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アトミックサンシャインの中へ――ある展覧会について |
『派兵チェック』第190号(2008年8月15日発行)掲載 |
太田昌国 |
この8月、東京・代官山のヒルサイドフォーラムで、「アトミックサンシャインの中へ――日本国平和憲法第九条下における戦後美術」と題する美術展が開かれた。ニューヨーク在住の若いキュレーター、渡辺真也が企画し、今年初頭に同地で展覧会とシンポジウムを開いた後、夏には日本へ巡回したのである。
アトミックサンシャインとは、1946年2月、GHQ民生局長、コートニー・ホイットニーが吉田茂やその側近、白洲次郎などと行なった憲法改正会議のことである。会議の休憩時間に、英語に堪能な白洲がアメリカ人の輪の中へ入っていくと、ホイットニー曰く、“We have been enjoying your atomic sunshine.” と。
的確だと思われるダグラス・ラミスの解釈を引くと、「ホイットニーは日本人に対して、この新憲法が論拠や論証に裏づけられたすぐれた思想であることだけをのみ込ませようとしているのではない。
この草案は、世界史における最大の、しかももっとも恐るべき権力、原子爆弾という権力によっても裏づけられているのだ」(『影の学問・窓の学問』所収「原子力的な日光の中のひなたぼっこ」、晶文社、1982)ということを思い知らせようとして吐かれた言葉である。傷口に塩をすり込むかのようなこの表現をあえて使って、企画者は何をしようとしたのか?
「他者の存在を認め、国権の発動としての戦争を放棄することを自ら憲法の中において宣言することが、暴力の独占機関としての国家のメカニズムを完成させた近代を乗り越えることに繋がらないだろうか。これは、完全にヨーロッパ近代を超克した、かけがいのない理念であり、これこそ、21世紀を戦争の世紀から脱却するための可能性ではないだろうか」(渡辺真也「戦争の世紀からの脱却――ヨーロッパ近代の超克としての憲法第九条」、同展のためのカタログに掲載、2008)。
明快な趣旨である。
「理想を述べるのは芸術家の仕事である」から、「近代の外部」にあって「他者とのコミュニケーションによって初めて発動する九条」の理想を考え抜きたいともいう。
その趣旨に沿って選ばれたのは、森村泰昌、松澤宥、大浦信行、オノ・ヨーコら内外のアーティスト10人ほどの作品群である。
昭和天皇の頭上でそれこそ「アトミックサンシャイン」が燃えさかる図像など、天皇をモチーフにした数点の作品を出品している大浦に注目した。
大浦の同工の作品が富山県近代美術館で展示されて、議員や右翼の批判にさらされた美術館が、大浦作品を非公開にし、図録も焼却して、大きな問題となったのは、1996年のことである。それだけに、勇気ある展示だな、と思う。
東京での展覧会初日には、シンポジウムが開かれた。キュレーターの渡辺による人選は、中原佑介(美術評論家)、鈴木邦男(一水会顧問)に私という、ユニークなものだった。
中原は当日やむを得ぬ事情で欠席したので、会場に居合わせた、出品している幾人かのアーティストも発言する形で、シンポジウムは続いた。司会者は、各人に個別の質問をする進め方を選んだので、鈴木と私のあいだでは「対論」となることはなかった。
私に対する渡辺の質問と、それに対する応答は、今後も考え抜くべき課題と関わるので、ここに書き留めておきたい。
森村泰昌の「作品」は、1970年11月、市ヶ谷陸上自衛隊東部総監部を占拠し、自衛隊員に憲法改正とクーデタを呼びかけた三島由紀夫のバルコニー演説を「再現」するものである。
三島事件を、当時と現在どう思ったか(思うか)と、渡辺は問うた。私は答えた。
ブルジョワ作家には、孤独、ノイローゼ、狂気をすら原動力にして創造的な表現行為を行なう者がいるが、三島はその典型。天皇の再度の神聖化と戦争を待望した最後の行為も、他者との一体化の道を見出すことができずに選んだ自爆的なもの。
「天皇陛下万歳!」の檄も、『英霊の時』(1966)で三島が、自らの心情を仮託して描いた2・26事件の青年将校や特攻隊員たちの怨念と矛盾する。彼らは裕仁に向かって「などてすめらぎはひととなりたまいし」と恨みをこめた言葉を繰り返すのだから。
大浦の作品に加えて、私は松澤宥の思想と作品にも引かれるところが多かった。松澤をどう思うか、と渡辺は尋ねた。
松澤は、吉本隆明や井上光晴と同世代といえるが、皇国青年であった後者ふたりとは違って、日本の戦争に批判的で、敗戦を確信していた。
46年のエッセイ「廃墟について」を読むと、「人類の作るものはいずれ滅びる、人類もいずれ滅びる」という透徹した物の見方をしている。
皇国青年の呆然自失とも、天皇主義者から民主主義者へ、あるいは左翼への軽薄な転向とも無縁であった松澤には、敗戦の行く末を見つめる確固たる視点があった。
それが、60年代になってからの、言語を主体として作品制作の果てに、「消滅」へと人類を誘う、根源的な理想主義へと繋がっている。
最後の質問は、「九条の希望は?」というものだった。諦めているとは、意地でも言わないが、社会・経済的な規定性から言うと、困難な課題ではある。
先日の洞爺湖会議に集まったG8+中国には、戦争をしない意志も、軍備を縮小する意志もない。
戦争に次ぐ戦争で発展してきて、「戦後」を知らない米国が、あらゆる意味で世界に君臨している姿に、従うべきモデルを見ているからである。希望の根拠はどこにあるか?
G8諸国とは違って、常に戦場となっている地域の民衆、大国が作り売り込む兵器を隣国との戦争のために購入する政府をもつ国々の民衆、それは世界人口の過半を占める。その人びととの連帯によって、好戦的なG8を包囲すること。それが、か細くはあっても、希望の根拠だ。
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