借金火達磨・巨大政治犯罪都市
「市民が選んだ統一候補」を称する再分裂「革新」
1999.3.19
再び、武蔵野市「左ギッチョンチョン」箱庭紛争の現代史に戻る。
話の都合上、いきなり「現在」に飛ぶ。統一地方選挙を一カ月月後に控えた1999年3月中旬現在、我が家の周辺にも、時折、「よくする会」の事前運動宣伝カーが回ってくる。聞き慣れた声の鶯嬢こと鶯オバサンの自称上品な主婦の媛が、「市民が選んだ統一候補、桜井国俊!」と連呼している。しかし、この「市民が選んだ統一候補」という表現には、納得できないどころか、腹立たしい思いをする関係者も多い。特に腹立たしいはずの組織は、すでに「分裂」して市議団長、栗原信之の彦の市長選立候補を決め、これまた事前運動を開始している日本共産党武三地区委員会であろう。
私も、腹立たしいだけではなくて、呆れ返って「よく言うわ」、ただただ、「よくする会」の「ビュロー」への軽蔑の念を深めている。ついに正体を現したな、この子鼠たち奴、と思っている。フランス語の「ビュロー」(bureau)は、本来、「事務机」の意味であるが、「政治局」と訳されたりする。「ビュロークラシイ」(bureaucratie)は、「官僚主義」と訳されるが、むしろ、「事務机権力」と考えるほうが実態に合っている。
では、私が、「よくする会」の「ビュロー」と呼ぶ体制は、どのような経過で形成さらたのであろうか。
今から4年前、桜井国俊の彦(革新無所属)は1995年の地方選挙で市長選に3位、落選だが1万0900票と、かすかでも 1万票を超えた。彼および彼を候補者として擁した陣営の「よくする会」は、同じ落選でも「共産党の推薦」どころか共産党そのものの武三地区委員長、佐久間某の彦の、哀れ4位、2545票、有効投票数の10%を割り、供託金100万円を没収の憂き目とは違って、それほど落ち込むこともなく、むしろ、その票差に比例して大いに意気が上がっていた。「政党なしでも結構戦える」という実感があった。
ただし、裏の裏の事情もあった。「よくする会」には、日本共産党の党員が、かなり残っていた。もともとが、すでに紹介済みの略史の通りに、社会党と共産党による「社・共」共闘時代の流れを汲む組織なのだから、当然と言えば当然なのだが、日本共産党の武三地区委員会が組織として離脱して以後にも「よくする会」を抜けなかった日本共産党員には、いささかの意地と反抗心が見られた。その意地と反抗心は、前回の選挙の土壇場での「桜井国俊の彦・トロッキスト呼ばわり」と、武三地区委員長、佐久間某の彦の分裂立候補によって、いやましに高まった。彼らは、一時は「青菜に塩」の形相も呈したが、以後、覚悟を決めて桜井国俊の彦を支持し続けた。「自らの信念を貫く」などの悲壮な発言も目立った。そして、選挙後、日本共産党お定まりの「処分」騒ぎが漏れ聞こえたのだが、経過が経過だけに、やはり、いきなり「除名処分」まではできなかったようだ。しかし、世間一般で言えば「窓際族」扱いの結果、かなりの「よくする会」会員の日本共産党員が、これを契機に離党したようであった。
以上、「ようだ」調で推測風に記したが、私自身が別途の連載「元日本共産党『二重秘密党員』の遺言」で記しているように、武三地区委員会の内情にもいささか通じている。より具体的に書けば、これもお定まりの「情報漏洩」騒ぎにもなりかねないので、やむを得ない。「よくする会」の表面に現れた人事だけを見ると、「市民の会」創設以来、長年にわたって事務局長だった弁護士、高木一彦の彦が、突然、不機嫌になって、最初の市長候補、石崎和彦の彦と交替し、またその後、返り咲くという経過を辿った。
一応は政党活動の経験を持つ日本共産党の離党者たちが「よくする会」に依拠するとなれば、当然のことながら、政治活動に関する限り「よくする会」運営に専念することになる。もう1つの要素を簡単に指摘して置くと、従来から事務局メンバーの中心には、某社会党代議士の娘の媛などがいた。この媛たちと、元日本共産党員の彦および媛たちが、最初は、「社・共」共闘体制の「市民の会」事務局を形成していたのである。そのシャッポの「社・共」がなくなり、「よくする会」に改名し、結果として事務局がトップとして「ビューロー」を形成するという経過である。勢い、「よくする会」は、それまでの寄合所帯の連絡機関から、独立組織へと変貌し、一種の政党化への傾向を示すことになる。
その折も折、からくも4選を果たした市長、土屋正忠の彦が、任期の途中で衆議院議員選挙に撃って出るか否かが、最大の問題となった。結果から先に言うと、市長の4年の任期の1年半目に当たる1996年10月20日に、衆議院が4年目の解散総選挙となったのだが、その時に、土屋正忠の彦が、かねてからの狙い通りに、市長を辞任して衆議院議員に立候補する可能性があると考えられたわけである。
つまり、後釜の市長選が1年半後になる可能性がある。となると、すぐにも臨戦体制に入らなくてはならない。現職の強みを持つ土屋正忠の彦が赤絨毯に向かえば、跡目相続の「保守」は、当然、「新人」となる。これなら絶対という知名度の高い2番手がいれば別だが、土屋正忠の彦には、よくある独裁者の「ナンバーツー潰し」癖が見られる。ナンバーツー以下は、いずれもドングリの背比べで、知名度は低い。むしろ、桜井国俊の彦の方が、2度目の立候補だけに知名度が高いと言える。
そこで、桜井国俊の彦は、その1年半後の市長選ならば、ともかく継続して立候補するとの意思を表明した。
その後の経過を駆け足で紹介すると、まず、市長選の半年後、1995年9月15日には、『武蔵野市民ジャーナル』が創刊され、無償のヴォランティアの手で各戸配布された。私も、近所の300枚ほどの配布に協力した。
土屋正忠の彦が同年6月27日に設置した「武蔵野市中期行財政運営懇談会」に対抗して、同年10月1日に、「武蔵野市の明日を考える市民行財政懇談会」を設立した。
この「武蔵野市の明日を考える市民行財政懇談会」、略称「市民行財政懇」の会合には私も参加したが、「委員」は辞退し、オブザーヴァー参加とした。「武蔵野市」の「行財政」に興味がなかった訳ではない。調べるのなら誰にも拘束されずに、独自に調査し、独自の意見を発表したいと考えたからである。以後、私が特にテーマとして選んだ土地開発公社による塩漬け用地問題に関しては、また別に項目を立てて詳しく記す。ともかく、翌年の1996年3月31日付けで『武蔵野市の明日を考える市民行財政懇談会提言』、翌々年の1997年7月には、『武蔵野市第2期市民行財政懇談会報告書』が作成され、市当局にも提出されたが、私は、独自に個人新聞『フリージャーナル』、続いて『武蔵野市民オンブズマン』によって、塩漬け用地問題の追及を続けた。現在は、インターネットのホームページ『武蔵野市民オンブズマンの城』による発表を中心にしている。
その間、1996年5月25日には、地元吉祥寺の武蔵野公会堂ホールで、「武蔵野市の明日を考える市民の集い」が開かれた。メイン・イヴェントの「あなたが裁く市民法廷」には、私が「ジャーナリスト」というあまり好きではない肩書きで出場し、土地開発公社問題をドラマチックに解説した。桜井国俊の彦も、「武蔵野市民土地探偵団」、略称「土地市民探偵団」を名乗って出演した。
だが、以上のような、結果として1996年10月20日に行われた衆議院の解散総選挙には、市長の土屋正忠の彦は立候補しなかった。先にも簡単に述べたように、小選挙区制では、当時すでに「エイズ」問題で厚生大臣として「棚からボタ餅」の大受け、今や首相人気第1位の菅直人とは、到底太刀打ちできないので、諦めざるを得なかったのである。
衆議院選挙に土屋正忠の彦が立候補せず、いわば幻の市長選が空振りに終わって以後、「よくする会」の正式名称は、前回の市長選以来の「桜井くにとしとともに武蔵野市をよくする会」から「武蔵野市をよくする会」に縮小した。桜井国俊の彦は、「よくする会」の代表ではあるが、市長予定候補ではなくなった。市長選については、後に議論し直すことになった。以後、試行錯誤の議論の末、昨年の1998年4月5日、「よくする会」第5回総会が開かれた。席上、ビュローは、「土屋5選阻止に向けた市民的共同」のスローガンを打ち出し、「共同のテーブル作り」を提案した。
私は、この方針に対して、総会の準備段階から何度も反対を表明していた。理由は簡単である。前回の市長選では日本共産党を含めた場で、桜井国俊の彦を候補者に選んだが、そこから日本共産党が脱落した。「トロッキスト」などと古めかしい表現で誹謗している。こういう場合、日本共産党が考えを変える可能性はない。これまでの実績を生かして、「よくする会」として独自に桜井国俊の彦を擁立し、共闘を呼び掛ける方が筋である。
ところが、ビュローが執筆編集する「武蔵野市をよくする会ニュース」(1998.4.16.36号)記事の一部引用で説明すると、つぎのようになった。
「何人かの方々からは『一緒にやれるはずのないものを待つことはない』『共同のテーブル作りなどという柔なことでは事態は進まない、桜井さんを押し立てて進むべきだ』との意見も出されましたが、大方は議案書で提起されている『広く市民が共同し、土屋5選を阻止する統一候補を擁立して今度こそ勝利しよう』との基本方針を支持するとの意見でした。[中略]予想したよりも、基本方針はスムーズに、拍手で承認されました」
この引用文の最後の「スムーズ」とか「拍手で承認」とかは、議事進行の規則がないし、従来は一致点で共同行動を組む事にしていた市民運動には、まるで相応しくない表現である。ともかく結果として、上記の超常連の私をも含む「何人かの方々」の意見は、組織的に無視されることになった。実情を言えば、いつものように散会後に2次会の酒場、3次会のカラオケを控えていて、面倒臭いから「拍手」で終わっただけのことだったのだ。
ところが、ビュローは、こともあろうに、8人の内の5人は「よくする会」の常連会員が占める「統一テーブル呼び掛け人」こと「8氏」を立てて、私をも含む上記の「何人かの方々」など、つまりは「統一テーブル」作りに反対した常連会員にはまったく声も掛けずに、百人規模の「統一テーブル」こと、「市長候補の一本化をめざす懇談会」を開いてしまったのである。
この「懇談会」の開き方について、声を掛けられなかった常連会員の一人が、「よくする会」の定例会議で怒ったところ、つぎの2回目の「懇談会」については、ビュロー発「武蔵野市をよくする会ニュース」(1998.6.5.37号)記事に、事務局長の高木一彦の彦の署名入りで1回目の報告が載った。その最後には、こうあった。
「次回の懇談会を6月13日(土)午後7時に開くことにして散会しました」
つまり、「よくする会」のニュースであるにも関わらず、会員への参加呼び掛けはしないという不自然な事務局長「参加報告」なのである。ところが、私には、別途、上記「市長候補の一本化をめざす懇談会」の名で、2回目の「懇談会」参加を呼び掛ける葉書がきた。1回目には呼ばずに、それが問題になったら、しれっとして2回目への参加を呼び掛けるのである。「ふざけるな!この餓鬼ども奴!」ということで、もう面倒は見切れない。それ以後は、機会ありごとに「叱る」だけとなった。これも細部は後に述べる。
「統一テーブル」は私の予言通りに崩壊した。本来、日本共産党関係を呼んだのであれば、好き嫌いは別として、日本共産党も賛成できる候補を選び直す以外に方法はないのである。そういう候補として「統一テーブル」に日本共産党が推薦したのは、元国鉄職員、当然、元国労組合員の市議会議員、小川将二郎の彦だった。小川将二郎の彦は、「さきがけ」「21クラブ」といった中間的な会派に所属して、曲りなりにも土屋正忠の彦への反対派として筋を通してきた。もう一人、民主党の元市都議落選候補、水野某の彦が「統一テーブル」に名乗りを上げた。ところが、「統一テーブル」とは言うものの急ごしらえの危なっかしい場に、「よくする会」ビューローは「予備選挙」を提案し、強行したのである。
実は、「予備選挙」の発想は、「よくする会」内部の企画として出たことがある。アメリカの大統領選挙の真似事であるが、その場合は、既存の会員が「選挙権」を持つ前提の議論である。ところが、「よくする会」が中心の参加者が明確でない「統一テーブル」に、「市民一人に一票の選挙権」を与える「予備選挙」が提案され、「多数の支持」と称して強行されてしまったのである。それも一人の候補が1000票集めて、その結果で、上記のように、8人の内の5人は「よくする会」の常連会員が占める「統一テーブル呼び掛け人」こと「8氏」が、最後の判断を下すというのだから、故アチャコ曰く「目茶苦茶でござりまするがな」である。ともかく、小川将二郎の彦は「子供でも分かる不公平」と怒って降りた。水野某の彦は「賭けてみます」と付き合ったが、その途中で「よくする会」が推薦候補に決めた桜井国俊の彦が「当選」となった。
ああ、ややこしかった。ああ、しんど。いうわけで、今日も、あの聞き慣れた声の鶯嬢こと鶯オバサンの自称上品な主婦の媛が、「市民が選んだ統一候補、桜井国俊!」と連呼しているのである。なお、最新情報によると、市民の党と民主党が、桜井国俊と連携することになったそうである。
2018.7.11追記:結局土屋氏の市長辞任は2005年の衆院選時。後釜の新市長には菅直人民主党元代表が推す無所属の新人邑上守正氏が当選。
以上で(その12)終り。(その13)に続く。