『偽イスラエル政治神話』の書評紹介と批判(2)
1999.4.30
前回の(1)の冒頭に、この(2)を含めて、「双方ともに『アラブ』による評価を無視し得ない点が面白い」と記した。その点では、今回の書評子の方が、自称にせよ「現代中東を研究している私」と称するだけの現場感覚もあり、かなり具体的である。
ただし、文章作法に関しては、前回と同様の「今時・若者風・下手糞・訳文調」であるから、およそ一般向けではないし、本音も分かりにくい。それを我慢して読んだ上で、最後の私の「批判」をも参考にて頂きたい。
『週刊読書人』(1999.3.19)
ホロコースト否定論に依拠した反イスラエル論
ロジェ・ガロディ著『偽イスラエル政治神話』
臼杵陽
私がガロディ=ピエール神父事件についで知ったのは私も同席した雑誌『世界』(1996年12月号・1997年1月号)の座談会「揺らぐ『国民統合』の神話……ショアーの現在」での席上、高橋哲哉氏が詳しく論じたことを契機としてだった。
その後、私はガロディのフランス語原著とアラビア語翻訳版を入手した。それは旧仏植民地チュニスの中心街にある書店においてであった。日本の文庫版を一回り大きくした版型のアラビア語版は目抜き通りに面したショーウィンドウに飾られ、書店内では平積みされていた。アラビア語版はカイロで出版されたもので、解説によれば私の購したのは第7版の普及増補版で、たんに原著の仏語版を翻択したものではなく、後半はガロディがカイロを訪問した際のインタビューあるいはガロディに関するアラブ知識人の論考など14本が収められている。
ガロディが本書において用意周到に論じたショアー否定論をアラブ・ムスリム知織人が好意的に受容しでいる事実は、対イスラエル戦争でアラブ側の敗北が残した深いトラウマを抜きには説明できないし、アラブ世界での民衆レベルでの反イスラエル・反シオニズム感情の広がりがその受容の背景にあるといわざるをえない。つまり、この翻訳から「学問的」なショアー否定論に基づくイスラエル建国神話批判の議論を知って溜飲がさがるわけである。
私自身は本訳書の付録「イスラエルの“新しい歴史家たち”」のテーマに関しては論考で論じたことがあるので、以下、ガロディのイスラエル論に論点を絞ってみたい。結論を先取りすると、ガロディが展開しでいるイスラエル政治における「建国神話」に関する議論はイスラエルの言論界では取り立てて目新しいものではない。反シオニストあるいは親シオニスト的立場からのイスラエル内での熾烈な相互批判にはそれなりの伝統があるからだ。
ガロディはイスラエル・シャバクなどのイスラエルにおける批判的知識人の議論を踏まえて執筆している。ガロディのようなホロコースト否定論に依拠した反イスラエル的議論は反ユダヤ主義にさらされる危険性のあるディアスポラのユダヤ人社会ではいざ知らず、イスラエルでは近年、比較的冷静に受けとめられる傾向がある。というのも、1980年代後半以降のイスラエルの知的世界は激変を経験しているからだ。ガロディが繰り広げている議論はイスラエルでは最近では「ポスト・シオニズム論争」としてイスラエル知識人の間でも熱い論争が闘わされている。本書を評価する際にはイスラエル社会とディアスポラ・ユダヤ人社会のこのような温度差も念頭に置かねばならない。
渦中の人、木村愛二氏による「訳者はしがき」というにはあまりにも長い解説が本書の冒頭に置かれている。同氏はその饒舌な語りによっで読者をガロディの世界へと誘おうとする。木村氏は自身の土俵に囲い込んだガロディのホロコースト否定論に読者を強引に引きずり込もうとする。しかし私は辟易してしまった。というのも、はじめにホロコースト否定論ありき、だからである。いずれにせよ、日本におけるホロコースト否定論者あるいは反ユダヤ主義者はユダヤ人の被害者であるパレスチナ人を担保に議論を組み立てる傾向があるが、「敵の敵は味方」という論理に立っているかぎり、議論は悪循環を招くばかりである。率直なところ、現代中東を研究している私はいい加減うんざりしている。
(木村愛二訳)(うすき・あきら氏=国立民族学博物館教授・中東地域研究専攻)
ロジェ・ガロディ(1913~)は、フランスの哲学者。ソルボンヌに学び、20歳で共産党に入党。ナチス・ドイツ占領下でレジスタンスに参加、逮捕、収容所暮らしを経験。1970年に共産党を除名。現在、本書を理由としてフランスで有罪・罰金刑判決を受け、係争中。著書に「認識論」「20世紀のマルクス主義」「カフカ」など。
さてさて、この書評子は、私の「饒舌な語りに」「辟易し」たとか、「いい加減うんざり」とか失礼千万なことを平気で言うのだが、自分では、しきりと「現代中東を研究している」などと売り込むのであり、当然、自分の「現代中東」に関する知識の程度に、かなりの自信を持っているのであろう。その自称専門家が、日本の一般読者向けに記した私の「『訳者はしがき』というにはあまりにも長い解説」に、勝手に「辟易し」て文句を付けるのは、見当違いもはなはだしい。まったくもって迷惑な話である。私は、そういう自称専門家相手に書いたのではない。むしろ逆に言えば、もともと、その「長い解説」に、いわゆる専門家への皮肉をたっぷり記した通りに、多くの自称専門家が不勉強で、まともなことを書いていないだけでなく、実に臆病、かつ卑怯未練で、あれだけ騒がれたガロディの本を、訳出すらしようともしていないので、その種の肩書きに騙されやすい一般読者に警告を発したのである。訳出そのものも、そういう事情の下で、やむをえず始めた仕事なのである。
もともと、この種の翻訳で飯が食えるわけがないことは、私の表現によると「マスコミ業者」の出版者ならずとも、ある程度の関係者、特に同前「アカデミー業者」の教育商売人にとっては常識中の常識である。通常は、大学教授、助教授、講師などで、一応の収入と肩書きを確保している連中が、その一見偉そうな肩書きにさらに箔を付けることにもなり、小遣い稼ぎを兼ねた勉強にもなるから、毎日チビチビ訳してみたりするというのが、この種の業界の通例であり、また通弊でもある。この連中にとっての翻訳とは、格好良く言えば、名誉心が先に立っての仕事だから、出版さえできれば良いのであって、いわゆる労資交渉の場などを求めるわけがない。結果として、労働力市場を荒らしまくり、労働力の市場価格を格段に引き下げる要因をもなし、翻訳料は値切られ放題となる。要するに安い翻訳料の土台を作っているのが、戦後なら駅弁大学、最近なら、これは私の命名だが、バス停大学のアカデミー業者たちなのである。実に迷惑な話である。
だから、本来ならば、この連中は最初に、貧乏暇無しの身で「献身的」に慣れぬ仕事をした私に対して、誠に申し訳ないと詫びるべきところなのである。
しかし、もう一つ、この書評子、臼杵陽「教授」様、様が、実に、実に、持って回った表現で、「私がガロディ=ピエール神父事件についで知ったのは私も同席した雑誌『世界』(1996年12月号・1997年1月号)の座談会「揺らぐ『国民統合』の神話……ショアーの現在」での席上、高橋哲哉氏が詳しく論じたことを契機としてだった」などと記しているのは、ナントモハヤ、とうにもこうにも解せない次第なのである。
私は、いわゆる「ガロディ=ピエール神父事件」の経緯についても、その「長い解説」に略記したが、この事件の日本における報道は、上記の座談会の半年以上も前の1996年5月から始まっており、同じ『世界』の直前の号(1996.9&10)にも、「パリ通信/ピエール神父の孤独/ホロコースト、ヴァチカン、イスラエル」と題するインチキ連載が現われていた。インチキはインチキでも、こういう一般向け報道もあった問題を、「現代中東を研究している」筈の「教授」様、様ともあろうお方が、見落とす筈がない。要するに、自分が『世界』(1996年12月号・1997年1月号)の座談会「揺らぐ『国民統合』の神話……ショアーの現在」に出たことを匂わしたいのであろう。可愛いと言えば可愛いが、「今時・若者風・下手糞・訳文調」を振り回される当方としては、不愉快至極である。
ところで、この『世界』(1996年12月号・1997年1月号)の座談会「揺らぐ『国民統合』の神話……ショアーの現在」の出席者は、当時の肩書きが、揃いも揃って「助教授」であった。掲載写真を見るとまるで子供なので、紹介記事を見ると、この臼杵陽が1956年生れ、高橋哲哉(東京大学・哲学)が1956年生れ、石田勇治(東京大学・ドイツ現代史)が1957年生れ、小沢弘明(千葉大学・中欧・東欧史)が1958年生れとなっていた。私より約20歳若い、いわば年齢的にも子供の世代なのだから、写真が子供っぽく見えるのはやむをえないとしても、これまた揃いも揃って、マルバツ教育時代の暗記秀才型が丸見えなのだから、本当に「困ったちゃん」たちなのである。
ここでは、この座談会の共通認識、または「今時・若者風・下手糞・訳文調」議論の下敷きとなっている愚作(グサク)、かつイスラエル国策(コクサク)、不評サクサクの、ダラダラ長いだけが特徴のデッチ上げ映画『ショア』の中から、特に、「歴史学者」こと言論詐欺師ラウル・ヒルバーグの語りの一節を紹介し、かつ、その化けの皮を剥がすことによって、この「今時・若者風・下手糞・訳文調」の自己宣伝文に、お別れを告げることにしたい。
『SHOAHショアー』
(クロード・ランズマン、高橋武智訳、作品社、1995)
ラウル・ヒルバーグ[訳注]訳注:歴史学者。ユダヤ人問題の専門家。米国・ヴァーモント大学政治学教授。バイリントン在住(英語)。
[観客の錯覚を誘う材料として、ユダヤ人の収容所入りと内部での管理に関してナチスに積極的に協力し、最後には自殺したユダヤ人評議会の責任者、アダム・チェルニアコフの『死人に口無し』の日記を使っている]
映像詐欺師ランズマンの誘導に調子を合わせて、ヒルバーグは、いかにも物思わせ振りの語り口で、観客をギロリギロリとねめまわしながら、ホロコーストの歴史をネチネチとデッチ上げる。以下の部分では[前略]
……それに、もしかすると、散文的な文体で書かれている事情も手伝って……彼の気持の動きの一つ一つを、つまり、事態をどう受け取り、どう認識したか、事態にどう反応したか、そのあとを、今日でも知ることができる。
いや、彼が日記に書き込まなかったことからさえ、この社会に起こったことどもが、推論できるのだ。日記には、終末についての記述が、たえず出てくる。ギリシア神話の世界に置ぎ換え、わが身のことを、毒を塗った上着を着込んだヘラクレス[訳者注]になぞらえている。
訳注:ヘクラレスの妻デイアネイラが、愛の妙薬と思い込んでヒュドラの毒を塗った衣を夫に与え、ためにへラクレスは死んでしまった。
ワルシャワのュダヤ人が早晩、破滅を迎えるにちがいない、という彼の、感情の表現なのだ。(p.398)
[ランズマン……]チェルニアコフは明らかに知っていましたね。(p.413)
[中略]
あるいは、そう思い込んでもいた。というのも、おそらく翌春にも、ワルシャワのユダヤ人に、襲いかかってくるにちがいない運命について、気がかりな噂を、この時期の日記に書き込んでいるからだ。また、同じ頃に、SS(親衛隊)移送関係の責任者、ビショッフから、ゲットーというものは、結局のところ、過渡的な方策に過ぎない、とも言われたのだった。もちろん、ビショッフは、何のための方策か、それ以上具体的なことは、何も付け加えなかったが。チェルニアコフは知っていたのだ。というのも、一月になると、リトアニア兵が到着するという警告や報告を受け、あるいは風説を耳にしたことを記している……。
とくに、1942年1月20日頃のこと、アウアースヴァルトが姿を消してベルリンに向かった時には、不安な思いに苛まれた。この日付は、今では周知の事実だが、ベルリンで開かれた〈最終解決〉[訳注]に関する、例のヴァンゼー会議の日付にぴったり一致している。チェルニアコフの方は、四方を壁に囲まれたワルシャワにいて、そんな会議が、ベルリンで開かれていることなど、知る由もなかったが、それでも、コミッサールのアウアースヴァルトが、ベルリンヘ出かけた、その事実だけで、憂慮を深めたのだ。根拠はなかったが、旅行の目的が、不吉な知らせをもたらすものとしか、考えられなかった。2月には、さらに、さまざまな噂が飛びかい、3月になると、噂はますますはっきりした輪郭を帯びてくる。チェルニアコフは、ルブリン・ゲットーや、ミエレツから、ュダヤ人が移送されたことを記録しはじめる。ついには、クラクフや、リボフからも。そして、近い将来、ここワルシャワのゲットーでも、まちがいなく何かが起こる、と考えるようになる。これ以後は、日記の1ページ、1ページが、払いのけることのできない不安のために、重苦しさを加えていく。(p.414-415)
訳注:1942年1月20日に開かれ、ユダヤ人問題の〈最終解決〉案が策定された。
[中略]
人の伝えるところによると、日記帳を閉じたあと、彼は、最後のメモを残したということだ。「彼らは、私の手で、子供たちを殺させたいのだ」と。(p421-422)
[後略]
「嘘」のデッチ上げの告白に他ならないのである。
「いや、彼が日記に書き込まなかったことからさえ、この社会に起こったことどもが、推論できるのだ」……とは、なにごとか。私は、ここを見た時に、横隔膜の痙攣を押さえることができずに、「フッフッフ」と笑いを漏らしてしまった。まさに「推論」でしかなく、実は、催眠術的な誘導を行う。
「チェルニアコフは明らかに知っていましたね」……と、ランズマンは、手慣れた手口で、「知ってい」る「事実」を具体的に示さずに、「とくに、1942年1月20日頃のこと、アウアースヴァルトが姿を消してベルリンに向かった時には、不安な思いに苛まれた。この日付は、今では周知の事実だが、ベルリンで開かれた〈最終解決〉[訳注]に関する、例のヴァンゼー会議の日付にぴったり一致している」……この部分が「歴史」としては決定的部分である。
ところが、このような「ヴァンゼー会議」なるものの「解釈」は、日時や証拠の矛盾が多すぎて、すでにこの『ショア』の完成(1985年)の直前に当たる1984年5月に「絶滅論者」(ホロコースト神話護持者)たちがストゥットガルトで開いた会議で、「放棄」が決定されていたのである。
『偽イスラエル政治神話』では、この「放棄」の前後の経過を、絶滅論者たちの文章をも引いて詳しく記している(p.167)。
私も、この経過を、前著『アウシュヴィッツの争点』(1995年6月発行)で「ベイシイほかの編による「ラウル・ヒルバ-グに敬意を表して」という副題のエッセイ集『ホロコーストの全景』」(p.260)の記述によって紹介していた。ニュルンベルグ裁判で提出された「ヴァンゼー会議」の証拠書類は「偽造」(P.261)の典型である。
こういうことも知らない、さらには、こういう厳然たる「歴史的事実」(ストゥットガルトで開いた会議)さえもあえて無視する『偽イスラエル政治神話』の書評とは、または、そういう書評を書く「現代中東を研究している」「教授」とは、座談会に同席していた「助教授」(他のメンバーも、その後、「教授」に昇格したのであろうか?)とは、いったい何様なのだろうか。
「人の伝えるところ」とは、まさに「嘘」のデッチ上げの告白に他ならない。
「人の伝えるところによると、日記帳を閉じたあと、彼は、最後のメモを残したということだ。『彼らは、私の手で、子供たちを殺させたいのだ』と」……注1.と同じ。要約すると、ヒルバーグは、本連載で「コテンパン」批判中のフランスの薬剤師、プレサックと同類の「ゲテモノ御用小説家」でしかないのである。
以上で(その18)終わり。(その19)に続く。
(その19) 久々に「許し難い」「ガス室」信者への具体的質問 へ