まず夢だ夢の暴力がわれわれを鍛える
岩田宏「グアンタナモ」より
一
一九九七年七月、ボリビア南東部バジェグランデの一角で、三〇年前にゲリラ戦争のさなかにボリビア政府軍に捕らえられ銃殺されたエルネスト・チェ・ゲバラら六人の遺骨が発掘された。キューバ政府は数年前から、ゲバラの生国・アルゼンチンの人類学者や、かつての「仇敵」とも言うべきボリビアの政府と軍の協力を得て、遺骨の発掘作業を行なっていた。
キューバ政府には、ゲバラ死後三〇年という区切り目の年を控えて、民衆意識の高揚のために「英雄」ゲバラにまつわる何かを「創り出す」必要があったのだろう。
「仇敵」ボリビアにしてみれば、東西冷戦体制も消えた現在、いまだ衰えることのないゲバラ人気を利用し、彼の死地を「観光地」並みのものにする意図があればこそ、三〇年前にはゲリラ掃討作戦の先頭に立っていた軍人からの情報提供も含めて遺骨捜索への協力を惜しまなかったのだと思われる。
発掘された遺骨は、ただちにキューバに「返還」された。そして死後三〇年目を過ぎた一〇月一七日、中部の都市、サンタ・クララで遺骨の埋葬式が行なわれた。サンタ・クララ市は、キューバ革命戦争が戦われていた一九五八年一二月、チェ・ゲバラが指揮する部隊が、政府軍の戦力補強のために驀進してきた装甲列車を襲撃し、乗っていた兵士全員を投降させ、対空砲をはじめ大量の武器を捕獲した戦いを展開した地である。
この翌々日、観念した独裁者バチスタは国外に逃亡することになるだけに、サンタ・クララ市の攻防は革命勝利に向けた決定的な局面を切り開いたことで、キューバの人びとにひろく記憶されている。以前からゲバラを記念する博物館が建っており、この街の革命広場で埋葬の儀式は行なわれた。
私はビデオ映像で、キューバ全土に放映されたのであろう、この追悼式の模様を観た。いまさら驚くほどのことではないが、式は全面的に軍の形式に則って行なわれた。軍楽隊が勇壮な、時に情緒的なまでに悲壮な曲を演奏するなか、遺骨を乗せた車が会場に到着し、軍服姿のフィデル・カストロが追悼の演説を行ない、続いて納骨堂の内部に立ち並ぶ遺族のひとりひとりにフィデルと、フィデルの弟で国防相のラウル・カストロ(当然にも軍服姿である)ら三人の軍人が慰めの挨拶を行ない、最後に大きめの骨箱を肩に抱えたふたりの兵士が軍隊式の歩行を行ないながら納骨堂に納めるというものである。
キューバでは有名な歌手が追悼の歌をギターをつま弾きながら歌うとか、旧ソ連式に「ピオネール」と名乗る少女・少年たちが、やはり追悼歌を合唱するとかの幕間の行事はあったが、ピオネールの子どもたちのふるまいも、ミニ軍隊の形式性を十分に兼ね備えていて、三〇年前の「英雄的ゲリラ」は、まぎれもなく軍隊式にキューバに迎え入れられたのだった。
会場には万余の群衆が集まっていたように見受けられたが、テレビ・カメラが彼( 女)たちの表情を映すことはほとんどなく、一瞬見えたその表情からは、非軍人である彼(女)たちが主体的な参加の「場」を得ているようには思えなかった。
私は、複雑な思いを抱えながら小一時間のその映像に見入った。軍の全面的な露出と、主体性を奪われて見える民衆のあり方とは、表裏一体の関係のことと思えたからだ。
そしてこの間そうであるように、第三世界解放闘争とは何であったかを再検討する必要性をつよく感じた。その際に「軍事」の問題をひとつの重要な基軸として捉えること、「解放」あるいは「革命」の過程では確かに不可欠の役割を果たしたに違いない「旧」ゲリラ隊や「旧」反乱軍がそのまま国軍となって、その社会のエリート層を形成し、社会全体の「軍事化」を象徴している現実を批判的に捉えることーーここ数年間行きつ戻りつしながら考えてきたこの思いを再確認することとなった。
私がこの問題意識を強く持つようになったのには、日本国内の問題が契機であった。一九九一年、小なる覇権主義国(者)=イラク(フセイン)と、大なる覇権主義国(者)=米国(クリントン)が軍事的に衝突したペルシャ湾岸戦争の頃から、大なる覇権主義国の利益に基本的に寄与する報道を行なうマスメディアを基本的な舞台として「日本の国際貢献」の必要性が声高に叫ばれ始めた。
戦争への意欲はあるが戦費に事欠く、多国籍軍という名の米軍に日本が一三〇億ドルの軍資金を出すと、「カネだけでは不十分だ、汗も血も流せ」との声が何処からか生まれ、まず自衛隊の掃海艇が地雷除去のために派遣された。以後、カンボジアにおける国連の平和維持作戦(PKO)に自衛隊の部隊が派遣されるにまで至った。
私は、この事態には、国軍が海外に出兵して戦争行為を行なうということは辛うじてなかった、戦後日本社会のあり方を根本から変え、戦争を行ないうる国家へと変貌する重大な契機が胎まれていると考えた。だから私は、日本政府のこの一連の政策に反対する運動に参加していたが、国軍の海外派兵に反対する私たちの運動はこの段階では敗北した。
私は(同じ運動の渦中にいた友人の多くもそうだったが)、なぜこうなったのかを検討する過程で、俗な形で信じ込まれている「国家である以上、軍隊を持つのは当然」という思い込みそれ自体を批判し、軍隊なき社会→軍事化していない社会を展望し、これを現実につくりだすことの必要性をあらためて痛感した。
だが自国が軍隊を持つことを批判し、パリ・コミューンが掲げた鮮烈な精神、「常備軍=正規軍の廃止」を主張することは、世界的な視野なくして出来ることではない。強力な国軍を持つことが、ある国の安全・平和・独立を保障する要であり、しかも潜在的な「敵国」が軍隊を有している以上は、ある国が先駆けて国軍を解体するなどということは暴論であって、夢物語もはなはだしいという「常識」が、強固に私たちを取り巻いているからである。
国軍の廃絶という項目は、戦争と平和の問題を考えるときの選択肢には、通常そもそも含まれてはいないのだ。軍隊を常備しつつ、常にその強化を計りつつ、「平和」というお題目が唱えられているだけの、この世界風景は虚しい。
その点では、資本主義国であれ、社会主義国であれ、第三世界諸国であれ、大きな違いはない。私の場合には、私の現在の世界認識・歴史認識が形成されてゆく過程で大きな影響を与えてくれた第三世界、とりわけ一九六〇年代の「解放」/「革命」の動力源というべきキューバとベトナムが、軍事・軍隊に関わってどんな現状にあるかを検討することが、日本の国軍保持批判を行なうためにも切実な課題となった。
二
そのためには、私の基本的な立場を明らかにしておくことが必要だろう。私は、一九五〇年代キューバの現実をふりかえる時、フィデル・カストロらの反抗者たちが武装闘争に訴えざるを得なかった背景を理解する。マエストラ山脈に拠った農村解放区の闘争も、都市部におけるゼネストをはじめとする闘争も、当然にも必然的な形で展開されたと捉えている。
勝利の直後、チェ・ゲバラが主導した、前政府軍で拷問や強姦をほしいままに行なってきた者たちへの大量の銃殺刑の執行については留保して考えたい点が残っているが、革命と反革命の攻防の只中で採られた政治・社会・経済上の諸改革も、二〇世紀初頭から始まった米国による支配体制を根本から覆すために避けることの出来ない性格のものであった。
それによって可能になった主要産業の国有化、農地改革、教育・医療・保健などの諸施策を通じた所得再分配政策なども、初期にはとりわけ見るべき成果を上げたこと、そのことが、旧社会では周縁化されてきた低所得層の革命に対する支持を強めたことも、私に限らず誰にも否定できないことだろう。
しかも無視できないことには、これらの革命初期の諸政策は、これによって従来享受してきた利益を断ち切られる米国の強い妨害を受けた。政治・経済上の妨害はここでは詳述せずに、軍事的な例をいくつか挙げてみる。革命直後の一九六一〜六二年をピークに六五年ころまでは、キューバ中部のエスカンブライ山中には最高時五千人の反革命勢力が篭もった。彼らは、前バチスタ政府軍の軍人や農地改革に反対する地主、革命運動から何らかの理由で抜けた人びとから成っていたが、農民・識字運動参加者への襲撃・暗殺、農作物の焼き打ちなどを行なった。
米国CIAはこのグループに対し援助物資を空輸していたことが確認されている。六一年四月、フロリダで訓練を受けた反革命グループ千五百人が中米ニカラグアのカリブ海岸から進発し、キューバ海岸に上陸して武力侵攻を試みたこともあった。革命軍はこれを七二時間で撃退し、千百人を捕虜にした。紙数さえあれば、この種の反革命の軍事行動の例は多数挙げることは出来るが、結論を急ぐためにこの程度の例証に留めよう。
革命指導部は、革命防衛のために反乱軍を革命軍に再編成した。軍事侵攻・山岳部に拠っての軍事活動が行なわれていた以上、確かに革命軍なくして初期段階の革命の防衛は不可能だったことは確かであろう。問題は、革命の進行過程で、この軍の役割が過大化するばかりでこれを検証する機能がどこにも存在せず、したがって軍が民衆の上に聳え立つ傾向が、精神的かつ物質的に強化されたことにあったと思われる。
一九九〇年代を過ぎてから指導部(共産党政治局)に入ってきている人物の中には軍歴を持たない者も出始めているが、従来の政府、共産党、軍の中心的存在をなすのは、カストロ兄弟に代表される同一人物から成る革命世代である。政府・党・軍の三位一体の支配権力が、批判を許さぬ絶対的な存在となったことで、革命が急速に硬直化傾向を深めたことは確実である。
だが、キューバ社会が軍の比重をどの時点で軽量化する可能性をもっていたかを具体的史実に即して考えると、客観的にはなかなか見えない。初期の海外からの反革命活動をほぼ封じ込めえた一九六五年ころがひとつの機会であったとは言えるが、その当時はすでに「国際主義者」(インテルナシナオリスタ)の海外における活動が始まっていた。
当時はキューバ兵として公式に出兵していたわけではないが、チェ・ゲバラたちのコンゴ、ボリビア行をはじめ、大勢のキューバ人兵士が国外の解放運動に秘密裏に参加していた。一九六七年のボリビアにおけるゲバラの死は、その悲劇性にもかかわらず、「国際主義」の正しさをキューバの民衆に確信させるものだったから、軍の比重は増大した。
一九六〇年代後半、チェ・ゲバラの死を契機に、キューバ人兵士の、水面下におけるラテンアメリカ地域解放闘争への関わりは大幅に減った。他方で、生前のゲバラがアフリカ歴訪の際に作った解放運動との関係性に基づくところが大きいのか、七〇年代半ばからはアフリカ地域の解放闘争に、公然とキューバ人兵士が派兵されるようになった。とりわけ重視されたのは、アンゴラへの派兵だった。アンゴラはポルトガルから一九七五年に独立し解放運動の担い手が政府を樹立したが、これに脅威を感じたアパルトヘイト(人種隔離政策)護持の南アフリカ政府はアンゴラに軍事侵攻した。
新しいアンゴラ政府の要請に基づいて、キューバは直ちに実戦部隊を派遣した。以後九一年六月に最終撤退をするまでの一六年間で総計三〇万人のキューバ人兵士がアンゴラの地を踏んだと言われている。ここには、米ソ対立の下でのソ連の圧力による派兵だと一面的に断定はできない、キューバ独自の論理がはたらいていた。大要をまとめると、「キューバ人の体内には、かつて奴隷として連行されたアフリカ人の血が流れている。自由のための困難なたたかいの最中にあるアンゴラ人と共にたたかうことで、われわれは祖先への歴史的負債を返したのだ」とする
論理だ。(1)
これは、政府や軍の公式の考え方だが、これには反論もある。世界各地に兵士として派遣された後、キューバ革命そのものに疑問をいだき、機会を見て国外に亡命し、回想記を出版している人物が、私が知るだけで二人いる。アンゴラにも派遣された彼らの記録を読むと、たとえば次のようになる。
「派兵を拒否した者は多数にのぼったが、党員証を取り上げられ、職た地位を奪われ、〈余剰人員〉と規定され、せいぜい砂糖キビ伐採の仕事くらいしか割り当てられなくなった」「アンゴラの首都ルアンダの攻防戦で、キューバ軍は敵対する反政府ゲリラばかりか、主として婦女子から成る大群衆に向けて発砲した。そのあまりに凄惨な光景に、一部隊長が自殺した。彼は部下を人殺しに仕立てた自責の念にかられ、キューバ政府に抗議の手紙を残した。帰還兵で、戦場での精神的後遺症から通常の生活に戻ることの出来ない者が続出した」(2)。
「キューバ軍の高官は、首都ルアンダに 植民者・ポルトガル人たちが残した品々、つまり電器製品、衣服、宝石、酒類などを掠奪し、キューバに持ち帰って店を開き、売り出す者すら出た。アンゴラの空港も港湾もキューバ軍が管理していたから、物品の持ち出しは可能だったのだ」(3)ーー本全体の筆致からいって、ふたりが記す「暴露話」がすべて正確かどうかは留保したいところもある。
しかし、私たちが歴史的な事例として知ってしまっている〈革命〉や〈軍隊〉のあり方から見て、残念ながらこれらの事例は驚くほどのことではない。最初の事例は「党の横暴」として、二番目の事例は「軍の内部にも失われない〈良心〉の悲劇的な表現」として、最後の事例は「革命軍の腐敗の極致」として、記憶に留めるほうがいいと私は考えている。
だが、キューバにおける情報管制の現状からいえば、派兵のマイナス面を示す情報は徹底的に排除されただろう。そして、アンゴラ派兵という事実と兵士の帰還はチェ・ゲバラが象徴する「国際主義的精神の発露」だと讃えるカストロの言動が、限られたメディアから溢れ出たことだろう。民衆には基本的な表現の自由が認められておらず、指導部では軍隊の存在に対する過信のみが増長していくしかない以上、ここでもまた軍批判が生まれる可能性は絶たれていたと言える。
これらの事例を知ってなお、私は次のように言うだろう。一九九〇年代初頭にアンゴラ和平、ナミビアの独立、南アフリカの解放闘争指導者ネルソン・マンデラの獄中からの解放→アパルトヘイト体制の廃絶→マンデラ政権の成立へと繋がっていく南部アフリカ全体の歴史的な展開との関連で見るとき、たとえ国家としての関わり合いであれこの地域へのキューバのそれを、〈キューバ軍の露出〉という意味合いで否定的にのみ捉えることは出来ない、と。
当然にも、フィデル・カストロたちの思惑とは区別された地点で問題を立てることになるが、少なくとも、小国・キューバに過重な負担を強いた当時の国際情勢全体の枠組みの中で捉えることがなければ、私たちにはキューバ批判も本質的には不可能なことなのだと思える。日本が政治的・経済的に南アフリカ・アパルトヘイト体制を支えていたことを思い起せば、なおさらのことに……。
視点を変えてみる。キューバの防衛予算の実態を知ることは、私にはむずかしい。手元の二次資料でわかるのは、一九六〇年代の常備軍の数はバチスタ時代の一〇倍になったこと、六三年から七四年の一〇年間で軍事予算はほぼ二倍になったこと、現役の総兵力は九七年度で一〇万五千人であり、人口百人に一人は兵士であること(人口六五人に一人が兵士であるという記述をする資料もあるが、公式発表がない以上は真偽のほどは明らかでない)、国家予算に占める防衛費の比率は、(少し古いデータだが)一九八五年/一八%、一九八六年/一〇・九%、一九八七年/一一・一%であるらしいこと(4)ーーなど断片的 なものに過ぎない。
しかもこの三年間は、キューバが上述のようにアンゴラに「国際主義の精神に基づく」出兵をしていた時だから、ソ連の経費負担が占める割合が大きかったと仮定しても、防衛費がこの程度の比率で済むものではなかっただろうと推測するのが順当なところだろう。
いずれにせよ、兵力も防衛費も、小国としては突出しており、多大である。ロンドンの国際戦略研究所が出す『ミリタリー・バランス』の統計を見ても、世界各国の兵力の対人口比は一%以下を下回るというのが平均的数値だから、キューバが民衆の生活を犠牲にしてまで国家予算を防衛費に充てている現実が見える。
小国・キューバの自立の道を塞ぎ、グアナタナモの米軍基地も返還しないまま軍事的脅威を与え続けている隣国の超大国の責任はもちろん大きいが、ここでは、さまざまな試練に耐えこれを乗り越えてきた社会革命の担い手がーーしかも、当然にも、帝国主義の国とは異なる戦争観/軍隊観を、その社会哲学ゆえに持つはずの革命社会がーー軍事/軍隊の問題をめぐって積極的に提起できることは何なのかという問題として立てているのだと繰り返しておきたい。
三
簡単にだが、ベトナムの例も検討してみる。ベトナムの場合にも、キューバと同じ性質の問題が見えてくる。第二次世界大戦の時期以降をふりかえってみても、抗日戦争→抗仏戦争→抗米戦争→カンボジア戦争というように、三〇年以上にもおよぶ絶え間ない戦火の日々をこの国の民衆は生きた。
戦後、ベトナム首席ホー・チ・ミンが「フランス連邦内の一自由国としてのベトナム」という妥協案を受け入れたにもかかわらず、フランス政府がベトナムの独立をあくまでも認めようとしなかった点にこの悲劇の出発点があったことを確認したうえで、次のような現実を見ておきたい。
抗仏・抗米戦争に参加し、一九八六年以降はベトナム共産党機関紙『ニャンザン』の副編集長を務めていたタイン・ティンは、その後の一九九〇年パリで共産党指導部を批判し、より多元的な民主主義と民族和解を求める「一市民の提言」を発表したまま同地に亡命した。
彼の証言 (5) には、立場を変えた人によく見られるような、自らがその一端を担っていた革命に対する評価を、かつてとはすべて正反対にしてしまい、自己保身に汲々とする態度が見られず、かなり信憑性が高いものだと私は考えている。彼によれば、八五年段階のベトナム軍の兵力は対人口比二・七%だったという。国防相に随行してインド、インドネシアを訪問した彼は、この数値がインドでは〇・一三%、インドネシアでは〇・四%であったことに驚愕している。
そして、経済的実力からすればあまりに過大なこの防衛費負担は、指導部の官僚的で恣意的な体質を表現しており、重大な問題を感覚的で無思慮に、非科学的に決定していると批判している。「軍事力については[共産党]政治局がすべて決定し、政府や国会、国家評議会には発言権がなかった」。防衛費が膨張すれば、一民衆でしかない兵士の生活も逼迫する。規律は緩み、兵士も幹部も役得で生きることを余儀なくされる。タイン・ティンはその例をいくつも挙げる。
「英雄的な革命戦争を遂行しているベトナム民衆」と私たちが捉えていた時代にも、軍には別な貌があったと伝えるのは、バオ・ニンの小説『戦争の悲しみ』 (6) である。北ベトナムに生まれた彼は、ベトナム戦争のさなかに人民軍の一員として中部高原に派遣され、カンボジア、ラオスにも転戦した後、七五年のサイゴン攻略戦に加わる。実録風の小説と言えるであろうこの作品の翻訳と解説のあり方については疑義を呈する人もいるが、私はそれも加味しながら、この文章に必要な限りで作品の意味を解釈してみる。
ドイモイ(刷新)路線による開放政策の一瞬の隙を突いて、この作品は一九九一年に発表された。しばらくしてベトナム軍機関紙「クァンドイニャンザン」は、この小説は「国民の愛国精神を弱め、人民軍の名誉ある歴史に泥を塗る作品」だと評した。それは、この作品には、人民軍兵士といえども無用な暴力をふるったり、掠奪・暴行行為をしたり、サイゴン解放の直後に、旧社会の象徴というべき「売春街」に繰り出したりしたーーという「事実」が描かれているからなのであろう。
私からすれば、このような事実が明るみに出た時こそ、軍事/軍隊の意味を捉え返すべき絶好の機会である。絶え間なき戦火の中で必然的に「軍事化してしまっている社会」のあり方を、自分たちが初心として持っていた理念との付き合わせを通して再検討し、次の段階の理念を生み出すべき時である。
だが、キューバでもベトナムでも、そのような動きは見えない。民衆は沈黙を強いられ、絶対的権力を自らに付与した〈党=政府=軍〉の特権的指導部は、「敵の脅威」を理由に、どんな変化も認めようとはしない。
そんな現実を見ながら、私は夢想する。
キューバ政府が、革命後いまに至る四〇年間のいつの時点でもいい、軍備全廃の方針を打ち出せなかったものか、と。たとえば、キューバ革命から三五年後の一九九四年にに蜂起するメキシコのサパティスタにも似て (6)、次のように語りながら。
「われわれの革命は、武力を行使することなくては勝利できなかった。それは止むを得ざる、一時的な暴力の行使だった。また、勝利の後には、反革命の度重なる軍事侵攻に
曝され、われわれは武装をさらに強化することを強いられた。
われわれが自主的に選ぶ道をあらゆる手段で妨害する米国は、二〇世紀初頭になされた両国政府間の約束を楯に、いまだにグアンタナモの軍事基地を手放そうともしない。このような困難な情況に包囲されていることを確認しつつも、われわれはあらためて革命の初心を思う。われわれの誰ひとりとして、他人を殺し/自らを殺すところに本質のある兵士であることを永遠に望む者ではない。
〈敵〉と有効にたたかうためには上意下達を、すなわち非民主主 義性を不可欠の属性として持たざるを得ない軍隊の、永遠の信奉者ではない。その属性 は、革命ゲリラであれ人民軍であれ解放軍であれ、免れることの出来ないものであるこ とをわれわれは自覚している。われわれは、誰もが他人の支配者ではない民主主義的な 空間において、他者を生かし、自らを生かす仕事に就いて働くことをこそ望む。
多くの国の為政者が平和を口にしつつ、例外なく自国の軍備を増強し、敵意のないところでさえ敵意を煽って、自ら好んで戦争に突入することもある、現在の国際関係の水準からすれば、われわれの以下の方針は、自国の安全上の危険を招きかねないことを、われわれは怖れる。
それでもなお、われわれは、世界に先駆けて自国常備軍全廃に向けた具体的な指針を定めた。今後一〇年をかけて、わが国は段階的に軍備を縮小する。10年後にはわが国には常備軍は存在しないであろう。人を殺すための兵器は存在しないであろう。従来の兵員は、(国外の、社会的・経済的により困難な情況にある地域も含 めて)建設的な仕事の分野に順次移行する。
世界じゅうの人びと、各国政府、国際機関に重ねて訴える。われわれが、危険を冒してまでこの方針を定めたのは、常に潜在的な〈敵〉を想定しながら国防に励むことの悪循環を思うからである。
人間が人間の敵であることを前提とする資本主義社会のモラルによっては廃絶できない戦争の本質に鑑み、われわれはわれわれが築きつつある新しい社会のモラルに即して、この方針を策定した。
一九四五年以降世界各地で起こってきた戦争の性格を考えるとき、われわれはそのほとんどが、いわゆる第三世界地域を戦場にしていることを気づく。他人を殺傷する兵器の生産、すなわち軍需産業の繁栄によって自国経済の一部たりとて成り立たせてはこなかった第三世界地域は、かくも貧しいままに、なぜ大国が生産する兵器の購入に乏しい国家資金を費やし、来るべき戦争に備えなければならないのか。
われわれの新しい方針は、絶え間なき戦火に苦しんできた第三世界の人びとによってこそ歓迎され、あわよくばこの間隙を利用してわが国を侵略しようとするかもしれない超大国の陰謀を砕くであろうことを確信する」というように。
これは、文字通りの「夢想」である。可能性は少ないが、フィデル・カストロがもしこの「夢想」を知る機会があれば、「オリエントの安逸な先進国に住むエセ・インテリが安楽椅子に腰掛けながら何を太平楽なことを言うのか」と、彼にしてみれば言い慣れた悪罵を投げつけるだろう。
だが、と私には次のように思える。キューバの革命闘争史を顧みるとき、一九五三年のカストロたちによる政府軍兵営襲撃にしても、五六年亡命先のメキシコの港から一五人乗りのヨットグランマ号に八〇人ものゲリラが乗船してキューバへの反攻作戦に向かったことにしても、そのときカストロは、キューバの民衆がわれわれのことを知っていなければならないという理由から出帆を公言し、そのために独裁政府軍はゲリラの上陸を待ち受けることができたという事実にしても、ほとんど〈失敗〉や〈敗北〉や〈全員の死〉と隣り合わせの地点で、彼らは行為を選択し、その闘争を展開してきた。結果は、もしかしたら〈運〉にも恵まれていたとも言えるが、世の中で安易に受け入れられている「常識」を破壊する力を発揮した。
また、革命後のキューバの民衆は、その国際主義のために、驚くべき〈自己犠牲〉の実践を積み重ねてきた。その実績を思うとき、彼らが軍事/軍隊の問題について、世界に先駆ける地点に立ち、世界を牽引するには、それほど遠いところにいるのではないのだろう。
それを阻害する理由があるとすれば、やはり、「絶対善としての革命軍」の温存によってこそ、地位と特権を享受できる階層が、実体的に指導部として形成されてしまっている点に求めることができよう。そのような指導部にとっては、「敵国の脅威」も「経済封鎖」も、十分に利用できる切札だと言えるかもしれない。
四
キューバとベトナム両国における、解放/革命をめざす民衆のたたかいは、それぞれの国の現実に根ざした地点で自律的に開始され、たたかわれた。
だが、同時にそれは、東西対立という、より大きな世界構造の拘束性を全面的には免れることはなかった。
両国の政治的・軍事的指導者たちも、その時代の拘束性を断ち切ることはなく、ある時は米国の存在を理由に、またある時はソ連の存在の寄りかかることで、或る瞬間には見せた、未踏の時代を切り開くだけの力を失った。東西対立構造なき現在も、彼らの世界観はその拘束性の中に佇んだまま、動こうとはしていない。
その時、新しい価値観で世界を揺るがし、世界を牽引することで一九六〇年代を象徴した「第三世界」は、一度死んだ。
しかし、キューバやベトナムという小さな国のたたかいに、三〇年前には過大な期待を寄せすぎた経験をもつ私(たち)は、その愚を繰り返すわけにはいかないだろう。自分の身の丈を越える責務を、だれしも一身に受けとめることは出来ない。
軍事/軍隊の問題を通して見えてくる世界共通の課題に、私たち自身が取り組みこと。キューバとベトナムの現在は、そのことを私たちに教える。
その意味で、世界に先駆けたがゆえに、その失敗面を教訓として見せてくれているキューバとベトナム……に対しては、やはり「第三世界万歳!」の思いは消えない。諸手を挙げるあの醜悪な所作としての万歳ではなく、Long live ! という意味としてならば。
グアンタナモ
われわれの夢のかけら
岩田宏「グアンタナモ」より
註
(1)伊高浩昭著『クーバ:砂糖キビのカーテン』(リブロポート、1992)
(2)フアン・ビベス著『恐るべきキューバ』(山本一郎訳、日本工業新聞社、1982)
(3)Benigno(Daniel Alarcon Ramirez, Memorias de un Soldado Cubano, T
usquets Editores, Barcelona, 1997
(4)Janette Habel, Cuba : The Revolution in Peril, Verso, London, 1991
(5)タイン・ティン著『ベトナム革命の内幕』(中川明子訳、めこん、1997)
(6)バオ・ニン著『戦争の悲しみ』(井川一久訳、めるくまーる、1997)
(7)サパティスタ民族解放軍著『もう、たくさんだ!:メキシコ先住民蜂起の記録1』
(太田昌国/小林致広編訳、現代企画室、1995) |