仰天!武蔵野市『民主主義』周遊記(その9)

借金火達磨・巨大政治犯罪都市

やはり分裂、青菜に塩の「左ギッチョンチョン」神々

1999.2.26

 さて、前回に引き続き、武蔵野市で展開された典型的な「左ギッチョンチョン」箱庭紛争の略年史をひもどく。エピソードが非常に豊富なので、まずは荒筋とする。

 時は1991年春。湾岸戦争勃発の1月17日が私の54歳の誕生日。まだまだ若い。引っ越してきたばかりで地元の選挙権がないままに、傍観を決めこむしかなかった市長選は、現市長の圧倒的勝利に終った。

 その敗北の余燼さめやらぬ頃、たまたま私が、武蔵野・三鷹地区労働組合協議会(以後、「武三地区労」の略称とする)のリソグラフ印刷機を利用していた際、「市民の会」事務局長で弁護士の高木一彦の彦との初顔合わせと相成った。その一見ニコヤカな顔は、その後やはり商売面と判明したが、その直後、別の地元紛争が発生したので、連携を保つこととなった。この「別の地元紛争」も結構複雑な構造なので、ここではふれない。別途、本誌連載「元日本共産党『二重秘密党員』の遺言」に記す予定である。つまり、日本共産党に関係する紛争である。

 さて、そうして「市民の会」に参加した私の目の前で展開された光景は、実に見慣れた「左ギッチョンチョン」紛争の典型であった。前回も記したように、京都大学の学生運動で、日本共産党の子会社に当たる民主青年同盟系の学生組織と対立し、傷害で3万円とかの罰金を払ったことのある新人市議会議員、山本あつしの彦の入会申込みは、「市民の会」にとっての最大かつ天地開闢以来の大問題であった。というよりも、むしろ、その入会申込に対する日本共産党の猛然たる反対こそが、最大の難問であった。

 しかし、会の申し合わせには、入会拒否の定めは記されていなかったのである。

 ジャン、ジャン、ジャンジャカ、ジャンジャン、

 ジャンジャカ、ジャンジャン、ジャン!

 スッタカモンダカの挙げ句の果てに、結局のところ、日本共産党の横紙破り作戦は成功しなかった。当然のことだが、定めがないのに、「前科」を言い立てて「市民権を認めない」などという無理難題のごり押しは、与論の前に孤立する。結果として、「市民の会」から団体は抜けて、個人加盟にするという決着を見た。その際、市長選の確認団体としての性格をどうするのかという点は、棚上げとなった。個人加盟の中には、日本共産党の武蔵野・三鷹地区委員会(以後、「武三地区委員会」)の委員長、佐久間某の彦も入っていた。

 そして3年後、翌年に迫った市長選を控えて、「市長選の確認団体」問題が再燃する。ここで、日本共産党の武三地区委員会が、いきなり、「市民の会」が市長選をやるのは約束違反だと言い出した。それも「市民の会」に参加していた多数の日本共産党員にすら何らの議論の場も与えず、上から、これが地区委員会方針じゃとばかりに、おっかぶせたのである。私は当時、まだ党籍があったから、「市民の会」の会議の席上で、武三地区委員会委員長、佐久間某の彦に向かって、議論を圧殺するような地区委員会見解の発表の仕方を非難した

 すると、どうだろう。佐久間某の彦の方は、痛いところを突かれてモジモジ、赤い顔で困っていたのに、突然、「市民の会」事務局長の高木一彦の彦が、私に向かって偉そうに鳴りつけるように、何かを言ったのである。馬鹿馬鹿しい限りだったので、正確に覚えていないのだが、主旨は、事務局長の自分を差し置いて、これまた組織代表の日本共産党の武三地区委員会の委員長ともあろうお方に、そういう失礼なことを申すでないぞ、ということだった。この時には、先に述べた「商売面」が完全に剥げて、本性の権力志向が、むき出しになった。私には、何も、「市民の会」の一員として発言していたわけではない。ところが、たかが市民運動でも事務局長ともなれば、いつの間にか、権力を握っている気になってしまうものらしいのである。

 ああ、愚かなる神々たちよ!

 閑話休題。ここでは荒筋を先に語って、後にエピソードに立ち戻るのであった。

 さて、そのような日本共産党武三地区委員会の再度の横車をも、ぐずりぐずりと避けながら、「市民の会」は、やはり市長選に候補を立てようということになった。その時、私は、皆の衆の逡巡の有様を眺めながら、かつての東京都知事選の経験を話した。私は、いわゆる革新自治体の典型だった美農部都知事実現の際、末端ではあったが、千代田区労働組合協議会の幹事、事務局長の立場で、「労組選対」の一翼を担っていた。その経験を基にして、つぎのように提案したのである。

 簡単に言えば、このような「左ギッチョンチョン」箱庭紛争状況を打ち破る唯一の手段として、武蔵野市にはゴロゴロいる凶状持ち、でなかった、ええと、「肩書」持ちの「文化人」とやらを活用すべしという提案である。

 これを受けて、自らは弁護士でもあるれっきとした「肩書」持ちの「市民の会」事務局長の高木一彦の彦らが、20人ほどの「肩書」持ち「文化人」を集めてきた。この「20氏」の連名で、100人を超える市民が集合した。そこで私は、ついつい発言してしまったのだが、それは予感があったからだった。私の発言の要旨は、つぎのようだった。

「革新都政が崩壊した現状の中で一緒にやるのだから、その経験を踏まえて、あそことは嫌だという政党政派の線引きは、絶対に止めにしてほしい」

 私の予感は当たった。途中で、100人を超える市民の付託を受けて「20氏」が選んだ候補の桜井国俊の彦の支持を、日本共産党が拒絶すると決定したのであった。最初の引き金を引いたのは、保守派だった。「20氏」の推薦を受けた当時、桜井国俊の彦は、東京大学の客員教授だった。専門は都市工学である。東京大学工学部を出て、国連の職員になり、世界各国の環境問題を専門にしてきたという経歴紹介だったのだが、学生運動の経験とか、それにまつわる著述の存在とかについては、ほとんど誰も知らなかった。ところが、どこで探したものか、議会の保守派が、「革新自治体は幻想だ」という主旨の若い頃の著書を材料にして、「過激派」攻撃を始めたのである。

 私には、あの訳の分からない「三派全学連」とか「全共闘」とかの世代には、当時の労組役員として苦虫噛み潰す想いが残っているだけで、まるで歴史研究的な興味が湧かない。だから、一度も詳しい詮索をしたことがないのだが、ともかく、桜井国俊の彦が、民青系とは違う学生組織に加わっていたことは確かのようである。本人は「毎朝殴られていた」と言うのだが、日本共産党にとっては、公然とは口にしないまでも、民青系以外はすべて、「トロッキスト」とか「暴力分子」」となる。分類項目としては、元MPDとかの市議会議員、山本あつしの彦と同じ扱いである。

「市民の会」には日本共産党員が多数加わっていた。地区委員会が別行動を取る方針を出したので、当然、それぞれの党員個人としては、立場の選択を迫られる。この時、「市民の会」緊急総会が開かれたのだが、私は、別の集まりの関係で遅れて参加した。

 ああ、あの時の、ああ、あの、まさに青菜に塩の、ああ、あの顔、この顔、あああ、あ、誰か、故郷を、を、を、想お、わあ、ああ、ざあ、あるう、う!

 そして未だに、この分裂の「しがらみ」の呪い紐を断ち切ることのできない暗黒の狭間に、「元」日本共産党員ほかの「よくする会」会員たちが、いじましき権力闘争の日々を、あえぎ過ごしている。なぜ、または、いかなる経過で彼等が「元」の身分になったのかについては、次回に、ということで、今回はチョンチョン。

以上で(その9)終り。(その10)に続く。


(その10)前回の分裂落選にも懲りずに再分裂の「革新」
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