現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20~21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
1998年の発言

◆北朝鮮「核疑惑騒動」の陰で蠢く者たち

◆目と心が腐るような右派言論から、一瞬遠く離れて

◆第三世界は死んだ、第三世界主義万歳!

◆時評「この国は危ない」と歌う中島みゆきを聞きながら

◆自称現実主義者たちの現実追随

◆伊藤俊也の作品としての『プライド 運命の瞬間』批判

◆98年度上半期読書アンケート

◆書評:市村弘正著『敗北の二十世紀』

◆「自由主義史観」を批判する〈場所〉

◆民族・植民地問題への覚醒

◆国策に奉仕する「〈知〉の技法」

◆「後方支援」は「武力の行使」にほかならない

◆ペルー日本大使公邸占拠事件とは日本にとって何であったか

◆個別と総体――いまの時代の特徴について

◆植民地支配責任を不問に付す「アイヌ文化振興法」の詐術

◆政治・軍事と社会的雰囲気の双方のレベルで、準備される戦争

◆朴慶植さんの事故死と、時代の拘束を解き放った60年代の遺産

◆書評:ガルシア=マルケス著『誘拐』(角川春樹事務所刊)

◆保守派総合雑誌の楽しみ方

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民族・植民地問題への覚醒
―朴慶植著『朝鮮人強制連行の記録』に触れて
栗原幸夫編集『レヴィジオン[再審]』第1号「戦後論存疑」
(1998年6月15日 社会評論社)掲載
太田昌国 


 「私は日本語で話したり、書いたりすることについて常に不自然さを痛感している。朝鮮人が日本語を話すということは、思想交流の手段として一つの外国語をマスターしているという技術的な問題に解消しえないなにかをもっている。それは朝鮮人が日本語を話すにいたった事情が、帝国主義と植民地、圧迫と被圧迫という関係から切りはなしては考えられないからである。」


 その本の序章はこんな言葉で始まっていた。朴慶植(パクキョンシク)著『朝鮮人強制連行の記録』。初版は一九六五年五月三一日、未来社から刊行された。私事にわたるが、この本が刊行されたころ、私は学生だった。

私なりの考えに基づいていかなる党派にも属してはいなかったが、同じ道を選んだ友人たちと共に、政治・社会運動の現場にはいた。日韓条約反対闘争の只中だった。

条約締結のための両国政府会談が進行するにつれて、韓国学生の反対デモはその前年くらいから次第に激しく展開されるようになっていた。彼らは「対日屈辱外交反対」「日本帝国主義の再侵反対」などのスローガンを掲げており、そのデモは警官隊との衝突で、しばしば流血をみていた。

 それから三〇数年を経た後のいま顧みるとき、以下のことは恥の痛覚なくして言うことはできないが、日本の私たちは韓国学生の闘争を新聞報道で見ながら(テレビは、ふつう、学生下宿にはまだない時代だった)「彼らの思想は反共だけれど、[日帝反対の]最終目標では一致しているから〈連帯〉のスローガンを掲げても構わないよな」などと位置づけて、東京の韓国領事館に向けて、「韓国学生に対する弾圧に抗議する」デモを行なったりしていた。

条約そのものへの反対の根拠は、南北分断の固定化に加担したくないという思いは当然にもあったが、(六〇年安保時代のブントの路線に倣って)「復活した日本帝国主義」の「南朝鮮侵略反対」にほぼ一元化されていて、その抗議対象は首相官邸と外務省、そして当時はまだしも機能していた国会だった。

 日韓条約反対闘争は敗北し、私たち無党派サ‐クルは「敗北の闘争」というパンフレットを作った。表紙の「敗」の字を横に倒して「敗」としたのが、妙な表現かもしれないが、「闘争の敗北」とまともに向かい合うことのできない心情を屈折して言い表わしていたように記憶している。

 それから間もないことだった、刊行されて半年ほど経った朴慶植著『朝鮮人強制連行の記録』と出会ったのは。当時買った初版本はその後手放したので、いま手にしている一九九五年二月の第五一刷版からは三〇数年前の手触りは感じられない。

ここに目次のみを再現してみるが、「序 帝国主義と民族の問題」「一 祖国を奪われ日本へ(一九一〇ー三八年)「二 強制連行(一九三九ー四五年)」「三 体験者は語る」「四 いまだに隠されている爪あと」「五 資料」「六 むすび」と続く、四六判三百頁有余の本の内容に、私の意識が最初からすんなりと入っていけたわけではない。正直に言って(それは、いま思うとほんとうに驚くべきことで、恥ずかしいことなのだが)それまでは民族・植民地問題の観点から、日韓条約締結に至る日韓関係史を捉えたことなどなかった。

 社会的・政治的矛盾は日本一国規模で分析すれば事足りる、と思い込んでいた時代である。同時代のアジア・アフリカ・ラテンアメリカの解放・革命闘争は「反植民地闘争」として歓迎すべきことであったが、その捉え方が、近代日本の植民地支配の分析と自己省察へと向かうことはなかった。

戦争の記憶と継承という課題も、いまよりはるかにリアリティのある時代ではあったが、野田正彰が現在書き綴っている興味深い連載物語の名づけに倣えば、「戦争の加害者も被害者もひっくるめて無罰化し、勝っても敗けても戦争は悲惨なものだ」とする「無罰化」意識に支えられて、戦後日本の反戦・平和運動は展開されていた(野田「戦争と罪責」第一回、『世界』一九九七年二月号)。

(日本の)「自分たちが何を行い、何を失ったのか、直視しようとしない」思考態度がそこには貫かれていた。植民地支配や侵略戦争に関わって、私たちのうちに、真の内省は生まれていなかった。当時は、私たちの世代も、所詮は「戦後革新の子」でしかなかったのである。

 朴慶植氏の著書『朝鮮人強制連行の記録』は、そんな私たちのあり方に対して最初に打ち込まれた楔のひとつだった。しかも「帝国主義支配の罪悪行為を具体的に知る」うえで、決定的な意義をもつところの。

具体的な姓名をもつ朝鮮人が、朝鮮のどこの村からどんなふうに「徴用」され、「連行」され、「官斡旋で動員」され、あるいは「狩り出され」たのか。日本のどの炭鉱、どこの河川工事、どこの鉄道敷設工事の現場での労働に従事させられたのか。

軍属とされた場合はどこの「戦地」に連れていかれたのか。朝鮮と日本とアジアの地図をそばにおいて読んではじめて、「帝国主義の植民地支配と侵略戦争」の具体性が見えてくる思いがした。この本を読みながら、私たちは、いわば「自前の地図」を描くことができた。新しい世界が開かれていった。

 朴さんは日本各地を歩いて、多くの人びとの証言に基づいて、この本を準備した。「理論(認識)と実践」の乖離に悩む身としては、朴さんの行なっている歴史の実証的な研究が、運動実践とも理論的探求とも結びついて見えることが刺激的だった。

私たち「「当時一緒に研究したり活動したりしていた幾人もの人びとの顔を思い出しながら、複数形で表現してよいだろう「「は、次第に、帝国主義の植民地支配という基軸をもって、〈世界〉と〈歴史〉を解読する方法を身につけていった。幸いなことには、朴さんの仕事はそれ自体としてひとり孤立してはいなかった。一九六〇年代後半の世界各地の政治・社会情勢と社会変革理論の模索が、これを後押ししているように思えた。

 朴さんの本に先行するキューバ革命やアルジェリア革命、同時代のヴェトナムの抗米戦争や米帝国内部のブラック・パワーとレッド・パワー闘争の展開「「それらはすべて、帝国主義の植民地支配の歴史と現実を知ることなくして、世界認識が不可能であることを教えるものであった。

 マルコムXの演説、「二つ、三つ、数多くのヴェトナムをつくれ、これが合言葉だ」というチェ・ゲバラのメッセージ、植民地世界における植民者(コロン)と被植民者の非和解性を分析したフランツ・ファノンの著作などの同時代の思想にも、朴さんの著作を貫くものと共通の問題意識を感じた。

時代を少し遡り、ロシア革命に接続する一九一〇年代から三〇年代をふりかえると、ロシア革命やコミンテルン内部の論争からも、エメ・セゼールの『植民地主義論』やC.L.R.ジェームスの『ブラック・ジャコバン』などの著作からも、同質の刺激を受け取ることができた。

その後著者自身がとてつもない世界へ跳び去ってしまうので今の思いは複雑だが、栗原登一こと太田龍の『世界革命:マルクス主義と現代』(三一書房、一九六七年)にしても、これらと共通の問題意識において、当時の私たちの思考を大きく転回させるうえでもった意味を過小評価するわけにはいかない。

 つい数年前まで私たちの視野を狭く拘束していた歴史観と世界観から解き放ってくれるこれら一連の動きの中に、朴さんの仕事は立っていた。


 そんな朴慶植さんには当時一度だけお会いして、仕事上の相談にのってもらった。その後は時おり古本屋街で見かける以外は会うことはなかったが、朴さんはその後も、『日本帝国主義の朝鮮支配(上下)』『天皇制国家と在日朝鮮人』『朝鮮三・一独立運動』『在日朝鮮人運動史:八・一五解放前』『解放後在日朝鮮人運動史』などの著書を次々と刊行された。直接会うことは希望しなくても、本を通して繋がっていたいという気持ちは持ち続けていたので、(いまだに未読のものも残っているとはいえ)それぞれの時代状況の中での氏の表現にはできるかぎり接するようにしてきた。

氏は強烈な時代意識を持つ人だったから、どの本にも必ずその時代(とりわけ同時代の日本の社会・思想状況)に対する批評的な言辞が記されていた。それを読むことが、私にとって精神のバランスをとるひとつのよすがである時期が続いた。

 そんな朴慶植さんと実に三〇年ぶりにお会いしたのは一九八七年一一月のある夜、在日朝鮮人の戦後史を映像にまとめた映画「在日」の完成記念パーティの場においてであった。絶えず人に囲まれて談笑していた氏がひとりになった時をとらえて私は氏に近づき話しかけ、自己紹介をした。私が編集者として関わっている金静美(キムチョンミ)さんの仕事(『水平運動史研究:民族差別批判』、現代企画室、一九九四年刊、など)に氏は少なからぬ関心を持っていると推測できたから、そんな関係も話した。氏は、いまいちばん力を入れているという「在日同胞歴史資料館」構想を熱心に説明してくれた。

それは、在日朝鮮人の運動に関わるものであれば、集会案内のチラシに至るまで保存してきたと言われる朴さんが集めた資料五万点を基盤に資料館をつくり、公開するという構想だった。それは、いかにも、「過去の歴史を知らずして、現在を語ることはできず、未来も見えにくくなる」という信念に生きた朴さんらしい計画だった。周囲の人びとに語らって協力しなければな、と考えながら、その夜は帰途についた。

 そして、それから数カ月後、一九九八年二月一二日夜、朴慶植さんは、調布市の仕事場から自宅へ帰る途中の横断歩道上で乗用車にはねられ、頭を強く打って間もなく死亡した。享年七五歳であった。

 同月一七日、自宅近くの寺で執り行なわれた葬儀に私は出席した。境内ではあるが、寺の外に立つ私には、何人かの人びとの別れの挨拶がとぎれとぎれに聞こえてくる。朴慶植さんの仕事は「告発主義だと言う人もいたが……」という言葉の断片も聞こえてきた。ちがう、もっと深い地点で行なわれていた仕事だ、と内心思った。

 葬儀会場で、十数年ぶりに会ったひとりの友人がいた。あの一九六〇年代後半、朴さんらの著書に刺激を受けながら、民族・植民地問題を軸に世界近代史の研究を共にした友人のひとりだった。

その後、独自の方法で朝鮮史の研究を続けていた彼は私などよりはるかに深く朴さんの仕事と共にあった人だと思うが、朴さんのこんな言葉を教えてくれた。当初から朴さんは、朝鮮史だけを研究しても朝鮮近現代史はつかめない、とくに日本の植民地とされた台湾の先住民の抗日闘争の歴史を知ることが重要だと言っておられた。そしてこの一〇年前ほどからは、国民国家日本のアイヌモシリ・琉球侵略と台湾・朝鮮侵略の連続性を綿密に追求することが重要だと強調されていた、と。

 それは、及ばずながらも私自身が、現在の重要な課題のひとつだと考えて、友人たちと共に理論的・実践的な取り組みをしてきている問題意識だったので、深いところで励まされるものを感じた。

 この日以来、私は朴慶植さんの本や小冊子の文章をあらためてときどき繙くようになった。通読するまでの時間はないが、気にかかる箇所に目を通す。

 朝鮮総連との見解の相違から朴さんが朝鮮大学校教員を辞めたのは一九七〇年頃だったと思うが、それ以降朴さんには「在日社会の多すぎるもつれ」についての発言が目立つようになり、総連・民団双方の「権力志向型の幹部」に対する批判を強める。在日社会の矛盾にもはっきりと向き合う人だったから、一貫した日本社会批判にも、よりいっそう私は納得がいく。

 「民族問題を考える」と題する一九八九年執筆の小文は、次のように書き出されている。「日本にはいまだに日本民族以外の他民族の平等な社会的存在を認めない考え方が支配的である。」(「アジア問題研究所報」第四号、一九八九年八月)

 「日本近現代史叙述における民族的偏見を問う」と題する一文は、一九九六年のもので、こんなふうに始まる。

「現在刊行されている『日本近・現代史』あるいは『昭和史』では在日朝鮮人に関して殆ど言及していない。それは『日本人の近・現代史』ではあっても、『日本近・現代史ルにはならないと思う。」 (同第十一号、一九九六年九月)

 氏のたたかいは、依然として続けられていたのである。そうでもあろう。たまたま手元にある「正論」九八年五月号を開いてみると、新井佐和子なる人物が「『広辞苑』が載せた『朝鮮人強制連行』のウソ」なる一文を寄せている。

新井は今年一月『サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか』(草思社)を刊行した。これは、「こんにち日本の近隣諸国への謝罪外交はほとんど習慣的となり、教科書ではまちがった歴史を教え、国家が自信と誇りを失った国民を育成するという事態に陥ってしまった」が、この歪みは、自らが関わったサハリン帰還運動にあったと懺悔して、その「内幕」を暴いたつもりの本である。

「日韓併合によって、公的には日本国民となった朝鮮の人びともまた、ひとたび戦争が起きれば、日本人と運命をともにしないわけにはいかなかった」という「歴史観」をもつ新井は、「朝鮮人強制連行」はなかったとまで言い、「定義もはっきりせず」「きわめて政治的な色彩の強い問題」である「従軍慰安婦」……などと表現できる人物である。

朴慶植氏が果てしない苦労の末に集成した、在日朝鮮人「処遇」に関わる日本官憲や鉱山協会の文書からでさえ、あろうことか、植民地支配の〈温情、優しさ〉を読み取るがごとき解釈ごっこに新井たちは耽っている。

 朴慶植氏の『朝鮮人強制連行の記録』に出会ってから三〇数年。この出会いと、その後の歳月の意味をあらためて検証すべき時で、いまはあるようだ。

 
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