[参加国賠事件一覧]
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国賠原告原告代理人被告事件と国賠裁判の概要現状
板野国賠 板野學 前期:尾山宏・金井清吉・菅沼友子/後期:西嶋勝彦・上田清吉・坂勇一郎 国・佐藤文哉裁判官 板野學の業務上横領事件。最高裁は1994年10月24日、上告を棄却し冤罪が確定した。

94年3月10日、佐藤文哉刑事第一審裁判官の「違法な措置」=公判調書の偽造及びその行使に対し、国賠及び民法109条に基づき提訴する。
本件第一審及び第二審敗訴。理由は、「本件公判調書の書き換え(偽造)は、訴訟手続きの違法であるが、判決の結果に影響を及ぼさない 」とのこと。公判調書の改竄を指揮した佐藤文哉裁判官の尋問無くして、真相を明らかにすることはできないとして、上告。しかし1998年9月10日、「原審の認定判断は正当である」として棄却判決、確定。
確定
井上国賠井上清志羽柴駿・菊池幸夫・福鳥瑞穂他5名国・東京都/親崎定雄・水崎澄夫・長山四郎(検寮官)/堀内英雄(警察官)/菊井良治(民間偽証者)

l969年から71年にかけて、いわゆる土田・日石・ピース缶爆弾事件発生。原告の井上さんは、73年2月9日、上記事件のうちピース缶事件容疑でデッチ上げ逮捕(最初は別件)、起訴される。刑事公判は、一審無罪、二審は途中検察の控訴取り下げにて無罪確定

95年10月17目、一審判決。検察側元証人の菊井の偽証を認め、200万円の支払命令。しかし国、都そして検察、警察の個人責任はすべて却下。控訴するも棄却。更に上告するもこれも上告棄却、確定(2000年2月29日)した。現在、一部勝訴(200万円)の分の執行を追求すべく作戦進行中。<一審判決の際に井上さんをおとしめた『週刊新潮』に対する「名誉毀損裁判」は、一審は怒りの敗訴。ただちに控訴するも、控訴棄却、終結。

確定
遠藤国賠 遠藤祐一 環直彌・阿部泰雄他680余名 国ならびに起訴検察官および一、二審裁判官5名 1975年に新潟県津川町で発生した轢き逃げ死亡事件について、新潟地検の検寮官は、アリバイを見落とすなどして継続の車輛が起した事故であることに気づかす、還藤祐一さん(当特20歳・宮城県)を起訴。新潟地裁、東京高裁の裁判官らは、無実を示す数々の証拠を無視、驚くべき恣意的な訴訟指揮により有罪(禁固6月・執行猶予2年)を宣告。l989年、最高裁は異例の破棄自判により逆転無罪とした。

冤罪被害に憤る全国の弁護士らの共感を呼び、原告代理人団は680余名にまでなった。しかし東京地裁民事38部は、「あの証拠でなぜ有罪とできたのか、裁判官を尋問したい」との原告の請求を最後まで退けたあげく、「普通の裁判官の4分の1以上は有罪としたはず。よって違法はない」と、請求を棄却した。現在、東京高裁民事9部で控訴審。2002年3月13日控訴棄却。直ちに上告
三審
オウム国賠オウム真理教信者ら梅澤幸二郎他1名国・東京都・愛知県・埼玉県一連のオウム事件に対する捜査が終結した96年3月以降も、教団信者の住居等に対して、微罪を口実としたおびただしい数の不当ガサが繰り返され、信者の社会復帰が妨害された。またガサや検問の現場では警官による信者に対する暴行傷害事件が相次いだ。

これらのガサや暴行に対して合計10件の訴訟を起こしています。それぞれの概要はオウム国賠のページにあります。10件中2件は二審、残りは一審。
10件中2件は二審、残りは一審

大型ガサ国賠 日本全国の64名 福島瑞穂・虎頭昭夫・武内更一・遠藤憲一 他88名 国・東京都・三森貫一(令状を請求した公安刑事)・山川一安・高瀬昌夫(令状を発布した簡裁判事) 1987年12月〜1988年1月、日本赤軍の旅券法違反被疑事件を口実に、なんと全国300カ所の家宅捜索。

準備書面で個人責任追及の論理を展開、次いで令状発布時に添付された資料の公開を求めたが棄却され、この文書提出命令申立棄却について高裁に抗告。高裁も棄却。原告・被告から7,8名ずつ代表して証人尋問。96年11月22日、一審判決。6人についてのみ一部勝訴(10万円×6)。ただし内容は無制限ガサを追認する反動判決であったため、控訴。2000年2月23日に控訴審判決。5人の一部勝訴が確定した。残るメンバーが上告したが上告棄却。
確定
神奈川みみずの会大竹紀蔵 他14名(含む獄中原告大道寺将司、益永利明)ナシ(本人訴訟)国・東京都1987年3月24日、東アジア反日武装戦線の大道寺、益永君達に対する最高裁判決公判傍聴希望者に対し、機動隊と裁判所職員とが妨害行為をはたらいた。98年12月18日、全面敗訴、確定。

原告側証人9人、被告都側証人2人、被告国側証人1人、原告本人4人の証拠調べを経て、95年9月27日、「原告の請求棄却」の判決。同10月6日控訴。その後、二審は二回の弁論のみで96年5月13日「控訴棄却」。同月22日に上告。98年12月18日、全面敗訴。
確定
甲山事件国賠山田悦子 他2名松岡滋夫・浅野博史・高野嘉雄・分銅一臣 他2名国・兵庫県1974年3月17日、19日に、兵庫県西宮市の甲山学園で二人の園児が死亡。殺人事件と断定した警察は、4月7日、保母の山田悦子さんを逮捕。逮捕は逮捕令状の緊急執行。執行に伴い他原告2名に暴行。その後、証拠不十分で釈放、不起訴。4年後に再逮捕、起訴。その後21年4ヶ月を経て、無罪確定。

国賠裁判は74年7月30日提訴。1978年2月27日の再逮捕により、78年3月17日第28回口頭弁論を最後に中断。99年9月29日の第2次控訴審「控訴棄却・無罪」判決、10月8日の検察上告断念---無罪確定をうけて、国賠の再開、もしくは新たな提訴が弁護団内で議論されたが、2000年3月3日、弁護団は国賠取り下げを発表。
取下げ
機械工業新聞社国賠石橋新一・片山政志小野正典・内田雅敏・飯野信昭東京都76年4月に、倒産会社の労働争議支援のため、立川市内の会社関係者の経営するスーパー前で、組合と共に団体交渉を求めた際、同スーパーに立ち入ったとして逮捕された。81年一審有罪。83年二審で無罪、確定。

84年2月提訴。88年9月警察官の任務遂行に過失があったとして、50万円ずつの慰謝料を払えとの判決。89年12月一審判決支持、控訴棄却。90年1月、東京都上告せず確定。
確定
「北朝鮮スパイでっち上げ事件」
八尾国賠
八尾恵木村哲也・本田敏幸・久連山剛正 他5名「旅券を返せ!」裁判…国および外務大臣

「違法捜査を許さない!」裁判…国および神奈川県

1988年5月25日、有印私文書偽造同行使で逮捕、公正証書原本不実記載同行使で計22日の勾留を受け、「朝鮮民主主義人民共和国のスパイ」としてでっち上げられる。8月1日、外務省より旅券(パスポート)を取り上げられる。「有印」は不起訴、「公正」は罰金5万円の略式命令で終わる。

「旅券を返せ!」裁判一審は、一部勝訴により70万円を勝ち取る。しかし二審は敗訴。現在最高裁に。また、「違法捜査を許さない!」裁判は、96年5月8日に一審敗訴。直ちに控訴。
検問弾圧国賠福富節男・大島孝一・天野恵一・池田五律 他3名後藤昌次郎・芳永真考・内田雅敏・内藤隆 他東京都1989年6月1日、「安保も天皇もいらない六月行動」の集会に対して、被告東京都・警視庁は多くの参加者に無差別的な不当な検問を行った。これに抗議する中で、三人が不当にも逮捕されるに至った。

89年11月27日、第一回裁判。以後準備書面の交換、口頭弁論、証人調べの中で原告は、被告の不法、不当性を暴露。当日の日比谷公園霞門前で撮影されたビデオを法廷で上映した。事実はより明瞭になり、被告のいう「任意・協力」の欺瞞が明らかになった。96年3月25日の一審判決は、二人については「検問の行き過ぎ」を認めて一部勝訴(5万円×2)となったものの、他の5人については敗訴。双方が控訴し、98年5月22日、控訴棄却。「危険物や所持している合理的疑いがない者に対し、承諾なしにナップザックなどを開いて所持品検査を行うことは許されない」などの一審判決を踏襲しながらも、双方の控訴を棄却した。都側が控訴せず確定。
確定
「号外新聞」不敬罪ガサ国賠水田ふう&向井孝・江口由起子中北竜太郎・井上二郎・上原康夫国および東京都1988年7月頃、東京都荒川区のマンションに号外新聞が投入される。犯人不詳、建造物不法侵入罪ということで、88年11月8日、その新聞発行人、向井&水田宅、および友人江口宅が家宅捜索される。

91年3月22日大阪地裁判決は、原告の請求を棄却。理由−ビラの内容で建造物侵入の成否が決められることはない。が、本件ビラ配布は深夜0時頃行われたものと認められ、このような時間帯の立ち入り行為は建造物侵入罪の嫌疑がないとは断定できない。故に本件のガサ許可状の請求発行・執行が著しく合理性を欠くとは言えない。91年10月、大阪高裁控訴審始まる。92年敗訴。控訴せず、確定。
確定
獄中暴行医療拒否・藤井国賠藤井誠伊藤秀一・辻恵神奈川県1984年6月、京セラ多摩川作業所閉鎖反対闘争に対し、神奈川県警は、当該・支援労働者を不当逮捕。20日の勾留理由開示公判出廷の護送車内で、取り調べ警察官ら6名が暴行を働き、医療拒否。支援では原告のみ不起訴、他は罰金刑確定。

警察資料について、提訴前の証拠保全を求めたが、高裁への準抗告を却下された。また公判での証拠提出命令も却下され、苦戦を強いられる。91年3月14日、暴行の一部のみ認定され、損害賠償10万円、弁護士費用3万円で一部勝訴。双方控訴。93年5月31日、東京高裁判決は双方ともの控訴棄却。よって一審の一部勝訴判決が確定。
確定
獄中暴行・黒川国賠黒川俊策一瀬敬一郎・松井茂樹江口保哉・東京都(東京都のみ控訴)1982年10月27日、捜査員への暴行なるデッチあげ容疑で不当逮捕されていた中核派活動家黒川が、勾留理由開示公判終了後、東京地裁地下一階看護室で警視庁の公安刑事江口保哉によって、首を鷲掴みにして絞められるなど激しい暴行を受け、首に傷害を負うという警官の暴行=権力犯罪を裁いている。

82年11月25日提訴。暴行に600万円請求。江口に対する反対尋問の段階で、警官傍聴をめぐって10年間中断。裁判所が警官の傍聴は審理を曲げるとして再開、96年6月28日、暴行の一部を認定し損害賠償20万円の判決。東京都側は同年7月控訴し、警官の暴行を否定する極悪法医学者石山郁男教授を証人に申請。これに対し、黒川側は、98年3月、警官の暴行を認める東京医科歯科大学の支倉教授の鑑定書を提出し、付帯控訴している。警官の供述と傷に関する法医学鑑定が争点になっている。
『さよならヒロヒト』原宿Xデー国賠見津毅(故人)・高橋吉昭・橋本吾道・K・奥村俊彦赤羽宏・新谷桂・伊藤秀一・武田昌邦東京都1989年9月以降、天皇の戦争責任・自粛のおかしさなどをテーマに、天皇制に反対する様々なパフォーマンスを原宿ホコ天で行ってきた「秋の嵐」メンバーの原告たちが、89年1月8日、「都公安条例違反」「公務執行妨害」で、更に1月15日、「公務執行妨害」「軽犯罪法違反」で逮捕される。また2月18日には私服警官に襲いかかられ、暴行を受ける。その他逮捕に至らずとも、著しく表現・思想の自由を侵害され続ける。

95年、原告の一人美津毅さんの死去により、強制排除・表現活動への侵害などを訴えていた彼の事案が取り下げとなった。96年10月、地裁判決。逮捕・暴行は違法だったと原告側全面勝訴。都側からの一方的控訴。97年11月には高裁判決。控訴棄却。勝訴が確定。
確定
砂川国賠 砂川孝子 松井康浩、西澤圭助、荒木和男、町田正男、等40名 2001年3月、東京拘置所に未決で2年7ヶ月勾留中の砂川孝子さん(当時43才)は、左頸部のしこり=腫脹に気づき、拘置所医務部に診療を求めた。ところが、医務部(橋本部長)は、確定診断ぬきに結核性のリンパ節炎と決めつけ(このことが、所内での結核感染を医務部が知っていたことを疑わせるのだが)、本人にはそれを隠したまま、抗結核剤を「抗菌剤」と偽って投与した。腫脹の正体を確定するための「生検」(=病理組織検査)も、本人が再三要求したにもかかわらず拒否された。しかも副作用が出ているにもかかわらず、抗結核剤を強制的にのませ続け、5月中旬には、砂川さんはついに薬剤性肝機能障害に陥れられた。肝機能値は異常に跳ね上がり、嘔吐が続き、立ち上がることも・水を飲むこともできない状態。体重は、じつに38.9kgにまで落ち込んだ。

01年7月17日国賠提訴。本訴訟では、確定診断の懈怠、抗結核剤のでたらめな投与、インフォームドコンセントの放棄などを不法行為として問うている。さらに、拘置所内でリンパ節結核に罹患させられたことじたいの責任をも問うている。 
一審

墨ぬり国賠 新居崎邦明 向井千景弁護士・萱野一樹弁護士 東京都・新宿警察松井巡査部長 1997年4月28日に行われた東京都の新宿野宿労働者排除に対する抗議行動における、逮捕弾圧及び暴力ガードマンによる野宿労働者排除に抗議する闘いに参加した原告は、ガードマンに対する「暴行」容疑で逮捕された。その際、逮捕警官によって暴行され、10日間の傷害を負う。また、取り調べにおける指紋採取を拒否したため、警官より暴行と、顔に指紋採取用黒インクを塗られるという陵虐行為を受けた。また、負傷に対する治療を逮捕後29時間にわたって拒否された。
東京都と墨を塗った警官松井に対し、各々慰謝料100万円と弁護士費用40万円の損害賠償を請求。98年7月より証拠調べに入り、7月に原告本人、9月に当日のビデオテープの検証、12月に逮捕警官の証言を終え、99年2月取り調べ警官の証言が終わり、5月墨ぬりの張本人松井の証言が予定されていたが、原告が別の労働争議の支援行動を理由に弾圧、逮捕されたため延期となった。しかし、原告の勾留が長期化したため、原告不在で11月に松井証言、2000年2月10日、これまた原告勾留で不在のまま判決。敗訴。直ちに控訴。2月18日原告東京拘置所より出所。東京高裁は2回の弁論で証拠調べをすべて却下し結審。弁論再開申し立てや裁判官忌避(いずれも却下)、特別抗告と抵抗するも最高裁の結果を待たずして9月19日、敗訴判決。上告審はこちらの手続きミスで却下され、12月、敗訴が確定した。
確定
精液事件国賠武田信弘ナシ(本人訴訟)埼玉県・他3名(元教頭、教諭)1993年、原告が学校の不正を追及していく中で県教育長から分限付きの精神科にかかれという職務命令が出された。それ以前に現金盗難事件が起こり、警察を呼んだにもかかわらずその記録が一切学校に残っていず、関係者が矛盾した発言をしているなど、警察がからんだ事件が起こっている。また、1995年9月体育館の女子更衣室に何者かが入り精液や小便を出すという事件が起こる。この事件も関係者の発言が互いに矛盾している。
総監公舎国賠福富弘美・二瓶一雄・須藤正・桐野敏博・外狩直和後藤昌次郎・伊藤まゆ・大口昭彦・竹内康二・磯貝英男日本国・東京都・山本達雄(起訴検事)・松永寅一郎(捜査主任官)1971年8月7日未明、警視総監公舎に「爆弾」を持って侵入した男を警備の警官が発見したが、逮捕に失敗。三ヶ月後、原告らを架空の別件で逮捕、一部の自白により別件・本件とも起訴。83年3月9日、東京地裁で完全無罪、検察側控訴不能で無罪確定。

1986年9月以来、刑事審における検察側隠匿証拠の提出をめぐるやりとり(結局提出せず)。89年9月〜90年12月、原告側主張を展開、91年1月〜95年1月、原告側再反論。95年中は証拠整理。国に計300回余分の公判調書を含む刑事審記録を提出させる。96年3月から証人尋問を開始。97年1月14日、一審は「警察官による違法な取り調べがあった」として、都に300万円の賠償命令、しかし「起訴に違法はなかった」として国や個人への請求は退けた。双方控訴。2001年4月17日控訴棄却。同年12月20日上告棄却。確定
確定
早慶戦「天覧」試合国賠 大谷久・T・渡邊幸之助・小竹広子・野村尚志 丸山敦朗・荒木昭彦 東京都 1994年5月29日の早慶戦を天皇夫妻が観戦に来た際、それに反対するビラを撒こうとして神宮球場敷地内に入った大谷ら早大生6名が、建造物侵入罪で逮捕された。「ビラを撒いている人を見ませんでしたか」と職員に尋ねた友人野村も有無を言わさず連行され、公務執行妨害罪で逮捕。

94年9月1日、東京地裁に提訴。被告側証人として、逮捕にあたった警察官・捜索押収令状の請求に当たった警察官らを証人尋問。その後原告らの本人尋問を経、97年11月10日結審。97年春に裁判長が二回替わり、証人尋問や本人尋問を実際には全く見ていない裁判官らによって、98年2月2日、一審判決。緻密な論理もなく、全面的に被告側の主張を採用した、全面棄却の不当判決だった。原告全員が控訴するも、99年10月28日、またもや敗訴で確定。
確定
痴漢デッチあげ事件沖田国賠 沖田光男 鈴木亜英 吉田健一 林勝彦 山口真美 安原幸彦 佐藤誠一 生駒巌 今村核 鈴木剛 飯田美弥子 篠原靖征 国、東京都、ウソの被害申告をした女性 1999年9月、JR中央線の電車内で携帯電話をしていた女性に止めるよう注意した私(原告沖田光男)が逆恨みされ、駅前歩道を歩いていたところを、女性の虚偽の通告を真に受けた警察官に「痴漢の現行犯」(都条例違反)で逮捕され、3週間立川警察署に留置、自白を迫る取調べを受けた。事件は嫌疑不十分で釈放され、不起訴となった。3年後、国、東京都、女性の3者を相手に損害賠償訴訟を起こす。
2002年4月19日東京地裁八王子支部に提訴。警察官の現行犯逮捕の違法、検事の勾留請求の違法、女性の虚偽申告等を訴え、慰謝料1130万円の賠償を求める。
一審
通行人乙の適正な裁判を求める国賠 通行人乙 ナシ(本人訴訟) 国(裁判官) 1998年7月4日午前1時1分、信用情報開示拒否理由を求めてN信販に滞留していた原告は、犯罪認識を持たない司法巡査に不退去罪の現行犯人として現行犯逮捕されました。その後、司法警察員による、犯罪事実の非告知・弁護人選任権の侵害等の不法行為を経て、同年7月15日まで留置場に監禁されました。 同年9月1日、この逮捕監禁処分と留置場の待遇を不当として損害賠償を求める裁判を起こしました。そして、1審・2審・3審と敗訴判決を受け、2000年10月27日確定しました。
 2001年1月19日、この判決が裁判官の経験則違背によるものとして損害賠償を求める裁判を起こしました。一審敗訴。
確定
土田・日石・ピース缶爆弾事件国賠堀秀夫・E.R・榎下一雄・M.N遠藤昭・森本宏一郎・芳永克彦・尾嵜宏 他11名国・東京都1969年〜71年にかけて、いわゆる土田・日石・ピース缶爆弾事件発生。土田国保(前警視総監・当時警視庁警務部長)宅での小包郵便爆発(夫人死亡)事件を頂点として、犯人逮捕に焦る捜査当局は、73年に入り、これらの事件の「犯人」として無実の18名を次々とでっち上げ逮捕、起訴した。刑事裁判は、一審二審とも無罪。検察は上告を断念し、無罪が確定した。

89年2月、第一回弁論。以後弁論は休止状態に入る。膨大な刑事裁判確定記録の謄写は裁判所の勧告もあり、被告国側が飲んだものの、後任代理人が途中で「そんな約束は聞いていない」とゴネる始末。しかしその場逃れは通用するはずもなく、ようやくにして謄写終了。95年10月より再開。その後一審では敗訴し、原告が控訴。2001年12月25日、二審一部勝訴、上告中
三審
東葛ガサ国賠 高木公明 広瀬理夫・福武公子・色川清 国および千葉県 89年1月7日に天皇裕仁が死亡、県警が捜索差し押さえ許可状発布。1月8日原告40歳の誕生日。1月11日早朝、千葉県警4名による家宅捜索。容疑・容疑者不詳の強盗殺人未遂、有線電気通信法違反、器物破損、窃盗被疑事件。(いわゆる中核派の千葉県収容委員会委員長襲撃事件)

94年3月30日、一審判決。家宅捜索を許可した裁判官に対して、国の賠償を求めたが却下された。県に対しては、捜索する必要最低限の合理性を欠くとまでは言えないとして、家宅捜索を消極的な表現で認めた。押収したビラは関連性のないもので、押収は違法、警部補に過失があったとして5万円の支配命令。双方上告せず確定。
確定
栃木天皇警備人権侵害訴訟 石崎貴久、斎藤壮太、鈴木弘之、手塚愛一郎、中川信明 荒木昭彦、和久田修 栃木県 1995年10月11日、「地方事情視察」のため天皇・皇后が栃木県を訪れた際、天皇来県に反対する街頭宣伝活動が取り組まれた。これに対して、栃木県警は大量の警察官を動員し、街頭宣伝を妨害した。天皇通過時は、参加者をそれぞれ数名の警察官が身体を拘束し、口をふさぐ、ゼッケンを破るなどの暴行を加えた。

98年1月21日まで5回の口頭弁論が行われた。被告は、原告らの街頭宣伝活動によって「通行の妨げ」になるような事態が起きていて、原告らの行為は無届けの道路使用であるとして警察官の規制の適法性を主張。天皇警備による表現の自由への侵害を問題にしているが、被告は天皇制が論点になることを極力に避けている。2001年3月16日に勝利的な和解

和解
戸塚署暴力警官国賠 仁平信幸 ナシ(本人訴訟) 東京都 1989年2月26日、戸塚署(新宿区)へ釈放される友人を迎えに行き、すでに釈放されていたためその時間を訊いたところ、署外に追い出され、警官に殴る、蹴る、強盗、器物損壊を被った。

90年7月10日、東京地裁に提訴。本人訴訟にて闘うが、91年9月17日敗訴。控訴せず終結。
確定
西宮署国賠 M・H 乗井弥生 有村とく子 兵庫県 1995年6月原告は原告宅で発生した強盗強姦事件の被害届を西宮署に提出。同年10月に写真面割において犯人に酷似した人物を特定するが、以後捜査が中断。2000年11月、事件についての進展状況を問い合わせると、証拠品のうち数点が紛失しており、証拠書類も作成されていないことが発覚。
2002年4月30日第一回公判開廷。現在被告側は写真面割で原告が犯人に酷似した人物を特定したと言う事実を否定。証拠書類の未作成と証拠物の処分については継続捜査、立件、裁判に全く支障はない、ので賠償の必要もないとの主張。
一審
野方署国賠高木功雄飯田正剛東京都1984年9月25日、750CCのバイクに乗って仕事先に向かう高木さんに、ひとりの警官(志賀光男)が立ちふさがり、免許証提示を強要。提示義務のないことから、逆に警察手帳の提示を求めたところ、道交法違反だとして暴行。周りの市民の抗議の声も無視し、公防・傷害をデッチあげ逮捕した。更に野方署において、取り調べを拒否する高木さんに対し、中平信吾警部補らが暴行、怪我を負わせた。

1988年3月25日、東京地裁に提訴。現場段階での暴力事件、弁護士選任権の妨害、ならびに取調室での拷問・暴行について、全ての証人調べが終了し、92年4月27日に判決。敗訴、控訴せず。確定。
確定
ハンセン病国賠 ハンセン病療養所入所者ら596名 豊田誠 他43名(東京)
徳田靖之他135名(熊本)
平井昭夫他79名(岡山)
国(厚生省・国会)  戦前・戦後を通じた「らい予防法」によりハンセン病元患者・快復者は、強制隔離や強制労働、断種・堕胎などの数々の人権侵害を被った。人間として自由に生きる権利を剥奪され現在もなお名誉回復措置はとられていない。

98年7月に熊本地方裁判所において、99年3月に東京地方裁判所において、99年9月に岡山地方裁判所において、国の責任を追及し、またハンセン病に対して根強く残る偏見差別を取り除くため、訴訟を提起。マスコミでの謝罪広告とひとり1億1500万円の損害賠償を求めている。2001年5月11日熊本地裁判決
一審
5/11
熊本地裁判決

久恒国賠 久恒廣志(成年後見人 兄豊) 久恒隆弘(父) 前田知克、水永誠二、矢澤ショウ治、渡辺千古、等60名 2001年4月1日朝、東京拘置所に未決勾留中の久恒廣志さんが、独房で脳梗塞を発病、右半身麻痺・失語の状態で発見された。ところが、拘置所医務部は、重症脳梗塞に対応しうる体制も経験もないにもかかわらず、久恒さんを直ちに専門病院に転送しなかった。翌2日、弁護士の執拗な抗議によって日医大に搬送されるまで、じつに30数時間にわたって、久恒さんは実質的に放置された。このことによって、彼は、脳圧が亢進し脳ヘルニアを発症して生命の危機に陥れられた。開頭減圧手術で一命はとりとめたもの、右片麻痺・完全失語・重度の意識障害の後遺症が残り、残念ながらその回復は不可能といわれている。

01年10月23日国賠提訴。裁判では、拘置所医務部の転医義務違反と説明義務違反を、さらに手術直後の瀕死の久恒さんに手錠をかけ続けたという拘置所の人権蹂躙をも問うている。拘置所の「医療」が、在監者の人権にもとづく当然の権利としてではなく、管理者の裁量としてしか認められていない現実。このことを根本的に問い直すことを目指した裁判である。
一審

松永国賠松永優石田省三郎・池宮城紀夫・井上正治・青木英五郎1971年11月10日、沖縄で返還協定批准に反対するゼネストが行われ、そのデモの渦中、ひとりの警官が死亡した。松永氏は殺人罪で逮捕、起訴されたが、五年間の刑事裁判の末、福岡高裁那覇支部で無罪確定。

東京地裁の一審判決(79年6月)は、謝罪広告は認めなかったものの、「検察官の起訴は予断と偏見に基づいたもので違法」とし、勝訴。東京高裁(83年10月)も勝訴。しかし最高裁(89年6月)で差し戻し判決。東京高裁の差し戻し審では、92年3月26日請求棄却の判決。直ちに上告。93年10月8日、上告棄却判決により、確定。
確定
御崎逮捕令状国賠御崎直人・御崎勝江大口昭彦弁護士 他2名国/東京都 1981年1月13日、原告の御崎直人は前年10月30日に東京南部で起きた「殺人事件」の犯人として全国に指名手配された。御崎には事件当日、埼玉県内でアルバイトをしていたという確かなアリバイがあり、2〜3カ月後、アリバイ証拠・証言が証拠保全された。しかし、警察がアリバイを無視して指名手配を継続したため、御崎は時効までの15年間、潜行生活を強いられた。
御崎の家族、友人は、「救う会」を結成して、その15年間、逮捕令状の撤回を求めて毎月毎月、裁判所への抗議行動を続けた。  時効後の96年9月21日、それまでの「救う会」を発展的に解消して「逮捕令状問題を考える会」を結成。98年7月2日、東京地裁に提訴。確かなアリバイがあって犯人ではありえない者について、警察が逮捕令状を請求し、裁判所が発付した違法性、責任をめぐって争っている。強固なアリバイ証拠・証言の存在に追い詰められた警視庁は、99年12月7日、これまで多くの国賠では拒否していた逮捕令状請求に係わる疎明資料を、ついに提出させられた。現在、警視庁が“アリバイの存在”という争点を隠すため行おうとしている「目撃」証言の持ち込みをめぐって、準備手続き段階から激しい攻防が続いている。
一審
元公安調査官違法逮捕・勾留国賠

公安調査庁嫌がらせ国賠
野田敬生
(元公安調査官)
前田裕司、渡邉良平、古本晴英 国、東京都


2000年9月23日土曜日早朝、公安調査官・井上勇ら3名が、原告の居住 するアパート玄関まん前に関東公安調査局公用車を横付けして挑発。原告がこれを発 見するや、原告から「右手拳で頭部を一回殴打された」、と虚偽の110番通報をし た。“事件発生”の約1時間後、警視庁野方署が原告方自室の引き戸をバールで破壊 し部屋に侵入。被疑事実が存在せず、現行犯の要件を満たしていないにも関わらず、 原告を違法逮捕・勾留した。その際、貴重品預りの名目でPCを違法に押収。東京地 検、東京地裁はこれらを看過・黙認し、結果、原告は18日間にわたって違法・不当な 身体拘束を受け、甚大なる精神的苦痛、物的損害を受けた。
また、事件の数日前から、公調は露骨な監視を継 続。99年2月から5月の間には、原告居住アパート階下の一室を借り上げるなどして、 原告に著しい精神的圧迫を加えていた。
一審

林国輝さん国賠 林国輝 鬼束忠則・関聡介・萱野一樹 東京都 1997年6月4日、天安門事件の犠牲者を追悼するため、中国大使館前で横断幕を広げる等の平和的な活動をしようとした在日中国人民主化活動家・林国輝さんらは、複数の警察官から殴る蹴るの暴行を受けた。林さんは逮捕・勾留されるが、取調中も大声で怒鳴られ、襟首をつかんで引っ張られる等の暴行を受け、また警察官が用意した勾留理由開示請求取下書を筆写することを強要された。(その後、取下書の取り消し行い、理由開示公判は行われた。)6月25日、不起訴となり釈放。

98年2月24日、東京都を相手に提訴。2000年4月3日に一審判決、勝訴(10万)。01年3月29日に二審判決、勝訴(25万)。
確定


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