最近はすっかり行かなくなったが、以前よくカラオケに行っていたころ、私がときどき中島みゆきの歌を歌っていたせいだろうか、以心伝心、風のたよりで、彼女のニュー・アルバムのニュースが伝わって
きた。四、五ヵ月以前のことである。なかに、ペルー日本大使公邸占拠・人質事件をテーマにした曲があるという知らせであった。 さっそく、私はそのニュー・アルバムを買いに行った。
「わたしの子供になりなさい」(ポニーキャニオンPCCA-01191)という名のアルバムの最後にその曲は収められていて、題して「4.2.3.」という。メロディを論じると、人目に曝したくもない馬脚が顕になるかもしれないから、ここでは歌詞のみに触れる(でも、カラオケで歌うに相応しい曲ではないが、メロディもわるくはない、とは思う)。
曲名の「4.2.3.」は、フジモリ大統領が人質救出のために武力を行使した日付を日本時間で表現したものである。すなわち、それは(一九九七年)四月二三日だった。歌詞をたどると、あの日の朝、彼女はコンサート・ツアーの旅の宿で眠れぬ一夜を過ごし、何気なくテレビのスイッチを入れた。[中継]という文字が画面に出たかと思うと、爆風が吹きつけてきた。
四ヵ月間も見慣れた白く平たい石造りの建物から炎と噴煙が上がる。身を潜め、這い進み、撃ち放つ兵士たち。
誰が何を伝えようとしているかだけでも知ろうとする彼女の耳に届くのは「日本人が救けられました。人質が手を振っています元気そうです笑顔です」という、嬉々としたリポーターの興奮した声ばかり。画面には、担架に乗せられて、胸元に赤いしみが広がる(政府軍の)兵士が公邸から運びだされる姿も映っているのに、それに触れる一言の言葉もない。いらだちがつのり、彼女は歌う。
あの国の人たちの正しさを ここにいる私は測り知れない
あの国の戦いの正しさを ここにいる私は測り知れない
しかし見知らぬ日本人の無事を喜ぶ心のある人たちが何故
救け出してくれた見知らぬ人には心を払うことがないのだろう
この国は危ない
何度でも同じあやまちを繰り返すだろう
平和を望むと言いながらも
日本と名の付いていないものにならば
いくらだって冷たくなれるのだろう
慌てた時に 人は正体を顕わすね
あの国の中で事件は終わり
私の中ではこの国への怖れが 黒い炎を噴きあげはじめた
4.2.3.…… 4.2.3.……
日本人の人質は全員が無事
4.2.3.…… 4.2.3.……
「作詞:中島みゆき」
あの事件を考えるうえで、すぐれた、的確な歌詞だと思う。(ゲリラの死は、一見したところこの歌詞の範囲外にあるようだが、そこまで歌うとウソっぽくなるから、これでいい、と語ったある人の意見に私は賛成する)。事件のさなかにあっても事後にあっても、ここまでの言論がマスメディアに載ることはほとんどなかった。
あのとき私のところにもけっこうマスコミの取材はあったが、「トパック・アマルの行為をテロと言うなら、軍隊や警察を介して国家が揮ってきた暴力もテロと呼んで、同列におくところから議論を始める必要がある」と言うと、まるで異星人を見るような目付きになって、その後の話をそそくさと切り上げ、帰って行く取材者がよく見られた。
問題はこうなのだろう。この国で保障されている「言論の自由」の枠内で、メディアは多様な見方を提出しているように見える/あるいはそう信じられている。この事件の場合で言えば、「どんな理由があれテロはいけない」「人質の安全が心配だ」に始まり、「テロリストに妥協するな、譲歩するな」「フジモリも監獄の処遇状況くらいは改善しなければ」「貧困問題が根にある」「日本も政府開発援助のあり方を見直さなくては」……という具合に、実に多様な意見が飛びかうように見える。
だが、事件の発端をなした天皇誕生日パーティの問題性を指摘する議論は、マスメディアには登場しない。少数者のテロと国家のテロをまず同列において、どんな政治・社会のあり方が双方のテロ(暴力)を廃絶できるのかを根源から考えようとする意見も登場しない。
政治犯は釈放すべきだ、フジモリは弱者切り捨ての経済政策を見直すべきだ、日本は南北対等の立場を基本としていない現行の経済・貿易秩序の改革に率先して取り組むべきだ、それが結局は今回の事件の一根拠とも言うべき「南」の貧困問題の解決に至る道筋なのだ……などとは、大メディアに登場するだれひとりとして言わない。
言ってみれば、マスメディアではAからKまでの多様な意見は登場するが、LやM、N、ましてやX、Y、Zといった意見は埒外に置かれてしまう。巨大な権力構造の一部を否応なく構成しているマスコミは、力をもって国家を統治する政治・経済機構が許容する限定的な選択肢を、それがあたかも全的な「言論の自由」を享受しているかのようにして提出するのである。
私たちは、もちろん、自前のミニメディアを通して、真の「言論の自由」が存在する社会を展望しながら、自らの考えを明らかにしてきているが、中島の新曲はそれをマスの世界で行なっており、おのずと別な意味をもっているということになる。
「あの国の人たちの正しさを/あの国の戦いの正しさをここにいる私は測り知れない」という一節は、中島が自分の位置を自制をもって定めようとしている姿勢を示しており、それをまったく欠いていた多くのマスメディアの対極にある。その姿勢が定まることによって、彼女は「日本と名の付いていないものには、いくらでも冷たくなれる」「この国の危うさ」を歌い、ペルーの出来事を介して足元の問題に戻ることになる。
ところで、限定された選択肢しか許していないのに、あたかも十全な「言論の自由」を保障しているかに見せかける「民主主義」社会の欺瞞性は、いまこの国のさまざまな面に見られる。経済・金融問題の陰に隠されて、重大問題であるにもかかわらず情報提供量も小さく、社会全般の関心も低いが、今後の日米防衛協力のあり方を政府間で定めた新指針や、そのための国内法整備としての周辺事態措置法案などをめぐる論議の中に、そのことはくっきりとあらわれている。
この法案が成立すればこの社会は、朝鮮戦争やベトナム戦争の時のような戦争への間接的な加担に留まることはなくなる。自衛隊はもちろん、地方自治体・港湾・造船・運輸・医療・燃料などの関連労働者が、米国が発動する戦争に自動的に参戦する未来図をさしあたっては想像しないわけにはいかない。
「戦争と平和」をめぐる根本問題が提起されている時には、軍隊(国軍)の存在それ自体に疑念を抱き、現存の資本主義圏にせよ社会主義圏にせよ国軍の存在にこそ国家の威信を賭けている愚かな現実を批判する言論が登場して当然である。だが、マスメディアにおける論議の選択肢の中には、国軍そのものを廃絶する未来像をもった周辺事態法案批判が含まれることはない。
「国家である以上、軍隊を持つことは自明の必要条件である」という、疑われることのない「真理」の前に、国軍廃絶論は「空論」であり「夢想」であると斥けられてしまうのである。そして、基地の移転どころか、対人地雷に代わる兵器の開発とか、果ては弾道ミサイルを大気圏内外で迎撃するという戦域ミサイル防衛構想なるものが「現実的」なものであるという愚論が罷り通るのである。
「国家は当然にも軍隊を持つ」「北朝鮮のミサイルの脅威に対抗するために日米安保条約は必要である」「沖縄の米軍基地と海兵隊の存在こそ、東アジアの安寧のための必要条件である」ーーこれらの「信念」は、私たちの自立的な思考の結果もちえたものでは、ない。
私たちの現実を超越した地点で、上から押しつけられたものなのだ。国家からも大組織からも党からも自立した場で発想して、未来の選択肢を無限に拡大すること。論議はそこで深まり、私たちは逆転の契機を掴みうると「夢想」するのだが……
(1998年10月11日執筆) |