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私の中の三好十郎 |
三好十郎没後50年記念誌編集委員会編『劇作家三好十郎』
(2008年10月1日発行、書肆草茫々、佐賀)掲載 |
太田昌国 |
私が真剣に三好十郎を読み始めたのは、一九九〇年前後のことである。一九六〇年代の学生時代にも、断片的にいくつかの作品(戯曲と評論)に触れてはいる。
それは、文学史上・思想史上の欠くべからざる人物の著作にはできるだけ満遍なく触れておきたいという、若い濫読時代のことだから、上手く出会える人もいるし、そうではなく、すれ違いに終る人もいる。
私にとって三好は、どちらかというと、後者だったと思う。学生時代から京都へ行けば必ず寄る書店に、寺町通りの三月書房があるが、その店主である宍戸恭一が書いた『現代史の視点――〈進歩的〉知識人論』(深夜叢書社、一九六四)には、三好十郎論が収められていた。
三好の名前が私の胸のうちに深く刻みつけられることになった、印象的な文章だった。それでいて、私自身が三好と出会う場を十分にはつくりきれなかったことは、今思えば、無念なことである。
一九九〇年前後に、私にとって三好の立論が重要性をとみに帯びたのには、もちろん、時代状況的な必然性がある。ひとつには、ソ連・東欧社会主義体制の無残な瓦解に触発されたものである。
私はソ連圏の社会体制に、夢や理想の実現を思い描いていたわけでは、まったく、ない。
社会主義の理想はそれなりに美しいが、「非権力・無権力」の立場からの権力批判が徹底されなければ、社会主義権力もまた、おそるべき抑圧的なものに転化することを、二〇世紀の社会革命の歴史は教えてくれた。
そのことは、日本でもスターリン批判が公然化した一九六〇年代には、少なからぬ人びとの問題意識にはあった。ソ連体制の崩壊を通して、それを最終的に確認することになったのである。
だからといって、私は世界を制圧した資本主義勝利の合唱隊の輪に加わる意志は、微塵もなかったし、いまもない。社会革命の理念を手放さないとすれば、何が必要なのか。
そのために考えをめぐらせていたときに、一九五〇年代の三好十郎のあり方が蘇えってきたのだった。
五〇年代とは、戦前型ファシズム支配と敗戦の反動で、マルクス主義が驚くほど楽天的に受容されていた時代であった。
たかだか中学生か高校生でしかなかった私は、その風潮の中で、幼くして社会主義思想の洗礼を受けた。
その後の過程はジグザグを繰り返したが、前衛党に権力が集中することのおぞましさ、左翼の新旧を問わずとも「前衛党」を名乗る連中の愚劣さ――それらをつぶさに見て、非権力・無権力的な立場から、社会革命の理念は鍛えられなければならないという確信は得た。
それだけに、五〇年代、能天気な左翼進歩主義者に対して、からめ手の批判を躊躇うことのなかった三好の言説が、生々しく蘇えったのである。
五〇年代、私は中学校の図書室で清水幾太郎や篠原正瑛の本を読んで、煽られていた。内灘基地反対闘争の現場から寄せられる清水の報告は歯切れよかった。再軍備反対の論陣も心強かった。
これらと同時代の出来事であった朝鮮戦争の発端をめぐる清水の発言を捉えて、三好が清水批判を展開したことを私が知るのは、後年宍戸の本を読んでからのことである。
問題はこうである。清水は、米国人ジャーナリストが書いた本を読んで、朝鮮戦争は「アメリカおよび南鮮(ママ)側の挑発や陰謀によるものであること」を確信して、この本を推薦する文章を書いたのだが、三好は同じ本を読んでみても同じ結論には至らなかったことから、清水に立論の根拠を尋ね、同時に、日ごろの清水の平和論に見られる論理的脆弱性を衝いたのである。
三好の観点からすれば、清水の立場は、明示的に語ることはなくても暗黙のうちに、ソ連を平和勢力圏とし、米国を戦争勢力圏とする考え方である。
戦争反対・再軍備反対の立場はいいが(三好もその志は等しくしている)、日ごろは平和を口にしながら、情勢によっては戦争に訴えることも厭わなかった社会主義圏の現実をどう捉えるか、と問うたのである。
清水は三好の問題提起を黙殺し、かえって周辺の進歩主義者や左翼が三好批判を繰り広げた。その論議は、空虚な政治的イデオロギーに満ち溢れていて、三好の論点を(故意か偶然かは知らぬが)外している。この構図を思い返すたびに、その後の五〇年間も、事態は少しも変わらなかったことを痛感する。
だから、私は、社会革命の理念の再生のためには、平和と戦争をめぐる、あの時代の三好の問題提起に応答する必要があると考え、自分なりの方法で、その道を歩み続けている。昨年出版した『暴力批判論』(太田出版、二〇〇七年)は、その道程での中間報告だと考えている。
二
さて、一九九〇年代になって私が三好の立論の意義を再発見したふたつ目の契機は、一九九五年に「敗戦後五〇年」を迎えたことに関わっている。私は、この年、「敗戦後五〇年」を記念するさまざまな活動に加わった。
もちろん、それは、「敗戦」という重要な経験を十分に生かすこともなく過ぎてゆく五〇年の意味をふりかえる立場から、である。先に触れた左翼の崩壊状況とも関連するが、そのころ、日本では右翼ナショナリズムが激しく台頭し始めた。
国家賠償を求めて提訴した旧日本軍慰安婦に対して罵詈雑言を投げつける政治家や評論家が現われた。植民地支配や戦争に関わる教科書の記述が「日本国家・国民の誇りを傷つけている」として、これを改めさせようとする運動が起こった。
「大東亜戦争肯定論」ともうべきムックや雑誌が書店の平台にはあふれた(それは、現在も続いている)。
カンボジア和平や第一次ペルシャ湾岸戦争を契機にして、それまで辛うじて回避できてきた自衛隊の海外派兵が論議されるようになった(それから十数年を経た二〇〇〇年代初頭、自衛隊は米軍の戦闘行為を支えるための軍事作戦に参加して、海外に派兵されるに至った。いったん原則が崩されると、事態は、まさに坂を転がり落ちるように、進行するものである)。
戦後革新運動の要の位置にあった社会党は、労働組合運動の解体によって組織的な後ろ盾を失い、同時に進行した左翼イデオロギーの終焉状況ともあいまって、漂流し始めた。
わずかに生き残った者も、老練な保守政党と連立政権を組むところへ追い込まれ、革新系の首相の口から「自衛隊容認」が公言された。
すべてに、「戦後五〇年」の意義を問う問題が孕まれていた。私(たち)のなかに、戦後五〇年を「再審」にかけるべきだという問題意識が生まれていた。私の場合、この問題を考える導きの糸も、三好十郎の敗戦直後の発言にあった。
「戦前も戦争中も私の思想は戦争に賛成せず、私の理性は日本の敗北を見とおしていたのに、自分の目の前で無数の同胞が殺されていくのを見ているうちに、私の目はくらみ、負けてはたまらぬと思い、敵をにくいと思い、そして気がついたときには、片隅のところではあるが、日本戦力の増強のためのボタンの一つを握って立っていたのです。
これは、私の恥です。私が私自身にくわえた恥です。私の本能や感性が、私の精神と理性にあたえた侮辱です。肉体が精神をうらぎり侮辱することができるほど、私の肉体と精神は分裂していたということです。
これは、まさに人間の恥辱のなかの最大の恥辱でありましょう。こんな恥辱をふたたびくりかえさぬように、私はしなければならない。私はそうするつもりです。たぶん、そうできるだろうと思います」(「抵抗のよりどころ」、一九五二年)。
私が見るところ、三好は、敗戦直後から執筆した戯曲(たとえば、「廃墟」「その人を知らず」「胎内」など)においても、社会評論においても、この立場をよく貫いたと思う。
それは、戦後進歩派や左翼のうちの少なからぬ者が、戦前のファシズム体制にひれ伏した自己の経歴に口をぬぐってふるまっている様子とは、根底的にちがっていた。
敗戦直後に、それぞれの個人が三好の水準の自己凝視=自己内省を行ない、それが社会全体の動きを形作ったならば、状況はずいぶんと違っていたと思える。
この感性さえあれば、戦前型ファシズムの先頭に立っていた昭和天皇の戦争責任も、程度の差こそあれそれに加担していた民衆の自己責任も、それぞれを問う内的倫理が生まれ得たであろう。
私は、再度の「戦後論」が必要だと考えた。『「拉致」異論』(太田出版、二〇〇三年、現在、河出文庫、二〇〇八年)は、私なりの戦後論のひとつであり、三好の問いかけへの応答を模索したものでもある。
社会変革を担うべき左翼の凋落と、それに付けこんだ右翼ナショナリズムの胎動――現在のこの状況の只中で私(たち)が行くべき道を手探りするとき、こうして、三好十郎は私にとっての得がたい導き手のひとりなのである。
注記:発行元の佐賀市「書肆草茫々」の連絡先を記しておきます。頒価1500円+税です。
〒849-0922 佐賀市高木瀬東5-12-6 書肆草茫
TEL +FAX 0952-31-1608
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