ロシア社会主義革命(1917年)に干渉して、翌年から日本、米国、イギリス、フランスがシベリア出兵を行なった。
時期がちょうど第一次世界大戦の終末期と重なったうえ、ロシア内部での「革命」と「反革命」の抗争もあって、事態はきわめて複雑な構造をもっていた。
その国際政治の過程については、関心が決して強くはない日本にあっても、別途知りうる手段はあろう。
ここでは、あくまでも、日本軍のシベリア出兵(1918〜25年)に限定して話を進める。
日本軍は、出兵4ヵ国間の協定をすら無視して、7万3,000人もの兵士を派遣した。干渉の失敗をいち早く自覚した他の3ヵ国は早々に撤退したが、日本は「居留民保護・赤化防止」の口実で出兵を続けた。
シベリアから撤兵したのが22年10月、干渉戦争の過程で占領した北樺太から撤兵したのは25年5月であった。
戦費は4億4,000万円、戦病死者は3,300人を超えた(いずれも公式統計による数字なので、実際にはこれを上回るだろう。
しかも、当然にも、相手側であるソ連の死者数は不明だ)。後に日本のアジア侵略がさらに深まる段階で、陸軍近代化と国家総動員体制の確立に努めることになる宇垣一成は、シベリア撤兵の日の日記にこう記した。
「神后以来朝鮮に占拠せし任那の日本府の撤退、太閤第二次征韓軍の朝鮮南岸の放棄を連想して実に感慨無量、ことに渾身の努力をもってシベリア出兵に尽くしたる余においては一層痛切なり。……かならずや更に新装して大発展を策するの機、到来すべきを信じて疑わぬ」。
軍人としての敗北感、喪失感の大きさを読み取ることができる。宇垣がここで、任那日本府と秀吉の第二次朝鮮出兵の二例を連想して、シベリア出兵の失敗を嘆息していることに注目したい。
宇垣は明治維新の年=1868年生まれである。この年に始まる近代国家日本の形成過程を、心身で丸ごと受け止めながら成長した世代のひとりであろう。
だからこそ陸軍士官学校と陸軍大学校を経て、職業軍人の道を歩んだのだと思われる。
江戸時代に200年有余続いた鎖国体制が解かれた後に成立した明治国家は、折からアジア各地に進出しつつあった欧米諸国に範を取り、富国強兵を国是とした。
欧米諸国が、その軍事力に依拠して世界各地を征服し、随所に植民地を設け、大きな富を蓄積してきたことを知ったからである。
日本国を取り巻く「海」は、この島国を外部世界から孤立させており、したがって、外敵は海をたどって攻めてくるであろうが、逆に言えば、自分たちもまた海を渡って外部に攻め込むことができる。
これこそが、欧米を真似て明治国家が築き上げた価値観であった。1869年「アイヌモシリを占領し、北海道として包摂」、1875年「日本軍艦雲揚号、江華島に至り、朝鮮に不平等条約を強要」、1879年「琉球処分」――維新直後の歴史的事例をいくつか挙げるだけで、例証には十分だろう。
宇垣は、穏やかな海が、異なる地域の人びとを繋いでくれて、互いに助け合いながら平和に生きる媒介をしてくれると考えることはなかった。
海を挟む異世界同士は、食うか食われるかの死闘を繰り広げることを運命づけられている。
欧米に倣えば、日本国は常に「食う」側に立って、よもや敗北を喫することはあり得ない――と信じこんでいたのであろう。
確かに、19世紀末以降の日本は、日清戦争に勝利して植民地を拡大した。宇垣自らも従軍した日露戦争にも勝利した。
韓国併合の準備を着々と進め、ついにこれも実現した。第一次世界大戦では日英同盟を根拠にドイツに宣戦布告し、ドイツが中国から租借していた山東半島の青島を占領した。
日本は絶えず、東北アジアの広大な海を越えて兵士を送り込み、戦争を続けていた。いわば「向かうところ敵なし」とも言うべき勢いであった。
この軍事至上主義の先に、無謀なシベリア出兵があったことは、今となっては明らかであろう。
シベリア出兵と重なる日々、富山県に起こった米騒動はたちまち全国各地に広がった。19年3月1日、植民地化した朝鮮では、独立運動が起こった。
日本兵は、出兵したシベリアでさまざまな相手と戦わなければならなかったが、そのなかには、日本に植民地化されたために中国・ロシア(ソ連)国境地帯やシベリア地方に逃れた朝鮮人のパルチザンもいた。
23年9月1日、東京を襲った大震災時に起きた、日本人による在日朝鮮人6,000人の大虐殺事件は、今なお癒されることのない傷跡を残している。
事態は常に重層的に展開する。戦争が、ある時代を規定する大きな要素であるとしても、それだけを見ても、時代を全体的に捉えることにはならない。
戦争にまつわる史実と中心的な役割を果した軍人を描けば、ある時代の実相に迫ることができると考える歴史家や映画人や作家は、好んで若々しい明治国家の時代を肯定的に描く。
明らかに「明治の精神」の延長上で起きたシベリア出兵は、どう描くことができるのか。派遣された作家・黒島伝治の『渦巻ける烏の群』や『パルチザン・ウォルコフ』のようにか。
シベリア出兵と米騒動が起きた1918年に、他ならぬ富山県に生まれた作家・堀田善衛の『夜の森』のようにか。
後世の作家・高橋治の『派兵』や歴史家・原暉之の『シベリア出兵』のようにか。それらはいずれも、出兵が象徴する暗い大正時代を描いている。シベリア出兵に関して読むに値する書物がことごとく、出兵に否定的なのはなぜなのか。
そういえば、日本軍の北樺太撤兵から2年後、この時代に「ぼんやりとした不安」を感じて自殺した芥川龍之介は、「将軍」(22年)のモデルとして、日露戦争の「英雄」乃木希典(後々までの「軍神」である)を取り上げ、残酷な行為の果てに勲章に埋まる人間(=将軍)への懐疑を表明した。それは「明治の精神」への深刻な懐疑であった。
シベリア出兵を「過去の出来事」と済ませることのできない、「戦争と軍事と軍人」が社会に露出する時代を、21世紀初頭のいま、私たちは迎えている。
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