仰天!武蔵野市『民主主義』周遊記(その10)

借金火達磨・巨大政治犯罪都市

前回の分裂落選にも懲りずに再分裂の「革新」

1999.3.5

 さて、前回の終りに、「ああ、あの時の、ああ、あの、まさに青菜に塩の、ああ、あの顔、この顔」と書いたら、そのつぎには、なぜか自然に、「あああ、あ、誰か、故郷を、を、を、想お、わあ、あ、ざあ、あるう!」という唸りが出てきてしまったのだが、その後に、ふと気付いたのは、「あの顔、この顔」という歌詞が、それに続く「誰か故郷を想わざる」とともに、あれは小学校唱歌なのだろうか、確か、「故郷」とかいう題名の古い歌に入っていたことだった。

 われながら、まったく余計な話だが、別に、武蔵野市の「左ギッチョンチョン」の神々の「あの顔、この顔」が、そんなにあどけなくて懐かしいわけではなかったのであって、むしろ小生意気で小憎らしい程度なのであり、「故郷」の歌詞につながってしまったのは、単純に無意識下の言葉の連想に過ぎないのであるから、以後も誤解のないように、ここに一言、言い訳をして置く。

 そうなのである。あの時の、私が別の集まりの都合で遅れて、「市民の会」緊急総会に駆け付けた時の、「あの顔、この顔」ったら、もう、まるでまともに正面から見られたものではなかった。市長候補の桜井国俊の彦の顔は、真っ青なだけではなくて、まさに、不眠の夜々だったのであろうか、しおれ切っていた。もう、すべて私が悪いのよ、お気に召さないのなら、いっそのこと殺して頂戴、とでも言いたげな面持ちだった。事務局長の高木一彦の彦の顔は、青いだけではなくて、眉間に縦皺が寄り、不合格通知を受け取ったばかりの受験生もかくやとばかりに、青筋が立って、ひくひく痙攣しているようだった。他の連中も、まるで意気が上がらない。皆が皆、へたっとしていた。

「文化人」の20氏を仲人に立てて、やっとのことで反市長派の統一候補を決定できたというのに、しかも裏では相変わらず、日本共産党の武三地区委員会が「政策協定を結べ」と意気込み、揉め揉めしていたというのに、肝心要の統一候補の「知られざる」前歴の暴露によって、一切合財が崩壊の危機を迎えているのである。これでなぜ「ひくひく」せずにいられようか。「へたっと」ならずにいられようか。

 この状況を見て取った瞬間に、私は、遅れてきた理由の別途の集りで乾杯してきた勢いも手伝ってか、特に考えもせずに、よっし、と立ち上がった。長年鍛え上げた喉からは、スピーカー無用の即席演説が迸る。これは持論なので、記憶に頼る必要もないのであるが、ほぼ、つぎのような主旨だった。

「桜井さんが、若い頃に、革新自治体を幻想だと書いていたとかで、それが問題になっているようだが、その本を私は読んでいない。しかし、私は、桜井さんよりは年上の1960年安保闘争の世代だが、都心の千代田区労協事務局長などの立場で、革新自治体の典型の美濃部都政を、最初から最後まで、下から見てきた。美濃部都知事が実現したら、次には、社会党と共産党の勢力争いが激化して、足元は、お留守になり、1960年安保闘争の遺産を食い潰しているという批判が出た。国政についても、社会党と共産党が、別々の構想を発表して、結果は、どちらも失敗した。社会党は、公明党までを含む社公民政権を構想した。共産党は、70年代の遅くない内に民主連合政権を実現すると予言していたが、また予言が外れたと言われただけで、むしろ逆に、政治の反動化が進んだ。労働組合運動も右傾化した。ソ連も崩壊した。皆が負けたのだ。ここに集まっているのも、いわば敗残兵ばかりで、社会党にも共産党にも、その他諸々の新左翼とやらにも、他の組織や誰かを批判したり、大きなことを言う資格はない。60年安保以後の世代の桜井さんらが、それ以前の革新自治体やら、社公民政権やら、民主連合政権構想やらについて、批判的だったのは、むしろ、当然のことである。自分たちの方針の誤りを正直に認めない組織の指導者には、発言権がない。幻想と言われても仕方がない。今、重要なことは、ここに集まった敗残兵をまとめて、どれだけの反撃ができるかということだ」

 私のこの喇叭で、少しは座がほぐれた。今や、「政策協定を結べ」と揉め揉めしていた日本共産党は去った。つぎの問題は、「指導部に入れよ」と要求していた大衆党こと、山本あつしの彦の1議席のみを誇る元MPDの取り扱いだった。これには「ポルポト支持の組織で気味が悪い」などの反対意見が続出して、結局、まったく政党推薦なしで再スタートすることになった。

 ここでは荒筋だけにするので、先を急ぐようだが、まずは、投票結果を発表する。数字については、市の選挙管理委員会に電話取材して、確かめた。本連載では以前に概数で論じたが、その部分は後に訂正し、その訂正日時を明記する。

当選:土屋正忠の彦(自民ほか推薦)  2万4887票

落選:深沢達哉の彦(保守無所属)   1万3350票

落選:桜井国俊の彦(革新無所属)   1万0900票

落選:佐久間某の彦(共産推薦)     2545票

 因みに、日本共産党の市議会議員の得票総数は、1987年が8243、1991年が6074、1995年が5027と、まさにジリ貧であり、1995年の数字は有効投票総数の10%の5270票より低い。しかも、その武三地区委員長が自ら出馬して、2545票しか取れずに、当然ながら有効投票数の10%を割り、供託金100万円を没収されてしまったのである。佐久間某の彦とは、何度も会って、議論もした仲なので「おいたわしや」の感なきにしもあらずである。

 さて、陰では「トロッキスト呼ばわり」(ああ、古い!古い!)もされたそうだが、若気の至りの著書の「革新自治体は幻想」説に起因する「分裂」選挙で、落選の憂き目を見た3位の桜井国俊の彦と、ドンジリ4位の佐久間某の彦とバトンタッチした日本共産党武蔵野市議会議員団長、栗原信之の彦が、すでに今春は4月25日に予定されている市長選への立候補を表明した。一応、この2人を「革新」に分類しよう。

 それに対する「保守」の立候補表明者は、今のところ、現職市長の土屋正忠の彦だけである。上のような4年前の票数から考えれば、すでに本連載の何回か前にも述べたように、1人に絞られた「保守」の方が圧倒的に有利である。枕を並べて3,4位の落選を味わった「革新」が、なぜまた「分裂」の不利な選挙に臨むのか。この4年の経過には、私も、かなり踏み込んで付き合ってきたので、次回には、もう少し詳しく振り返ってみたい。

以上で(その10)終り。(その11)に続く。


(その11)場外乱闘、殿乱心! 慌てて幕引き予算本会議
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