現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20~21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
1998年の発言

◆北朝鮮「核疑惑騒動」の陰で蠢く者たち

◆目と心が腐るような右派言論から、一瞬遠く離れて

◆第三世界は死んだ、第三世界主義万歳!

◆時評「この国は危ない」と歌う中島みゆきを聞きながら

◆自称現実主義者たちの現実追随

◆伊藤俊也の作品としての『プライド 運命の瞬間』批判

◆98年度上半期読書アンケート

◆書評:市村弘正著『敗北の二十世紀』

◆「自由主義史観」を批判する〈場所〉

◆民族・植民地問題への覚醒

◆国策に奉仕する「〈知〉の技法」

◆「後方支援」は「武力の行使」にほかならない

◆ペルー日本大使公邸占拠事件とは日本にとって何であったか

◆個別と総体――いまの時代の特徴について

◆植民地支配責任を不問に付す「アイヌ文化振興法」の詐術

◆政治・軍事と社会的雰囲気の双方のレベルで、準備される戦争

◆朴慶植さんの事故死と、時代の拘束を解き放った60年代の遺産

◆書評:ガルシア=マルケス著『誘拐』(角川春樹事務所刊)

◆保守派総合雑誌の楽しみ方

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国策に奉仕する「〈知〉の技法」―山内昌之の発言に触れて
「派兵チェック」69号(1998年6月15日発行)
太田昌国 


 『史料:スルタンガリエフの夢と現実』という本が出版された(東京大学出版会、1998年3月)。タタール人に生まれロシア革命初期の激動の時代を生きた[そして大急ぎで付け加えなければならないが、早くも1923年にその《反革命》活動の故に逮捕され、その後数回の逮捕の果てに40年に粛清され、そしてペレストロイカ期の90年に(!)名誉回復された]このムスリム共産主義者の主張に、直接触れることができることは、大きな刺激である。

ヨーロッパ偏向のマルクス主義(したがってボリシェヴィキ指導部)を批判し、いち早く「第三世界」の重要性を指摘していたスルタンガリエフの論文・演説・手紙の主なものが本書で紹介されている。

社会主義とナショナリズムに関わるそれらの論稿は、ソ連社会主義が無惨な形で崩壊し、イスラム・ナショナリズムに限らずおよそナショナリズムなるものが困難な試行錯誤を繰り返しているさまを見届けつつある時代を生きる私たちにも、なお訴えかけるものがある。

 さて、ここで私が触れておきたいのは、スルタンガリエフの魅力ある思想について、ではない。本書の編集・翻訳を担当したのは歴史家・山内昌之だが、彼の「表現」の形に関して、である。山内は1986年に彼が『スルタンガリエフの夢:イスラム世界とロシア革命』(東京大学出版会)を著した時には利用できなかった史料にその後出会うことで、この史料集の刊行が可能になった、という。史料集の編纂方法も、巻頭に彼が書いている「解説」も、史料に即してスルタンガリエフとその時代を描きだすことに成功しているように思える。

「解説」のなかで私が違和感を感じたいくつかの表現の中から、後段に述べることとの関係でひとつだけ取り出してみる。

「アメリカで言論の自由を享受しながらリベラルな民主主義の価値と意味をしきりに疑う、世紀末のアラブ系比較文学者の屈折したポーズ」とか「アメリカ東部海岸のエスタブリッシュされた大学に籍を置きながら安全地帯で冷笑的発言を繰り返すのとは訳が違う」という形でエドワード・サイードを引き合いに出して、スルタンガリエフを際立たせようとする、その方法に関して、である。

いかにも学術的な言葉遣いで山内が続けてきた叙述は、ここで突然崩れており、サイードに対するこの「敵愾心」が何に由来するのかは山内の歴史方法論にも関わってくる問題だとは思うが、ここではこれ以上は触れない。

ただ、彼の「解説」が全体として、読むに堪える水準で書かれていることだけを繰り返しておくにとどめる。そのことは、山内が蓮實重彦との共著『われわれはどんな時代を生きているか』(講談社現代新書、98年5月)で書いている「知的挑発」に満ちた五つの文章についても言えることである。

 さて、ところで、次の発言を読んでみよう。「(周辺事態法案は)日本が対等の立場でアメリカと相互に協力し、信頼感を醸成する観点からも大きな意味をもっている。湾岸戦争で日米間に亀裂が走ったのは、相互信頼という互酬性(レシプロシティ)を欠いていたからである。もちろん憲法第九条、とくに第一項の精神は守られなくてはならない。しかし、その規定と精神を守る信念と、有事における機動性の確保は矛盾する作業ではない。

この点で、外務省が日本の〈周辺地域〉における平和と安全に重要な影響を与える〈周辺事態〉について対応措置をまとめたのは、湾岸戦争における政府の迷走を考えると、まことに感慨深いものがある」。

 これは『文芸春秋』98年6月号に掲載された山内の文章「湾岸戦争が露呈した『恥なき国』」の一節である。けして長くはない山内のこの文章は、彼がいまいる場所を指し示す同種の言葉にあふれていて、任意のどの部分を取り出してみてもよい。

私が訝しく思うのは、次の点にある。数多くはない読者を相手に想定しながら学術的・知的水準を意識して書いている時には、人によってはたとえ大いなる異論を持つとしても、刺激を与えてくれる叙述を行なうこの歴史家は、読者が百万人にものぼるかという媒体に、現実の政治・社会問題に関して書く時には、なぜかくも易々と最悪のデマゴーグと化すのだろうか? 思えば、昨年ペルー大使公邸占拠事件を「武力行使で解決」したフジモリを〈将に将たる器〉と絶賛して止まなかったのも、『文芸春秋』誌上における山内だった。

 私は、曖昧模糊たる官製造語で、言語にすらなっていない「周辺事態」などという言葉をすでにあるものして使うことを自らに禁じている、と語る辺見庸(『世界』7月号掲載の前田哲男との対談「周辺事態という妖怪」)に共感をおぼえる者だが、歴史家としての山内には、彼が学問的叙述の時には行なう慎重な手続きに基づいて、「周辺」なり「事態」なりが何を指示するのかを問いつめていく責任が付随しているのではないか。

山内は、自らは自衛隊員の味方のような貌をして、「戦後一貫して自衛官の使命感や誇りをことさらにおとしめてきた」と戦後革新派に対する「冷笑的発言」をしているが、「東大教授という安全地帯にいる」己れは、〈周辺事態〉なる曖昧きわまりない、米国主導の戦争行為で生命を落とす、あるいは他者を殺害するかもしれぬという「危険地帯にいる」自衛隊員の未来像に心騒がぬのか。

 アカデミズムの上では一定の理論的手続きを経た作業を行ない、大衆向けの言論の場では東大教授の肩書きで、論証抜きの居丈高な国策イデオローグと化す山内の、おそらくは意識的な棲み分け/使い分けのあり方に、私はこの時代における典型的な「〈知〉の技法」を見ないわけにはいかないのだ。


(98年6月8日記)

 
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