『「名づけ」の精神史』に始まり、『標識としての記録』『小さなものの諸形態』と続く市村弘正の著書をふりかえると、彼は、時代状況を真っ向から象徴することがらからは距離をとりながら、だが歴史を貫いて本質的だと自らが捉えている問題を、できるだけ言葉少なく語ろうとしてきたように思われる。
今回の新著にも、その態度は引き継がれていて、冒頭の「序にかえて」でまず引用されるのは、一九七二年フランスの一民族学研究者が南米パラグアイで起きているエスノサイド(民族虐殺)について書きとめた文章と、一九八二年夕張の廃鉱に辿り着いたひとりの詩人が、在りし日の炭鉱の姿を示す碑銘に感応しようとして生み出した長篇詩の一節であるという具合に、記憶の縁(エッジ)に潜むかのような小さな表現である。
著者は言う・・時代の正面に表われた事柄を取りあげるのではなく、「消えかけた道を辿る」ように、薄らいでゆく記憶や消えつつある道標を迂回していく、そういう時代への向きあい方があるのでないか。
後退あるいは退却のようにみえる物事への対し方や身のふるまい方を通じて、辛うじて受けとることができる「問い」というものがあるのではないか。瓦礫に埋もれた死屍累々の事態、あるいは逆に、その痕跡をも消し去られてしまう時代においては、そのような方法態度が要請されるのではないか・・と。
控えめだが、静かな自負とでも言うべきであろうか。さて、市村はそのうえで、自らが書名につけた「敗北の二十世紀」を象徴するいくつかの発言に触れながら、思考を展開する。
「敗北」とは、著者にあっては、二十世紀が孕む諸問題に関わって或る人びとが発した象徴的な「問い」を私たちが受けとり損ねてきたのではないか、そのことがこの社会の枠組みのあり方に係わっているのではないか、と「苦い確認」をせざるをえない事態を指している。
参照項となる発言をしているとして引かれるのは、著者が永いあいだ読み続けてきたが論じることのなかったというアーレント、レーヴィット、シュミット、ツェラン、メカス、丸山眞男、ベンヤミンなどが主たるところである。
すでに多くの人びとによってさまざまな角度から論じられてきた人物とその発言を取り上げて、上の問題意識に従って自らの批判的吟味のために読みなおすという作業が、ここで展開される。しかもそれを、この国で蔑ろにされている、〈批評性を有した「書評」〉の形で行なうことを、著者は意図する。
今回書き下ろされた四つの文章は、それぞれ「概念の物語」「非正規性の空間」「『残された』言葉」「敗北の記憶」と題されており、この四つの問題意識を相互に関連づける存在として選ばれているのは、二十世紀最大の難問のひとつというべき「全体主義の起源」を考察したアーレントである。
著者はアーレントの政治理論の基礎命題を、世界が人びとの「あいだにある」こと、人間の「複数性」こそが政治的な生の最大の条件であることのふたつに求める。「秘せられた内面的な人格」の充実を意味するプライヴァシーなる用語の裏側には、「他者の同伴・観察がない状態」すなわち「欠如」という相反する意味が貼りついているという事実の確認は、近代的個人と公共性の関係性を考察する際に避けることのできない前提である。
もっとも極端でもっとも反人間的な形式をとる「孤独」という捉え方で現代社会批判の基軸を据えたアーレントを媒介者に二十世紀を捉えかえそうという点に、著者の志向性が明確に現われている。
「戦後」五十年以上を経てなおこの国における喫緊の課題であり続けている戦争責任問題に、人類の永い精神史の射程をもって迫って示唆するところの多い好著である。著者が本書を準備しながら、詩人吉増剛造との対話を深めたらしいことが、思想史家・市村弘正の仕事の新たな展開を予告するようで、興味深い。
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