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チベット暴動と「社会主義」国家権力 |
『派兵チェック』第186号(2008年4月15日発行)掲載 |
太田昌国 |
私が社会革命に関心を抱き始めた10 代半ばのころ、振り返るべき過去の革命(ロシアや中国など)も、若い心をかきたてる同時代の革命(キューバ、アルジェリア、ベトナムなど)も、いずれも対抗勢力が暴力を行使してこそ成就していく革命に思えた。
どれもが、外部の強大な国の侵略に抗したり、ある大国を背後に擁する内部の抑圧的な独裁体制を打倒したりするための革命であった。
「後なるものが先に立つ」ために、強者の暴力に対抗して揮われる弱者の暴力の必然性に対して、疑いや批判を投げかける気持ちは、若かった私の内部では、起こりようもなかった。
中国革命においても、紅軍の革命闘争は、何よりもまず日本帝国の侵略軍に対してたたかわれた。
侵略勢力に中国民衆が武力で抵抗したことは、歴史倫理の問題として私を撃った。エドガー・スノーやアグネス・スメドレーが描いた紅軍(八路軍・新四軍)の姿は、「人民の軍隊」がもつ確固たる倫理的基準を指し示していて、感動的だった。
革命後にあっても、たとえば米国などで「洗脳」と呼ばれて恐れられていた新中国における思想教育に関しては、スパイとして逮捕・拘禁されていた米国人のリケット夫妻の『解放の囚人』(岩波新書、1958年、阿部知二訳)を読めば、「反革命」の囚人に対する一方的な外部注入的な教化教育が行なわれていたというよりは、相互対話的な作業を通しての「思想転向」の過程が語られている印象が強かった。
それらのいずれもが、私にとって、中国革命の道徳性を証明するものだった。
思想としてはアナキズムに惹かれる私だったが、おこがましい比較とはいえ、バクーニンやクロポトキンや大杉栄ほどの思考の徹底性を欠いていたのだろう、(時代的に対照性を欠く例もあるが)マルクスやレーニンや毛沢東的なるものに対する深い「疑念」が、最初から備わっていたわけではなかった。
社会を変革するという彼らの初志に対して牧歌的な信頼を抱き得た時代でもあり、それは私の若さの反映でもあった、というほかはない。
党派主導型の社会革命に対する疑いは、私のなかで、何を契機に訪れたのか。それは、革命的暴力によって成立した新国家が、建国後に揮う暴力的な支配の実態を次第に知ることによって、である。
指導部によって「富農」とか「走資派」の烙印が押された人びとが、どんな仕打ちを受けたのか。
ロシアにせよ中国にせよ、旧体制が支配した版図をそのまま受け継ぎ、加えて、革命的余勢を駆って近隣の地域に侵入してこれを「連邦内」に、あるいは「共和国内」に併合したのだが、こうして内部に形成された民族的少数派に対して、大民族を主軸に据えていかなる抑圧的な政策が実行されたのか――それを知ることによって、である。
モスクワと北京の指導部によって「反革命」と名指しされてさえいれば、それらの人びとの上に、どんな運命が襲いかかるものであるかという現実が次第に見えてきたのだ。
中国の場合で言えば、前述のリケット夫妻の著作やアンナ・ルイーズ・ストロングの『人民公社は拡がり深まる』(岩波新書、1960年、西園寺公一訳)を、高校生であった私は、同時代の書物として読み、日本軍国主義の侵略に抗して誕生した新中国の実践に対する熱い思いがした記憶をはっきりと持っている。
1959年3月のチベット叛乱も、同時代の動きではあったが、日々の新聞報道はまったく記憶に残っていない。
テレビが一般家庭に普及しておらず、新聞の国際報道記事も極端に少なかった時代とはいえ、同じ時代の中国の「陽」の部分に対する関心の強さと、「陰」の部分に対する無関心の根深さに、現在の私は我ながら驚かざるを得ない。
当時、進歩派が情報獲得の拠りどころにしていた岩波新書では、英国「デイリー・ワーカー」記者アラン・ウィニントンの『チベット』上下(1959年)や、かのストロングの『チベット日記』(1961年)などが刊行されていた。
前者はチベット叛乱以前に書かれたものだが、「(上層階級と僧職者が、農奴の)目をえぐったり、生身の皮をはいだり、腱を切ったり、鞭打ったり、また、貴族は平民の女にはいつでも手をつける権利があったり、法に拘束されることなく強制労働を課したり、奴隷制よりもおそるべき高利を取立てたりすること」が日常であった時代を目撃したジャーナリストとして、中央政府(中国)と協力して、チベットの退嬰的封建制が改革されていくであろう未来への希望を「序文」では語っている。
ストロングの著書も、「イギリス帝国主義のくびきからチベットを解放するために」1950年に始められた人民解放軍のチベット占領とその後の「民主的改革」を是とする立場に立って、「貴族たちによって起された59年叛乱の真相」を語るものであったことは、言うを待たない。
北京によるチベット「解放」の実態が私にとって別な形で見えてくるのは、1966年に始まる文化大革命以後である。
当時の詳細なチベット情報が伝わってきたわけではないが、暴力によって旧支配体制を打倒した、ロシアや中国のような超大国における革命後の「恐るべき現実」が次々と暴露されてきて、チベットの状況もその延長上で推測しうるようになったということである。
それを伝える書物は多々あるが、AFP北京特派員であったピエール=アントワーヌ・ドネの『チベット=受難と希望』(サイマル出版会、1991年、山本一郎訳)は、「貴族による農奴支配」の旧時代とは別な意味で悲惨な「漢民族による少数民族支配」の実態を余すところなく語っている。
細々と伝えられてきたそのような叫びに無関心を決め込んできた(私たちを含めた)世界に絶望して、独立強硬派が、北京オリンピック直前という「好機」を捉えて起したのが、今回の暴動の底流にあるのではないだろうか。
強硬派とは一線を画して、1988年欧州議会での演説以来「自由と民主主義は要求するが、独立は求めない」と一貫して語るダライ・ラマの姿勢は注目に値する。
今回の暴動を「ダライ・ラマ一派」が仕組んだものとする北京政府の主張は、あまりにも荒唐無稽で、「不当な国家権力によって自分たち民族集団が暴力的に抑圧支配されることを拒絶する感情」(加々美光行)としての民族主義を理解できない、「社会主義」国家権力の無惨さがそこには浮き彫りにされている。
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