現イスラエルの考古学者が「歴史見直し」
2000.1.7 1999.12.26.mail再録。
「歴史見直し研究会」代表、木村愛二です。
地元武蔵野市の「不祥事件隠し」独自捜査など、事件多発と、お年玉付き自己宣伝ダイレクトメール作成、印刷、発送などのため、紹介が大変に遅れましたが、私の批判対象でもある「エセ紳士」こと、朝日新聞に、以下のような「ストレート・ニュース」が載っていました。かねてからの私の期待の「イスラエル内部からの歴史見直し」の一端として紹介し、その後に、それと関連する私自身の以前の記述をも紹介します。
ぜひとも、ご比較、ご検討下さい。
『朝日新聞』(1999.10.30.夕刊)
旧約聖書の記述、揺らぐイスラエル
「史実じゃない」考古学者が論文 「ユダヤの土地」入植根拠、動揺も
地図:現在のイスラエル周辺。占領地「ヨルダン川西岸」部分の中に「ヘブロン」
【エルサレム30日=村上宏一】ユダヤの民がエジプトでの奴隷生活から逃げ出し、荒野をさまよった未に、約束の地カナンを征服した……これらの旧約聖書の記述は、考古学的発掘でみる限り歴史的事実ではないとする論文が、イスラエルの学者により発表された。1967年に占領したヨルダン川西岸などからの撤退には、「神から与えられた土地を手放すもの」と聖書を論拠に反対する右派、宗教指導者も多く、この学説は論議を呼びそうだ。
論文は29日のイスラエル紙ハーレツに掲載された。テル・アビブ大学のゼエブ・ヘルツォグ考古学教授によるもので、イスラエル各地で70年にわたって続けられた発掘の結果を検証した考古学者や歴史学者の大半が、旧約聖書に描かれたことがらは史実ではないと結論づけている、というのがその骨子だ。
イスラエルの考古学は1960~1970年代、旧約聖書の記述の裏付けに夢中になった。しかし科学的な研究、調査を続けてきた人々の大半は、ユダヤ民族の成立過程は聖書に描かれたのとは全く異なる、という考えで一致。聖書の記述が事実であることを証明しようとしてきた研究者も、多くが、これに同意するようになったという。
例えば、モ一ゼがユダヤ人を率いてエジプトを出国し、砂漠をさまよったとする「出エジプト記」。どんな記録にも、古代エジプトにユダヤ人が集団で住み、脱出したことを示すものはなく、大半の歴史家は、脱出が本当にあったとしても数家族の小さなもので、宗教上の必要から拡大されたとみている。
また、古代イスラエル王国の版図はダビデ、ソロモンの栄華の時代に、現在のヨルダン、シリアの一部まで広がったという記述も否定される。せいぜいエルサレムと、西岸南部のヘブロンを中心とする狭い範囲を治めたにすぎないのではないか、というのが、考古学的検証の結論らしい。
論文はさらに、唯一の神という一神教の概念についても、生まれたのは今から二千年余りさかのぼるにすぎない、と指摘する。
宗教指導者らは、旧約聖書の内容を否定する説はこれまでにも多く出ているとして無視する構えだ。しかし、聖書に出てくる地名を盾に「ここはユダヤ入の土地だ」と入植を正当化する人々の根拠を揺るがすのは確か。また、ユダヤ教の戒律厳守の押しつけに反発するイスラエル市民が増えており、学問的に聖書の世界を否定する説は、聖書を背景にした権威に反論する有力な根拠となりそうだ。
以下、昨年、1998.9.30.発行の拙訳『偽イスラエル政治神話』(れんが書房新社)から、関連箇所を抜粋し、紹介します。
『偽イスラエル政治神話』(p.348-351)
訳者解説
本書の数多い主張の中には、まだまだ複雑な問題が潜んでいるが、ここでは四点についてだけ、補足をして置きたい。
第一は、イスラエル国家、またはパレスチナの場所の問題である。
本書では、88頁~89頁に、エリコとアイの場合の、遺跡の考古学的発掘調査の実例が紹介されている。それらの調査結果は、旧約聖書の物語と食い違うのである。
しかし、最近の考古学の成果を見ると、意外にも、これまでは軽視されがちだった口承伝説には、かなりの真実が含まれているようである。なぜ旧約聖書だけが、という疑問が残る。
ところが、ここに、旧約聖書の固有名詞の読み方が間違っているのだという、有力な説があるのである。旧約聖書の地名、人名、部族名などの固有名詞の解読が間違っていたとしたら、当然のことながら、考古学的な知見とは矛盾が生じる。もしも、この旧約聖書誤読説が当たっているとしたら、これまでのすべての研究は、ご破算となり、全面的な見直しが必要になるだろう。
この問題を私自身が知り得たのは、拙著『湾岸報道に偽りあり』(92)の発表直後に、ある読者が、これをぜひ読めと、当時すでに絶版の本、『聖書アラビア起源説』(草思社、88)を提供してくれたからである。
著者のカマール・サリービーは、「ベイルート大学の歴史学教授で、中東史の権威である」(同書の「訳者はしがき」より。以下同じ)。
訳者の代表はパレスチナ問題を追い続けている広河隆一だが、その解説から一部を引用すると、「旧約聖書の舞台はパレスチナではなく、サウジアラビアのメッカの南、アシールと呼ばれる地方だというのである」。
この本の内容を知っている日本人は、ほとんどいない。だが、「欧米での刊行後、『ニュウズウィーク』『クリスチャン・サイエンス・モニター』『サンデー・タイムズ』などを含む世界の主だった紙誌に取り上げられ、一大センセーションを巻き起こした」という。
日本語版の出版は一九八八年だが、その当時すでに、英・仏・独・オランダ・スペイン・アラビア・フィンランドの各国語版が出ており、インドネシア語版は準備中だった。論証の中心は「セム語学および固有名詞学の一分野である地名学」による旧約聖書の地名の照合にある。旧約聖書にはふんだんに地名が現われるが、現在のパレスチナ地方の地名とはほとんど一致しない。確かな証拠となる遺跡もない。エルサレムはアラビア語の「アル・シャリム」と同じく、「祝福された場所」の意味で、日本ならば「鎮守」の社とか森のような名称である。この地名は、あちらこちらにあり、もちろんアシール地方にもある。ソドムとゴモラは火山の爆発で消滅したとされているのに、パレスチナ地方には火山はない。ところが、アシール地方には類似の地名があるし、火山の爆発の跡が残っている。
アシール地方には、古代からのユダヤ教徒の子孫もいる。同書には、現地の「ユダヤ人」の写真が収録されている。肌色は、むしろ、アフリカの黒人に近い。縮れ髪を編んで垂らしている。私はかつて、旧著の『古代エジプト・アフリカ史への疑惑』(74)で、セネガル人の研究者による古代エジプト人の黒人説を紹介したことがある。その際、エデンの園のサハラ砂漠説の可能性を指摘していたので、この写真を一目見ただけで興奮を抑え切れなかった。いずれ現地にも足を運びたいと願っているが、とりあえず、つい最近の現地探訪記事だけを紹介しておこう。
日本経済新聞(97・5・27)の「文化」欄、京都大学霊長類研究所教授、庄武孝義の紀行文、「マントヒヒの楽園発見」には、つぎのような描写がある。
「サウジといえば砂漠というイメージを抱いていた私はアシール地方の緑の山々に目を見張った。国立公園でもあるこの山岳地帯は標高三千メートル、サウジ有数の避暑地だ。
ヒトにとって快適な気候は、マントヒヒにも都合がいいようだ」
お隣りのサハラ砂漠の山地の洞窟には超古代の黒人文明の壁画が残っている。そのころのサハラ砂漠は緑に覆われていた。アラビア半島全体も同様だったのである。
考古学的な議論だけなら、こういう超古代の有様を、ゆっくりと楽しんで研究すればいい。だが、「『サンデー・タイムズ』紙(84・8・12)が言うように、『イスラエルのユダヤ人は、間違った場所に住んでいるのかもしれない』」という議論になれば、話は血なまぐさくなる。
考えてみれば、日本列島なら縄文だ弥生だという時代のことである。旧約聖書が文字で残されるようになったのは古代ユダヤ・イスラエル王国の崩壊後とされている。本来は口伝えの伝承である。古代からの文明の中心地にあったから位置が確かだというものでもない。逆に、歴史の十字路といわれるほどの激しい戦乱の明け暮れを余儀なくされた地方だから、考古学的な証拠にもとづく厳密な鑑定が必要である。
現在のパレスチナ地方は、古代ギリシャ神話の最大のテーマ、トロイ戦争の舞台と隣接してるのだが、ギリシャ神話には、ユダヤ人がまったく出てこないという指摘もある。つまり、伝承文学上の証拠でも、古代ユダヤ・イスラエル王国のパレスチナ地方説は、決定的に不利だということになる。
本書の著者、ガロディは、アラブ人の学者たちとも親しい関係にあるから、この問題がまるで耳に入っていないとは思えない。他にも色々と聞いてみたいことがあるので、いずれ渡仏して直接の意見交換をしたいと願っている。今のところは推測でしかないが、以上のような「聖書誤読説」が正しいとしたら、ユダヤ教に発する地中海文明の三大宗教はすべて、その聖典の現代語訳を、全面的に変更しなくてはならない。これまた本書のテーマ以上に、国際的な大騒ぎとなる。だから、戦略的には、先送りして置いた方が良いのかもしれないのである。
[後略]
なお、上記の『聖書アラビア起源説』(p.97)によれば、エジプトを指すとされる旧約聖書のヘブライ語は、ローマ字で記すと、msrym(sの下に丸い黒点)であり、類似の地名もアシール地方にあるそうです。また、ヘブライ語の表記は子音だけなので、母音を恣意的に当て嵌めるための誤読が生じやすいとのことです。
以上で(その24)終わり。(その25)に続く。
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