小林よしのりが『「個と公」論』(幻冬舎)を出した。四月下旬から書店に出回っている。すぐに読んだ。小林の作品それ自体に対する私の評価と関心は(部落差別問題やHIV訴訟の初期段階の作品を除けば)いまも低い。
好き嫌いで言えば、嫌いだ。内容は杜撰きわまりなく、資料批判を欠いたまま、彼が先験的に望む結論に強引に行き着く資料操作が目立つ。読まずに済むなら、それが望ましい。だが、周知のように、「小林現象」とでも言うべき事態がある。漫画一般が現代の精神文化の中心に位置し、ましてや小林のイデオロギッシュな作品は、若者を中心に多数の読者を得ている。
この社会・文化・政治「現象」に無関心ではいられない、と思う。作品それ自体の魅力に惹かれてではなく、「現象」を読みとるために……とは、私が小林を読む動機は、かくも<不純>である。
私たちが真っ向から対峙すべき開明的な保守本流の立場を忖度するならば、小林のウルトラ・ナショナリズムは、彼らにとってずいぶんと迷惑な存在ではないかと思ってきた。世界を席捲しつつある「グローバリゼーション」は、私の立場から簡略にまとめると「弱肉強食」を基本原理としており、私たちはそれへの抵抗も放棄するわけにはいかない。
だが、このグローバリゼーションの流れに沿いつつ今後の日本の進路を考えようとする保守本流からすれば、基本的に「他者存在」を欠いた小林の戦争論は、その民族主義的偏狭さにおいて世界基準に合致しない。
それは、「不法入国した三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返しており、大きな災害が起こった時には大きな大きな騒擾事件すら想定される」と語った都知事や、「日本の国はまさに天皇を中心とする神の国であるということを国民にしっかりと承知していただく」などと語る現首相の発言に、ヨリ「まっとうな」保守潮流がいささか困惑している状況に対応しているように思える。
『「個と公」論』では、「十全に言葉を尽くして論破し説明するために、『漫画』の手法を一切封じた。『漫画』でわかりやすいからずるいとか、『似顔絵』を描くからイメージ操作だとか、甘えた批判の余地を除去してみせるのも面白い企みだろう」と小林は「あとがき」で言う。
確かに漫画は一枚もない。四六判・四百頁の語りが延々と続く、言葉の本である。だが、その漫画と同様、小林ファン向け専用のトリックはある。
インタビュアーの時浦兼(彼は、ある時は「日本の戦争冤罪研究センター所長」を名乗り、またある時は小林を「お師匠」と呼んで、ゴーマニズム・シリーズにたびたび登場する)が、小林の『戦争論』を批判した知識人ひとりひとりの言説をおおまかに、あるいは読み上げて詳しく説明し、それに対する小林の意見を聞く。
小林はそのすべての質問に対し、哄笑か罵倒か嘲笑かをもって、あるいは呆然、憮然たるさまで答える。小林批判に入る以前の言説に対しては、ごく稀に、「いいねえ」とか「素晴らしい」とか言って、相手をたてる余裕をもって応じる。
いずれにせよ、質問者と批判者に対して、一段と高い位置にいることを印象づける態度を決して崩すことはない。元々「ゴーマン」を売り物にする人間だが、批判者たちの本は売れても高々数千部から一万部以下にすぎないが、自分の本は六〇万部も売れたという事実が、その居直りを支えているらしいことがうかがえる。
取り上げられている小林批判の原文のすべてに私が目を通しているわけではないが、本書での引用が妥当なものだとすれば、批判する側にもずいぶんとズサンな論理があるように思える。小林自身の論理のデタラメさはともかく、小林作品とその人格に対する支持基盤は、戦後左翼主義と進歩主義の理念と実践の敗北の上にある。
それが「廃墟」と化していることを見届けている若者たちのニヒリズムが、小林が行なう「左翼・進歩派に対する嘲笑」や、オウム教団との対決やHIV訴訟の時に見られたような小林の「行動主義」に対する共感として表現されている。そのことに自覚的でない小林批判は、少なくともファンを前にしては有効ではないことが、もっと真剣に考えられるべきだと思う。
美術史家・若桑みどりは、嫌悪感に耐えてゴーマニズム作品を読み込み、すぐれた図像学的分析を展開してきたひとりだ。彼女は今回、「小林マンガの図像分析と受容の理由」(上杉聡編著『脱戦争論』所収、東方出版)において、彼の漫画の本質を面白く分析した。
物語の枠外で繰り返し登場する巨大な自画像のサブリミナル効果、事実「らしき」ものとまったき虚構を自在にはめ込んで構成されるひとつの物語……などの視点で。漫画を使わず「言葉を尽くし」た今回の本でも、その手法は使われているように思える。インタビュアー・時浦と小林の問答のあり方それ自体の中に。私が言う「小林ファン向け専用のトリック」とは、そのことを指している。
小林作品は熱病にうかされたようなファンを作りやすいが、それだけに、読者が冷静になる時間を得た時には、小林が資料を処理する時の恣意性や論理展開のデタラメさにも容易に気づきうる性格のものである。
人間のそのような知覚力に確信をもって、「まちがったことを言ったら謝ればよい、たかが漫画家」(誤解なきよう、小林本人がよく言う居直りの言葉である)の作品に正面から向き合い、地道な批判活動を続けるべきだと思う。
過去の歴史に対する小林の捉え方にしても、先に触れた石原や森の発言にしても、グローバリズム時代の保守本流がめざす基本路線にはならないだろう。
だが、捉えどころのない現代社会の空虚感や、現実政治への絶望感が漂っている社会にあっては、狭い愛国主義の穴に入り込み、異質なものを嫌うこれらの言葉は、いつどんな具体的な形で、人びとの底暗い本音に火を点けるかわからない恐ろしさがある。
「傍流」が挑発の炎を点火し、それによって不気味な社会的雰囲気が醸成され、それら総体の上に、傍流に眉をひそめて見せる「本流」が君臨するという構造全体を問わなければならない。
っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっz(2000年5月17日記)
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