現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20~21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
1998年の発言

◆北朝鮮「核疑惑騒動」の陰で蠢く者たち

◆目と心が腐るような右派言論から、一瞬遠く離れて

◆第三世界は死んだ、第三世界主義万歳!

◆時評「この国は危ない」と歌う中島みゆきを聞きながら

◆自称現実主義者たちの現実追随

◆伊藤俊也の作品としての『プライド 運命の瞬間』批判

◆98年度上半期読書アンケート

◆書評:市村弘正著『敗北の二十世紀』

◆「自由主義史観」を批判する〈場所〉

◆民族・植民地問題への覚醒

◆国策に奉仕する「〈知〉の技法」

◆「後方支援」は「武力の行使」にほかならない

◆ペルー日本大使公邸占拠事件とは日本にとって何であったか

◆個別と総体――いまの時代の特徴について

◆植民地支配責任を不問に付す「アイヌ文化振興法」の詐術

◆政治・軍事と社会的雰囲気の双方のレベルで、準備される戦争

◆朴慶植さんの事故死と、時代の拘束を解き放った60年代の遺産

◆書評:ガルシア=マルケス著『誘拐』(角川春樹事務所刊)

◆保守派総合雑誌の楽しみ方

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朴慶植さんの事故死と、時代の拘束を解き放った60年代の遺産
「派兵チェック」第65号(1998年2月15日発行)
連載「表現のなかの残像」24回
太田昌国 



 3ヵ月前、映画『在日』の完成記念パーティで朴慶植さんにお会いした。(結局は実現せずに終わったが)朝鮮近代史関係の翻訳書を出版する件で相談にのっていただいたのは1970年前後だったから、ほとんど30年ぶりの出会いであった。

もちろんその間にも朴さんの仕事には注目していた。氏が主宰するアジア問題研究所が発行する「在日朝鮮人史研究」や「アジア問題研究所報」には、朴さんや共同研究者の手になる、地味なミニメディアならではの明快な問題意識の文章や研究論文が載っていて刺激をうけてきた。

耳は少し遠くなられていたが、身のこなしはお元気そうで、自ら収集された在日朝鮮人関係の膨大な資料を収める「在日資料館」の建設構想を説明され、それへの協力を訴えるチラシをみんなに配っておられた。

私もいずれ協力しなければと思っていた。だから、2月12日の朴さんの交通事故死の報を聞いて、深い衝撃をうけた。享年75歳であった。


 歴史や世界の認識に関わって、どんな時にも、その時代の拘束性とでも言うべきものがある。

これから簡潔に触れる1960年代前半の社会運動で言えば、アジア太平洋戦争における日本をひたすら被害者の位置において展開されていた戦後平和運動のあり方をその典型として挙げることができる。

だが、幸いなことには、その拘束性を打破する言論や運動が、いつか立ち現われる。日韓条約が締結される直前の1965年に刊行された朴さんの最初の仕事『朝鮮人強制連行の記録』(未来社)は、そのような役割を果たしたもののひとつと言える。

広島や長崎の悲劇ばかりを強調することであの戦争における被害者になりすまし、日本のアジア侵略という側面を軽視してきた戦後平和運動の虚妄を、この本は鋭く指摘した。

帝国主義と民族・植民地問題の関係をいかに総括できるかということが、現代を考えるうえでもっとも重要な問題であることに、私たちはようやく気づくきっかけになるような本だった。

朴さんの死を知ってこの本の最新版を書店で見てみた。95年刊のもので51版になっていた。刊行後30年間も読み継がれているロングセラーである。田中宏氏は「今では広く知られるようになった強制連行も、朴さんの業績なしでは語れない。やっと時代が朴さんに追いついた」と語ってその死を悼んだが(朝日新聞2月13日付け夕刊)、それは私の思いとしてもある。

 さて唐突のようだが、朴さんの仕事に関連づけて、チェ・ゲバラのことに触れてみたい。死後30年を迎えた昨年、何冊もの大部のゲバラ伝がメキシコ、米国、フランスなどで出版された。

周辺者とのインタビューによってさまざまなエピソードが明らかになっていて、それぞれ興味深いが、私はジョン・リー・アンダーソンの著作『チェ・ゲバラ:その革命的な生涯』(バンタム・プレス社)が触れている、ゲバラの来日時のエピソードをとりわけ興味深く読んだ。

 1959年9月、つまりキューバ革命の勝利の年だが、ゲバラはアラブ、アジア、東欧などの諸国を歴訪する。

来日した際の、通産相・池田勇人などとの会見の様子は、三好徹の『チェ・ゲバラ伝』(文春文庫)に詳しいが、政治理念なき池田がもっぱら経済関係をめぐって強圧的な態度でゲバラに接しているさまが、今日まで変わることのない日本政治の姿を先取りして示していて物哀しい。

 ところで興味深い話とは次のことだ。ゲバラは大使館スタッフから、東京で無名兵士の墓に詣でる予定が決まっていることを告げられる。

「しかし、日本の無名兵士とはアジアで数百万人を殺した兵士のことではないか。そんなところへ行くわけにはいかない」。

しかし、日本外務省との打ち合せ事項なので……。それは君の責任だよ。ぼくは行くわけにはいかない。逆にゲバラが主張したのは広島行きであった。

予定にない、そんなことはできない、と言い張る大使館スタッフを説き伏せて、ゲバラは広島行きを実現させる。

「米国にこんな目に合わされておきながら、あなたたちはなお米国の言いなりになるのか」。ゲバラは案内役の人物に尋ねる。現在の歴史認識の水準からすれば、ためにする態度の人間でないかぎり当然の捉え方だと言える。

だがこの発言が1959年になされたことを考えると、あの戦争における日本の位置の二面性(アジア侵略戦争の側面と、日米帝国主義戦争の中での被爆という悲惨な経験)を、はるか遠くラテンアメリカから見通していたゲバラは、やはり「見るべきほどのものを見ていた」のだと思える。

大国・米国との歴史的・現在的関係を検討することなくしては何事もなし得ない地域に生きているからこそ生まれた視点なのだろう。

 反欧米意識に燃える第三世界の政治家や思想家のなかには、「日露戦争における日本の勝利、大国・米国に立ち向かった真珠湾攻撃、原爆の被災にも拘らず成し遂げられた戦後復興」などに意義を見いだして、非欧米地域に位置する日本を称揚するという拘束性を有する人びとが、私の経験では1980年代になってさえけっこう多かったから、上に触れたゲバラの観察はきわめて示唆的に思える。

 朴さんの死に触発されてその仕事の意味をふりかえり、たまたま読んでいたゲバラ伝の記述を合わせて考えると、私の思いはやはり1950年代から60年代にかけての「第三世界」の台頭が持ち得た意味にたどりつく。

それは、確かに、「強者」としての欧米近代に拘束されていた、当時の世界像・歴史像を一新するだけの力をもった。彼らの言動は、他の地域におけるいくつもの類似した言動と合い伴って、新たな価値観を生み出す次の時代を準備したのだ。

 この困難な時代情況における私たちの言動も、及ばずながら、時代が強いる拘束を解き放って、次に来る新しい時代の予感を孕むものでありたいものだ。

(2月17日記)

 
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