ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために ― 論証と資料
本物の「パリ通信」1 ロジェ・ガロディ刑事裁判傍聴
1998.1(2021.3.8写真追加・写真の日付が一部合っていません)
2021.5.24:未掲載の古い記事発掘追加『時系列ドキュメント1998.1.8.』
「パリ報告」ロジェ・ガロディの刑事裁判
私は、湾岸戦争・カンプチアPKO、ゴラン高原出兵、以上の三つの違憲訴訟の原告である。山登りにたとえれば、湾岸戦争への90億ドル支出反対の市民訴平和訟は、原告の数こそ全国で4,000人を超す勢力を集めたが、まだまだ麓の車も通る林道を歩いているような足馴らしの段階である。次のカンプチアPKO反対となると、少しは勾配が急になるから落伍者も出始める。裁判では原告団の数が減った。ゴラン高原出兵反対になると、胸付き八丁程度で、さらに減った。
さらには、このゴラン高原という国際法を無視した違法占領地帯の併合を宣言するなどして、「連合国」(関東8州ならぬ世界5州アメリカ大親分の縄張り「国連」の正しい訳語)の場においてさえも、非難決議獲得ではダントツの「人造」こと私見では「偽造」の「国家」イスラエルの正体に迫る段ともなると、いわば道標もない岩場続き、しかも、にわかに一天かき曇り、頂上への最後かつ最大の難所、チムニーかはたまたオーバーハングかといったところ。
弁護士も腰が引けるし、こちらは無一文だけが自慢の貧乏ものかきだから、謝礼の用意があるわけはない。本ホームページ『訴状』で既報の『週刊金曜日』中傷記事をきっかけとした私の訴訟は、いわゆる本人訴訟である。それでもカンパ等による活動資金は、1年未満で、約200万円集まった。マック坊や御一行様を購入出来て、パリまで担いで行けたのも、これまでの湾岸戦争報道批判からイスラエルの極右政治的シオニスト支配を暴く著述を、英語に訳して、全世界にアピールしてほしいという要望による多額の資金提供(英語版書籍発行の際の版権予約)があったからにほかならない。
日本では、こちらが名誉毀損の損害賠償を求める民事事件だが、フランスでは1990年に「ゲーソ・ファビウス法」(提案委員・時の議長の名で通称される言論の自由の制限立法。ゲーソは共産党の実力者、ファビウスは時の議長でユダヤ人)が成立したため、刑事事件となる。国論を2分する84歳の哲学者、ロジェ・ガロディの刑事裁判には、フランスの大手メディアの取材陣が殺到し、傍聴席は超満員。アラブ人の傍聴者も詰めかけ、ちょっとばかり毛色(まさに言葉通り)の変わった日本人が来ているのに気が付くと、次々に声を掛けてきた。いわゆる「ガス室」問題の本質は、イスラエルを支配し、欧米の与論を意のままに操作(日本は欧米に追随)する極右政治的シオニストの問題なのだが、その理解に努力しようとする日本人は非常に少ない。私は最近の事件に因んで、この現象を、「ぼけモン」と呼ぶことにした。頭の「ぼけ」たゼニゲバ型「怪物」の意味である。
わざわざ「本物」の「パリ通信」と題したのは、本件に関して、日本で自他ともに「高級雑誌」を以て任ずる『世界』(1997 1996.9月/10月)に連載された「パリ通信」なる記事が、事件の渦中の主人公たちの意見も聞かず、背景調査もせずという、典型的な「えん罪」(漢字が出てこないのはなぜか分からない)型デタラメ報道をしていたからである。その件は2月には発行できる予定の『偽イスラエル政治神話』の冒頭の「訳者はしがき」に記した。
Emailでも報告したが、パリの地裁で知り合ったパレスチナ人の全面的協力により、カラー写真入りのEmailまで送ることができた。以下、別途報告する。以上。
上に戻る2021.5.24:古いFDから未掲載と思われるテキストを発見・追加。
本物の「パリ通信」2 ガロディ裁判傍聴記
その1。時系列ドキュメント 1998.1.8.
「インターネットが僕の仕事」と称するパリ在住パレスチナ人、Basil Abu-Eidとの貴重なrencontre(エンカウンター)
バジルと遭遇したのは、裁判所の法廷の前の広い廊下(ホール、またはロビーという方が正確かもしれない)で入廷を待つ行列の中であった。彼のグループは、私のすぐうしろに並んでいた。日本の裁判所では、傍聴希望者が多くなりそうな事件だと傍聴券を発行する。日本でも、その券をくじ引きで確保するために行列ができるが、こちらの行列は日本の場合のような堅苦しい並び方ではない。行列の作られ方自体が、いかにもフランス人らしい「ルーズ」の典型であった。
「ルーズ」という言葉は、私が勝手に気障な批判めかして使っているのではない。フランスの法廷のしきたりについて、フランス人のフォーリソン(博士または教授の肩書きを記しても良いのだが、「文中敬称略」と同時に、私自身が「先生という用語の廃止論者」を名乗っているので、以下、すべて平等に敬称を省く)に色々と聞くと、時折彼は、大袈裟に肩をすくめ、両手と両掌を大きく広げ、唇を強くひん曲げ、頭を振って天井を見上げる典型的なポーズを取り、しばし間を置き、「良い質問だ」と深く頷く。そして、「(本当はこうなんだけど)フランス人はルーズだから、こうしている。云々」と実情を説明してくれたのである。良く言えば「融通無碍」といったところなのかもしれない。
ガロディ裁判が行われた法廷は、軽犯罪専用で、フォーリソンに言わせると、「天井ばかり高くて、非常に狭い」。メディアも注目しているから、混むに違いない。だから、「開廷の1時間前に行け」と言うのだった。座席はベンチ型で、ぎっしり詰めて座った時に数えたら約100人だから、日本の霞ヶ関にそびえ立つオール日本ゼネコン提携による別名「反動の牙城」、高裁・地裁合同庁舎に、たったの二つだけある「大法廷」(96人)並みの広さである。これが「狭い」かどうかについて参考までに述べると、私がこれまでに、別に法学専門書ではなくて一般書の読書のみで得た知識では、欧米のみならず、準欧米とでも言うべきか、アパルトヘイトに反対して戦った当時の南アフリカ共和国の黒人被告の刑事裁判が行われた法廷の場合でも、「大法法廷というからには、500人分の座席が常識のようであった。そこで、ついでながら述べると、日本国は、司法制度の上でも世界に「汗」垂る「人権小国」なのである。
さて、パリに戻ると、これも現在の日本の法廷とは違って立ち見も許されているが、人数にはやはり「ルーズ」な慣習的制限があるらしい。別に立ち見の定員が決まっているわけではないらしくて、拳銃を腰に付けた薄い青色の制服の小粋な警備員が、時々中を覗いては見計らい、あと何人なら入れるという判断を「自主的に」しているようだった。途中で出てくる傍聴者もいるから、その分、空きがでる。入り切れなかった傍聴希望者・ Eヘ(●文字化け不明●)、法廷の扉の前に並んで、空きを待っている。
最初の「ルーズ」な行列が作られるのは、廊下に集まった傍聴希望者の数が、そろそろ定員の半分位に近づいたかな、といった時分である。それまでにも、これまたいかにもフランスらしく、あちらこちらのベンチを取り囲んだり、皆が立ったまま円陣を組んだりして、大声で議論していたいくつかの群れが、ゾロリ、ゾロリと、ゆるやかに動きだして並び始める。その並び方もやはり「ルーズ」である。これは裁判所に限った現象ではなくて、どうやら、現代フランス人が幼児以来の学習によって獲得した高等動物的な集団的習性のようである。午前中に街を歩いていて、ほぼ円形に近い群れを何度か見た。それは、SOLDES(見切り品)と派手に大書した垂れ幕がはためく店の前だった。下手な片言のフランス語で質問するまでもない。万国共通の現象、開店を待って一番乗りしようという客の群れである。ちょうど店の扉が開くところも見たが、店員が店の奥から現われて扉を開けようとする瞬間に、少しは群れの横幅が細くなり、ゾロゾロと入っていく。先を争って、という感じではまったくない。日本人の目には一見、無秩序のように映るが、これがフランス流の秩序なのであろう。
さて、そうやって「ルーズ」に形成された行列に、記者たちが近寄ってきて、質問を始める。私の仕事上、最も興味深かったのは、このシーンだった。なにしろ、パリ地裁の廊下とはいっても、日本の最高裁に相当する「破棄院」と、高裁に相当する「控訴院」も同居する巨大な「正義の宮殿」(Palais de Justice)の内部である。そこでライトまで使いながらの普通のやり方のテレヴィ取材が自由なのである。写真も、もちろんOK。
この風景を見て私は焦った。なぜかというと、私はフリーランスこと「独立ものかき」だから、日本の「封建的制度」下の似非記者クラブによる独占的排除の結果、国際的に通用する記者証を持つことができない。カンプチアPKO問題の取材でプノンペンに行った際、連合国(United Nationsの正しい訳語)が設置したカンプチア暫定統括司令本部(UNTAC)の広報室で日本の事情を話し、「日本の記者クラブは封建制度の残存物である」と批評したら、オーストラリア人(あとで知った)の二人の女性係官が、顔を見合わせてクスリと笑った。彼女らは、私が行く前に、な、な、なんと、約500人もプノンペン入りした日本の記者団の面倒も見ている筈だ。あの時には、日本の実情に不満を抱く独立記者も、似非記者クラブから排除されている『赤旗』などの政党機関紙記者も、現地に入り、UNTACの記者証を取ったのだから、その過程で彼女らは、日本の実情を耳にしたに違いない。ともかく、私が身分証明書の代わりに提出した著書を、直ちに日本人スタッフに見せて資格を確かめ、「OK」。すぐに防水パウチのカードを作ってくれた。以後も、非常に親切だった。明石代表のインタヴュー」の手配もしてくれた。
今回のフランス取材では、そこまでの準備をしなかった。そこで焦った私は、念のために、フォーリンから裁判所の廊下で会った時に紹介され、以後、なにくれとなく私の面倒を見てくれたタヴェルニー市の市会議員、アルノー氏に確かめた。「誰でも撮影して良いのか」。彼は一瞬、なんでそんな質問を受けるのか分からないといったような怪訝な表情を見せたが、すぐに私が日本人だということを思い出したものか、「ウィ、ウィ」と首を縦に大きく振って頷く。
それっとばかりに「背嚢」からハンディカムを取り出す。何度か一緒に取材した際に見たことがあるビデオプレスの松原プロのような手際の良さはないが、結構素早く準備完了。取材陣の人垣に割り込む。この手の取材は毎日のようにやれたが、最終日には「法廷の秩序維持」という理由で廊下でのヴィデオのみならずカメラの取材も禁止となった。詳しい事情は別途、各論ドキュメントで記す。
話を行列の件に戻すと、記者が寄ってきて誰彼となくインタヴューを始めると、その周りに記者をも交えた侃々諤々の議論が沸騰する。そのフランス式喧騒の・ C齧ハ(●文字化け不明●)を見たら、もう、これは黙っている手はない。「同じ阿呆ならしゃべらにゃ損々」の世界だとの自覚が深まった。「よしこい!」と長年鍛えた売り込み技術を我が身にインストールし直して、勝負を挑んだ。「いざ鎌倉」の際の台詞については一応の準備はがあった。この時まですでに、二日間掛けて主要な日本大手メディア支社を訪ね、ガロディ裁判の意義と日本との関係を訴えていた。日本語の台詞は頭の中に一杯詰まっている。あとは出たとこ勝負のブロークン。この件についても、詳しくは別途、各論ドキュメントで記すが、ラディオとテレヴィへのインタヴュー出演に成功した。ただし、両方ともにアラブ系メディアだった。
➡木村愛二のガロディ裁判傍聴パリ滞在記
本物の「パリ通信」2
2017.9.1 憎まれ愚痴内記事から構成。
2021.3.10:当時撮影の写真他をまとめて追加しました。
➡ 見る
▼イラン人作家ジャヴァッド・ビシェタブ
▼「チーズも石鹸も一緒くた」
▼パレスチナ人バジル・アブエイド/パリ支局「大野博人」記者
▼カフェにてギヨーマ・ジャンと
▼ソルボンヌ大学の坂の上の狭い路地のルーマニア文庫
▼シェイフ・アンタ・ディオプ、「面白い」(C'est interessant)
▼書店にて『第二次世界大戦の責任者たち』を発見
▼イスラエルに追い出されて、ヨルダンに逃れた難民
▼元ソルボンヌ大学教授フォーリソン
▼ロベール・フォーリソンは、「否定論者」ではなく「見直し論者」
▼イランの作家がくれたカラーのポスター
2021.3.9追記:「マック坊や御一行様」とは
●アップルノートパソコン「PowerBook2400c/180(1997年12月購入)
●8mmビデオカメラ
●富士フイルムデジカメ「CLIP-IT DS-10」など。
Powebookは「民衆のメディア連絡会」のM氏推薦、秋葉原価格で263、800円、周辺機器やメモリ増設等で合計価格33万円位だった様子。スペックは16/1.3GB/FD、CPUはPPC603e/181Mhz, L2Cache256KN, MAXとある。1999年3月AMLで「メール爆弾」攻撃にあい故障、2000年6月には部品交換で22,585円要している。➡ こちらにも記載。長期保管していたが起動不能で2021年処分。
8mmビデオカメラも(後継のミニDVカメラも)起動不能にて処分。放置の代償は大きい。
CLIP-IT DS-10は4枚撮影されていたが、画素数が足りず使っていない。