局面はいまだ多く見受けられるにはせよ、団塊の世代が主要な部署を占めつつある官僚機構や企業の戦略部門に、「対米追随」を問い「日本が自画像を描く」ことが必要だと考える潮流が生まれていることは確実だと思われる。
朝日新聞は2000年 1月19日付けの「日米安保調印40年」を記念する特集記事でその潮流に触れ、社説でも「したたかな(対米)交渉力」を持つことを提言している。
河野は外務省という対米追随の目立つ省内で、いち早くそこを抜け出た先例の意味合いをもつ人物なのかもしれない。企業内部に同じ例を探ると、昨今メディアへの登場が目立つ三井物産戦略研究部長・寺島実郎を挙げることができる。
全共闘運動体験もちらつかせる寺島の論議についてはいずれこの連載でも触れるが、いずれにせよ今後は、この「自立した」親米派の台頭が徐々に目立つものになるだろう。私たちはその意味で、新たな状況に直面しているのだと言える。
(2) 河野の新しさは、しかし哀しいかな、米国にいくらかは物怖じせず、自分のイニシアティブで動いた、という地点に留まる。彼が自ら「外交ゲーム」を楽しんだ様子は、確かに本書から伝わる。
それすらもが、日本の官僚世界/政府機構の中では、不思議なことに従来は見られなかったあり方かもしれないが、それ以上ではない。カンボジアがあの内戦に陥った歴史過程、それを招いた大国の責任、和平に関わる国際社会(国連)や周辺諸国の責任ーー本書で、この肝心の諸問題が問われることはない。
日米軍事同盟を堅持することも、PKOに日本が参加することも、河野にとっては自明の正しい前提である。問いは、したがって、ゲームにふさわしい程度の浅いものになる。折角先駆的な努力をしてきたのに、肝心な詰めの段階では国連常任安保理事国に委ねなければならなくなり悔しい、やはり日本は安保常任理事国にならなければならない、という結論が導かれる。
「対米自立」という新しい衣裳の下には、現代世界が抱える問題の根には届きようもない、無惨なほど守旧的で、大国主義を当然と見なす態度が澱んでいることを見抜くことが必要である。
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新たに連載が始まる。本を読むことに徹したい。他人の本を読むのだから、椎名麟三を少し真似て、「他人の穴の中で」というシリーズ名を考えたが、前例があることがわかったのでやめた。行き詰まった私に代わって、本誌編集部がシリーズ名をつけてくれた。
(2000年3月16日記)
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