5年前のポーランド訪問の印象
2000.2.4
本シリーズの前回(その25)で紹介した[最新事情]の裏打となる旧稿です。
[最新事情]の概略:1999年末、ポーランドの歴史家が、「アウシュヴィッツとマイダネク」収容所におけるユダヤ人大量虐殺を否定する論文を発表し、それが刑法に抵触するにもかかわらず、不起訴になったとの情報です。以下、すでに5年前の拙著『アウシュヴィッツの争点』(p.240-246)に記していた「予感」または「予言的記述」を紹介します。
追試調査報告の公表と判断をさけるアウシュヴィッツ博物館
わたしは、アウシュヴィッツ博物館で歴史部主任のピペル博士に会ったさい、最後の第三番目の質問として、博物館がクラコウの法医学調査研究所に調査を依頼した件[後出論文より前に出た短い論文の紹介記事で知っていた情報]をもちだした。
その質問の前提として、わたしが持参した英文の『ロイヒター報告』をしめしたところ、とたんにかれの態度は急変した。それまでに見せていた余裕がなくなった。それまではゆったりと椅子の背にもたれて、気楽に肩をすくめたりしながら語っていたのだが、わたしが『ロイヒター報告』をひろげた机に身をよせて、息をひそめるような低い声で、「この報告はドイツ語の翻訳で読んだ」という。持っているとはいわなかった。そして、あわただしく手帳に『ロイヒター報告』の題名や出版元などをメモした。
わたしは、カリフォルニアの「歴史見直し研究所」の前述のリーフレットの該当箇所をしめし、事実経過にまちがいはないかと聞いた。ピペルは黙ってうなずく。つづいて、アウシュヴィッツ博物館として調査結果を公表したかと聞くと、ピペルは肩をすくめ、しばらく考えてからこう答えた。
「博物館としては公表していない。クラコウの研究所が医学雑誌に発表した」
わたしは、ふたたびリーフレットの該当箇所を指さして、「ここには博物館が調査を依頼したと書いてある。基本的には博物館の仕事ではないか。なぜ博物館が公式発表をしないのか」とせまった。しかし、ピペルは肩をすくめるばかりで、これには返事をしない。わたしには、かれらの立場がわかりすぎるほどわかっている。これ以上せめても仕方ないので、つぎの質問にうつった。
「わたしは、事実にもとづく諸民族の和解こそが永続的な平和の基礎だと考えて、この問題を取材している。もしも、ガス室とされてきた部屋ではゼロか微量のシアン化合物しか発見できないという結果がでたのなら、ガス室によるユダヤ人ジェノサイド説は否定されると思うがどうか」
この質問にもピペルは肩をすくめて口をゆがめ、しばらく黙っていたが、ついにこう答えた。
「真実を語る口は沢山ある。残留がすくない理由は、シラミの消毒の場合とちがって、人を殺す場合は短時間だったからとも考えられる」
わたしは、この答えにたいして内心あきれながらも、仕方なしにほほえんで、やはり照れ笑いのような表情をうかべるピペルの顔をしばし見つめた。この答えは、決してピペル一人がとっさに思いついた逃げ口上ではないと感じた。博物館だけの判断でもない。東西冷戦の壁がくずれたとはいえ、否も応もなく地理的にドイツとロシアにはさまれ、アメリカやイスラエルの思惑を気にせずにはいられないポーランドの、まさに歴史的宿命としかいいようのない悲哀が、ピペルの照れ笑いの背後に透けて見えるような気がした。
すでに一二時をすぎてもいたが、ピペルの態度には、もうこの問題は勘弁してくれという雰囲気があった。あとは直接、クラコウの研究所にアタックする以外にない。もっとくわしく状況をしりたい。平和行進の出発を見送る予定を変更してクラコウにいこうと、その場で決意した。
そこで最後に、クラコウの研究所をたずねたいが場所はわかるか、と聞いた。ピペルは、クラコウで聞けばすぐにわかると答えた。わたしはいさぎよく礼をのべてピペルの部屋をでた。
「非常にむずかしい問題」を連発するクラコウの誠実な法医学者
クラコウの研究所を探すのは、英語の研究所名と地図だけがたよりにしては、そんなに困難な作業ではなかった。ところが、研究所にたどりついて下手な英語のジョークをとばしたのだが、本当に「百年に一度のハップニング」によって三時間の市内放浪を余儀なくされてしまった。というのは、まず最初に英語が通じない市の警察本部で聞き、大体の位置がわかって探しはじめ、途中で見かけたアメリカの領事館にとびこんで親切に教えてもらえたのに、なんと、「角の茶色の古いビル」だったはずの建物が「改装中」でピカピカのオレンジ色にあたらしく塗りかえられ、看板がはずされていたからだ。
おまけに、会見の予約もしていないのだから仕方ないのだが、問題の調査の担当者は仕事の都合で会えないという結果だった。しかし、わざわざ足をはこんだ効果はあった。英語が話せるという理由だけで応対してくれた研究員が、担当者の氏名と電話番号を教えてくれたし、わたしが名刺を託して「帰国してから国際電話をかける」というと、かならずそう担当者につたえると約束してくれた。
教えてもらった担当者は、ヴォイチョフ・グバウワ博士とイアン・マルキェヴィッチ教授だった。
実際に帰国してから国際電話をかけてみると、どちらもほかの勤務場所と兼任のパート・タイムで、なかなかつかまらない。四度目にやっとグバウワ博士と話せた国際電話の結果は、ピペルとの質疑応答の場合と基本的におなじようなものだった。要するに、「研究所の名で医学専門雑誌に発表するのが妥当だと判断した」という趣旨の、日本の役人の国会答弁と似たような逃げの返事しかえられなかったのである。だが、わたしはおどろきはしなかった。予想通りの対応だったからだ。
グバウワの応対ぶりは、しかし、誠実であった。かれは何度も、「われわれにとって非常にむずかしい問題」だといった。「医学専門雑誌に発表」した理由は、調査の費用が「ある科学者の組織」からでているからという説明であった。わたしは、「みなさんの立場はわかっている」とつげたうえで、一応、ふみこんだ質問を発した。ロイヒター報告とおなじデータがでているのなら、おなじ結論、つまり「ガス室」とされてきた建物または部屋では、「ガス殺人」(ガッシング)は実行されていないという結論に到達するのではないか、という趣旨の質問である。これにたいしては、前述のピペルの解釈とはちがう答えがかえってきた。「残留の反応がでた箇所とでない箇所があるのは、現場が深い水につかったりする場所[昔は沼地]だからかもしれない。長年大量の雨にも打たれている。結論をだすのはむずかしい」という趣旨である。
意外なことにかれは、わたしの名刺で住所がわかるから資料を送るという。そのうえに、「研究所に招待して説明したい」という申し出もしてくれたのだ。もしかすると、「日本人」の反応が研究所としても気になりだしたのかもしれない。わたしは、その申し出に感謝したうえで、こちらのほうで仲間と連れだってふたたびアウシュヴィッツにいく計画をしているから、それが決まったら連絡するとつたえて、この電話取材を終えた。
翌一九九四年の一月五日に航空便がとどいた。クラコウの研究所の専用封筒のなかには、英訳の論文の抜き刷りと、裏にごく簡単なあいさつをしるしたグバウワ博士の名刺がはいっていた。
掲載誌は『法律学の問題』(1994年36号)で、論文の題名は「アウシュヴィッツとビルケナウの元集中キャンプのガス室の壁にふくまれるシアン化合物の研究」である。内容は専門誌むけの文章だから、前出の『歴史見直しジャーナル』(1991年夏)よりもくわしく、一般むけの『ロイヒター報告』にくらべると格段にむずかしい。雑誌の発行日付けは記載されていないが、この論文の受理の日付が一九九四年五月三〇日になっている。クラコウのチームの調査がおこなわれたのは一九九一年だから、三年後の発表ということになる。全体の構成からいうと、ロイヒター(一九八八年)と前述のルドルフ(一九九三年)の二つの調査報告を強く意識した論述になっている。チームの調査にくわわった博物館側のスタッフは、ピペルともう一人の技術者だけだった。ピペルがわたしに語った「人を殺す場合は短時間」という論拠は、この論文にもしるされていた。とくにくわしい鑑定内容は、『ロイヒター報告』にはないもので、シアン化合物の残留にあたえる「水の影響」である。それによると、「かなりの量のシアン化合物が水にとけこむ」ということである。完全になくなるわけではないらしい。また、「犠牲者がガスを吸わされた火葬場」と分類されている調査箇所のなかに、かなりの残留をしめす部分がある。これを論拠にロイヒターとルドルフの調査結果への同意を留保しようとしているようであるが、正確な位置関係はしめされていない。これには消毒室がふくまれているのではないだろうか。収容所の復元図や実際に見た状況からいうと、消毒室、シャワールーム、サウナ、死体安置室、火葬場などは近接して設置されている。
[中略]
これ以上のことは専門家の研究に待つしかないので、わたしはただちに同論文をコピーして内外の研究者に送った。その後、アメリカのウィーバーから礼状がとどき、わたしが送ったコピーによってフォーリソンほかの「ホロコースト」見直し論者が、はじめて同論文の存在を知ったことがわかった。巻末資料に収録した「化学士」ゲルマル・ルドルフの論文「ロイヒターに対抗する鑑定/科学的詐欺か?」は、同論文の分析である。クラクフの半日のさすらいの旅が、いささかなりとも国際共同研究の促進に役立ったとすれば、苦労の甲斐があったというものだ。
[後略]
[その後の経過など追加]:日本で『マルコポーロ』廃刊事件が発生した直後、アメリカのウィーバーから英文の緊急論評記事が届いたので、若干の手書き報告を加えて、上記のクラコウの研究所にFAXで送りました。礼状も返事もこなかったし、こちらも多忙続きだったので、そのままになっています。先方は、きっと驚いたのでしょうが、直接の訪問と国際電話のやりとり、雑誌の送付、それへの礼状などをも含めて、彼らが、「一風変わった日本人」の存在を忘れるはずはないでしょう。こうなれば、またまた無理を重ねても再訪し、もっと詳しい事情を聞きたいと願っています。
以上で(その26)終わり。(その27)に続く。
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