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公正な「社会」と「経済」へ
普遍的に問いかける
――映画『今夜、列車は走る』に寄せ |
『労働情報』742/43合併号(2008年5月1・15日)掲載 |
太田昌国 |
アルゼンチン映画、ニコラス・トゥオッツォ監督の『今夜、列車は走る』(原題『次の出口』)は、政府が採用した経済政策によって、市井に生きる社会人たち(労働者とその家族、周囲の人びととの関係を含めて)がどのような影響を受けるかを描いている作品である。
鉄道民営化と廃線によって追われゆく鉄道労働者の行く末という、映画の主題に近づけて言えば、メネム政権(一九八九〜九九年)のもとで、鉄道の民営化事業が急速に展開された時代を具体的な背景としている。
もちろん、それは、電気・ガス・水道・石油・郵便など、人びとの日常生活を規定する基幹事業と産業の全分野に関わって実施された政策の一環であった。
これに先立つ一九八〇年代からアルゼンチンを含めたラテンアメリカ諸国にあっては、新自由主義経済政策が猛威をふるっていたという、この映画の外部からの知識を導入するなら、『今夜、列車は走る』に描かれている事態は、アルゼンチン一国内での出来事であるという限定性を超えて、世界中に現われていることだと見なすことができる。
違いがあっても、それは、若干の、時代のズレでしかないのだ。
第二次世界戦争以後の戦後世界秩序を大きく規定したのは、東西冷戦構造であった。米ソ対立が続く世界の中で、ラテンアメリカ地域では一九五九年にキューバ革命が成就し、それが社会主義的な志向を明確にするや、米国と背後の金融資本にとって「第二のキューバの出現を許すな」が至上命題となった。
キューバに対抗しうる軍事政権をこの地域に次々と成立させ、そこに資本をつぎ込んで、ごく少数の特定層を潤す表面的な経済的活況を実現した場合もあった。
やがてそれは、債務の累積という事態を生み出し、ラテンアメリカ諸国(とりわけ、前世代の借金を背負わされるだけで、何の恩恵を受けているわけでもない、今を生きる民衆)にとっては経済的な重荷となり、供与した側にとっても国際金融問題となった。
そこで、この地域に導入されたのが、一連の新自由主義経済政策であった。時代でいえば、軍事政権下の国もあれば、民主化の過程をたどっている国もあった。
冒頭に触れた「経済」政策と市井の「社会」人という対比を続けるならば、経済とは、この場合、国家を、超大国の場合であるなら世界全体を支配し得る主導権を握る者の手中にあることを意味している。
とりわけ、新自由主義が全世界的に猛威をふるう二〇世紀末以降の時代にあっては、世界のどんな地域の、どんな国家をも、経済的な主導権を持つものたちが押しつけるグローバル・スタンダード(国際基準)に適応しようと駆り立てることになる。
力量の圧倒的な差が存在しているから、この過程は、有無を言わさず暴力的なものになる。
この「暴力」は、しかし、貿易の自由化・規制緩和・投資・外資導入・構造調整・構造改革など、人びとが「中立的な」ものと馴染まされている経済と貿易の用語に彩られているから、ひとはその本質には気づかずに、国際経済上のゆるぎない秩序がそこにはあると錯覚するのである。
この、見えない暴力のもとにねじ伏せられるのは、単一の経済原理には染め上げられてはいない、広い意味での社会に生きる市井の人びとの意志と生き方である。
映画では、それは、アルゼンチンで何代にもわたって続く鉄道員家族の物語りとして展開される。
アルゼンチンを「征服」したとまで言われたイギリス資本の大規模な投資によって、同国での鉄道敷設が本格化したのは一九世紀末であったから、確かに一世紀有余の鉄道の歴史の中で、日本でと同じように、無数の鉄道員一家の物語が生まれたのであろう。
(あえて付言すれば、大英帝国が採用した一九世紀末から二〇世紀初頭にかけてのこの政策を「自由主義」と呼んでいる史実は、現在の「新自由主義」との対比において、記憶するに値しよう)。
その後アルゼンチンは、「大発展」とも称される経済的上昇期を迎えるから、広大な国土の物流と人の移動を可能にする大動脈としての鉄道事業からは、確固たる中流階級が生まれていったのであろう。
トッオッツォ監督が、この映画では「中流階級の崩壊を描いた」と繰り返し語るゆえんである。
長いあいだ一定の安定性を保持していた彼らの生活が、二〇世紀末の新自由主義経済政策の導入によって破壊されてゆくのだから、本来なら、もちろん、これを批判し、これに抵抗し、対案を提出し、そして実践する主体が、確実に存在しているはずだ。
しかし、情報(メディア)産業が総体としては、現行の秩序を維持し、補足し、強化する役割を担っている現代社会においては、この動きは徹底的に無視されるか、周縁化されて、容易には人目につかなくされている。
したがって、経済政策の主導者とそれへの追随者たちばかりが目に見えるものとして突出し、それ以外の者は排除されているのが現状である。それは、アルゼンチンであろうと、日本であろうと、世界のどこであろうと、変わることのない現実だ。
アルゼンチンを新自由主義が席捲した時代は、ちょうど、世界的に見るなら、ソ連・東欧圏の社会主義体制が崩壊し、その影響もあって、社会変革のための思想と実践が大きな困難に見舞われた時代と並行している。
私の考えでは、それは、頑迷な前衛党主義や、大労働組合中心主義を免れることのなかった従来の反体制運動や労働運動に反省を促し、それを脱却するきっかけともなるものだから、必ずしもマイナス要因だけではない。
したがって、映画『今夜、列車は走る』に描かれているのが、資本の攻勢に抵抗するだけの組織的拠り所を失って、「個」に解体された元鉄道労働者であるという設定は、きわめて、状況的な必然性をもっているというべきである。
それでいて、彼らのなかには「公」の部分、すなわち「社会性」が生き続けていることもきっちりと描かれていることは、もちろん、大事なことだが、同時に、その「社会性」と、解体された「個」がきわどいせめぎあいの只中にあるということも事実である。
映画は、人間のこころにある、その微妙なゆらぎを描くことによって、忘れがたい余韻を観る者に残すものとなった。
日本の私たちも、五年間に及んで小泉的新自由主義政策の時代を経験した。「痛みを伴う構造改革」路線である。誰に痛みを強いて、誰に利益をもたらすのか、と問うことのない「上からの改革」である。
かつてなら、「新自由主義政策」と聞いて、世界に先駆けてそれを体験せざるを得なかったラテンアメリカ地域の実態を参照する時期もあった。
だが、現実に起こっている雇用と労働条件の破壊は、かつて実施された労働関連法規の改定や制定と関連していること、社会保障関連費の抑制と、保険業の規制緩和、医療保険やがん保険の急速な伸長とが密接に関連している事実を、身をもって理解できる時代を私たちも生きている。
その意味で、映画『今夜、列車は走る』は、「経済」と「社会」の公正なあり方を考える人にとって、深い示唆を与えてくれる普遍性のある作品だといえる。
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