『赤旗』書籍広告掲載拒否で「糧道を断つ」実質処分
1999.2.12 WEB雑誌憎まれ愚痴連載
前回の続きで、『赤旗』書籍広告掲載拒否という目に遭った私の本のことを、具体的に説明したいのだが、その前に、同時進行の最近の現象に目を向けて頂きたい。
学生時代には日本共産党員だったことで知られる作家、辻井喬、実名は堤清二が今、日経朝刊に『風の生涯』と題する連載小説を寄せている。
『テーミス』(99.1)の書評記事では、この新聞小説の「モデル」について、「第1回を読んだだけで戦後の政、財、マスコミ界で縦横の活躍をした水野成夫氏だと分かる」としている。水野成夫は、戦前の日本共産党幹部の獄中転向、転身組の代表格である。しかし、その「風の誕生」の描写には、堤財閥の総帥の庶子として育った清二自身の幼少期が、投影されているのではないだろうか。
なお、面白いことに、この書評記事では、題名を間違えて『月の生涯』にしていた。
達筆の筆字による題字の「風」の中の作りの部分が、右に寄って右の縦線と重なっているために、左側だけを見ると「月」に似ていなくもないが、ちゃんと右の尻尾が右上に跳ねている。さらには、本文の最初がゴシック文字の「第一章 風の誕生」なのだから、主人公を「風」、つまりは「風雲児」に擬したのが明らかである。この書評子のそそっかしさは相当なものだが、「風」に一番近い字は「虱」(しらみ)である。こちらと間違えたのなら、水野成夫の「産経残酷物語」とまで形容された組合潰しへの怒りを抱き続ける新聞労連関係者は喜ぶかもしれないが、遺族は名誉毀損という騒ぎになるかもしれないなどと、ついつい余計な心配をしてしまう。
それはともかく、堤清二が、この種の問題に筆を初め出したのは、非常に面白い。上記書評の最後の締めの通り、いや、それ以上に、「今後の展開が楽しみである」。
というのは、堤清二は、私の卒業した杉並区の都立西高校の先輩で、一時は同窓会の会長をしていた関係で、直接の会話も経験しているし、何よりもそれ以前から、彼に深い関心を抱く理由があったからである。
ある時、堤清二を呼び掛け人に担いで同窓会の中の「霞ヶ関関係」だけを集めた会が開かれた。私は、著述業の資格で招かれ、堤清二と初めて2人だけの対話の機会を得た。私が、自分の「左」経歴などを自己紹介した後に、読売新聞のナベツネのことを調べて書いていることや、できればナベツネの後輩としての「東大新人会」の経験や、その後の思想的展開の経過を聞く機会を得たいと言うと、堤清二は、じっと黙ったまま何も答えなかった。確かに、いきなりで、いささか不躾かだったと思うが、その直後に出した私の唯一の長編小説『最高裁長官殺人事件』を献呈したところ、もちろん秘書の仕事ではあろうが、立派な筆字の礼状が届いた。その後はまるで機会を得ておらず、いずれまたアタックしてみたいと思い続けてきた。
さて、閑話休題。そのかなり後に発表した『マスコミ大戦争/読売vsTBS』が、『赤旗』の「理由を一言も言わない」広告掲載否という「糧道を断つ」実質的処分を招いたのである。
以下、日本共産党に関係する部分を、改行位置、数字の縦への変更以外は、原文のまま紹介する。日本共産党には、以下の文章について、どこが気に入らないのか具体的に明らかにする社会的義務がある。私は、広告掲載拒否の理由明示を求め続ける。
以下、一部引用。
『マスコミ大戦争/読売vsTBS』(汐文社、1992.11.2.p. 73-81)
11 政治思想経歴を詐称する元共産党員ナベツネの正体
[中略]
渡辺恒雄は、伝えられる「罵詈雑言」癖などからは想像もできないが、敗戦直前に東京帝大文学部哲学科に入り、学徒動員で中断後、戦後に名前だけは途中から東大だが、旧制のままの文学部哲学科に戻って、そこを卒業した。敗戦の翌年、学生時代の1946年には日本共産党員となり、たちまち脱党、東大新人会の創立者というのが、一応の「思想経歴」である。
それではなぜ、この元「左翼」が、2人の元内務警察高級官僚[中曽根康弘と小林与三次]と親しい間柄になり得たのだろうか。
簡単にいえば「裏切り」で、警察の暴力団担当「マル暴」が仕事相手の暴力団と癒着するような構造なのだが、もともと渡辺恒雄には、共産主義者とか社会主義者になるような素質は備わっていなかったようである。渡辺恒雄がそういう立場を続けたとすれば、かえってスターリニズムのような悲劇を生んだことであろう。
たとえば、東大新人会の仲間の1人の証言によると、「同じ新聞社に入ったら1人で社長になるわけにはいかんから、別々のところに行こう」というのが渡辺恒雄の就職先決定の際の提案であった。その他の証言をも勘案すると、一見左翼風の学生時代を送ってはいたものの、それは口先だけのことであって、実際には出世主義のかたまりだったというのが、本当のところだ。
日本共産党入党、たちまち脱党という経歴も、当時の出世主義的な青年の1つの典型である。敗戦直後には、ソ連も日本共産党も、新しい未来権力の栄光を放っていた。しかし、アメリカとソ連の関係は、すでに冷戦体制へと変化していた。渡辺が入党した1946年の秋には日本でも、すでに第2次読売争議[中略]が敗北している。逆風は吹き始めていた。翌年の1947年には、「反共ドクトリン」として知られるトルーマン大統領の年頭教書が発表され、2.1.ゼネストがマッカーサー直々の干渉によって失敗に終わった。1949年から1950年にかけては、レッド・パージの嵐が荒れ狂った。
ソ連を中心とする世界共産主義運動には欠陥も多かったし、日本共産党自身も、非合法からの急速な再建途上のこの時期について、当時のトップであった徳田球一書記長に「家父長的」な自己中心主義の傾向が見られたとし、指導体制や方針にも多くの誤りがあったことを認めている。しかし、だからといって、状況が厳しくなったらサッサと脱け、逆に大企業の社長を目指すなどというのは本末転倒もいいところであり、人間の底が浅い証拠である。
さらに許しがたいのは、渡辺がこの青年時代の思想経歴と活動に関して、都合のいい自己宣伝をし、はっきりいえば、政治思想経歴の詐称をしている事実である。
私が読売を訪れて渡辺との会見を申し入れた時の別れ際に、山室広報部長は「ご参考までに……」といって『女性自身』(92.7.21)を1冊くれた。暗に、こういう記事を書く気なら会見は実現できるかも、と匂わせる雰囲気であった。帰りの電車の中でめくってみると、「シリース人間NO.1193」「大いに吠える! 僕の放言実行人生」という題の、チョウチン記事そのものであった。「まさにアッパレ!」とまでナベツネを持ち上げている。私は「なめられたものだ」と1人苦笑したが、山室広報部長には旧著ほかの私の文章を提供しておいたので、それらを見たためか、その後の読売の対応は変化し、会見は不可能となった。
『女性自身』編集部に聞くと、何人かの取材と資料収集によって、アンカーと呼ばれる執筆専門の記者が仕上げる典型的な週刊誌特集である。だから文責がだれにあるのかは定かではないが、渡辺が取材記者に会っているのは確かだ。「 」内は本人の発言に添ったものだろう。山室広報部長は私にも「会見できた場合にはゲラを見せてくれ」と注文をつけたのだから、この『女性自身』の記事も本人の検閲を経たものであろう。共産党との関係にふれる部分はなぜか「 」でくくられてはいないのだが、次のようになっていた。
「共産党とも、自主的な学生運動を行なえる組織を目指して戦前にあった東大新人会を復活したことによって、あっさり訣別」
これを、これまたチョウチン型の単行本『読売王国』の「渡辺恒雄という男」という項で見ると、以下のようになっている。
「マルクシズムには人間の自由がないという認識から、組織と個人の関係はいかにあるべきかを考え、そこからいわゆる『主体性論争』が活発に行われるようになった。
この動きが共産党を刺激する。
渡辺は当時、共産党東大細胞の委員長だったが、先んじて共産党を離れ、それを知った共産党は慌てて渡辺らを除名処分にして面子を保った。……
こうして生れたのが再建新人会である。……渡辺が幹事に就任した」
かなり昔の雑誌記事によると、共産党から「スパイ扱いされた」という本人の主張らしき記述もあるが、いずれも物的証拠資料の裏づけを欠く文章ばかりだった。果たして真相はいかに、という興味を抱かざるを得ない。
そこで共産党本部に当時の事情を照会すると、しばらくたって連絡があり、現中央委員会常任幹部会委員の小林栄三が会見に応じてくれた。小林は、東大で渡辺の2年後輩に当り、渡辺の処遇が激論になった当時の共産党東大細胞の会議にも出席していた。
小林の思い出話のほかにも、当時の『日本共産党決定・報告集』や『アカハタ』記事などの資料も沢山ある。経過はかなり複雑なのだが、思い切って簡略化せざるを得ない。
すでに略記したように、渡辺が共産党に入った年の1946年10月には、読売争議支援の新聞通信単一労組や電気産業労組(電産)の10月ゼネストが挫折し、翌年には2.1.ゼネストがマッカーサーの直接干渉で失敗に終わった。左派労組の全国組織である産別会議の足下では、のちの総評(社会党支持)につながる民主化同盟が動き始めていた。
渡辺らは、この民主化同盟と連絡を取りつつ、青年共産同盟(現在の民主青年同盟の前身)の強化を呼びかける共産党中央の方針に反対し、1947年9月以降、東大新人会の「再建」を始めた。この「再建」活動には、東大細胞の指導部が少なくとも表面上は賛成をしていたようだが、党中央はもとより東大細胞が所属する中部地区委員会にも東京地方委員会にも相談なしに行われていた。しかも渡辺は、この活動資金5千円を戦前に共産党を抜けて裏切り、党の破壊に走ったことで有名な三田村四郎から受け取っていた。そこで渡辺らの活動に反対の党員からの連絡により、当時は中央の統制委員会の責任者だった宮本顕治(現議長)も参加する細胞総会が開かれた。
『日本共産党決定・報告集』によると、席上、渡辺らの行為が「重大な規律違反であるということはほとんど満場一致で認められた」ものの、除名処分に関しては「賛成27、反対26、棄権が3というような状態であった」。「除名処分に反対した人たちの意見を調べてみると、事実は除名にあたいするが、しかしながらその当時は組織も弱かった、指導部の人たちも関係しておったのであるから情状をくんでやって、離党をすすめればよいという」状態であった。さらには、「こんなわかりきった規律違反に対して、なぜ相当な数の人々が反対するかというと、もし除名して新人会の運動に圧迫を加えるなら党や細胞のいろいろなことをバクロするというすてぜりふを中村、渡辺がのこしたので、要するに後難をおそれたこと」『アカハタ』(48.1.8)までが指摘されていた。
のちに紹介する当時の渡辺自身の文章の中にも「沖□和□君」「荒□新□君」などと「一部伏せ字」を気取った部分があり、これなどは同級生が見れば一目瞭然であろう。当時の共産党は非合法ではなくなったものの、まだ公然と個人名を名乗って活動するのは危険であった。すでに紹介した渡辺の読売政治部記者時代の「仕事」振りから見れば、この「バクロするというすてぜりふ」は、いかにも渡辺らしい脅し文句に聞こえる。
共産党東京地方委員会はそこで、「まちがった考えを細胞の半分くらいの人がもっていたのでは、党のいう、鉄の規律も、意志とおこないの統一もたもてない」『アカハタ』(48.1.8)という理由で1947年12月16日、「東大細胞の解散、全員の再登録を決定し」、東大細胞に通告した。
小林の説明によると、この「解散」は当時の規約にもとづいた処置であったという。渡辺らはこの際「再登録」を申し出なかったもので、党内文書では「除名」と記されているが、特殊ケースだといえる。その後の『アカハタ』(48.2.7)報道によると、新人会は1948年1月30日に「総会をひらき、約80名が出席して、会の今後の方針を協議したが、大衆討議の結果、非民主的ボス性を除去することになり、渡辺、中村は脱退した」。
以上のような共産党側の経過説明に対して、本当は渡辺本人の口から反論を聞きたいところである。だが、さいわいなことに、小林は『資料学生運動』に渡辺自身の文章が収録されていることを教えてくれた。出版元は、日本共産党に対しては日頃批判的な論文を出すことで知られている三一書房だから、あながち一方的な編集だとはいえないだろう。
「東大細胞解散に関する手記」(渡辺恒雄)は「〈始動〉48.3.1.」から再録されたものであり、かなりの長文である。弁明の数々を紹介すればきりがないが、渡辺は意外にも素直に「私は新人会財政部として若干の寄附を三田村氏から得た」「その際我々は同氏が党の転向者でもあるので、旧指導部員の諸君と相談しその賛成を得た」という書き方で、三田村から金を貰った事実を認めているのだった。
三田村は、佐野学、鍋山貞親、水野成夫、田中清玄らとともに、戦前の共産党弾圧に際して特高警察の拷問に屈して転向を誓ったばかりか、裏切り活動に協力した元共産党幹部の一人であり、関係者で知らぬものはいなかった。その後も三田村は、「三田村労研」の名で労働組合の御用化工作を続けていた。私が民放労連の組合役員だった時代にも、財界の意を受けた「第二民放労連」づくりを画策したので、抗議行動に行った経験がある。子供ではあるまいし、三田村の金がどこから出ているのかを知らぬ存ぜぬでは通らない。渡辺らの活動は最初から腐っていたのだ。
また渡辺は、「新人会の発展は極左派の諸君の猛烈な反対と妨害を受け、私は代々木に喚問され、十人近くの極左派の諸君の取りまき罵倒する中で宮本中央委員、山辺統制委員に詰問」されたと記しているが、この「極左派」という用語が面白いのである。小林の思い出話によると、当時は現在と違って共産党以外に「極左派」と呼ばれる集団があったわけではない。ところが、渡辺らが起草した「新人会綱領」には「公式的極左主義を克服し」という部分があり、これが渡辺らの常日頃の言動からして、日本共産党の方針への批判を明らかにしたもので、分派活動の証明と見なされたというのだ。
渡辺の美文調で分りにくい「手記」の最後には、「私は党内党外の真摯な青年諸君の批判と審判を待つのみである」となっていた。「批判と審判」は今後もさらに厳しく続ける必要がある。
以上で引用終り。
私は、これ以上に もっと詳しく書けるだけの材料を持っているのだが、なかなか、この問題だけに集中する時間が作れない。しかし、幸いなことに、近く、この関係の連載記事を雑誌に発表するという執筆者に会えた。できる限りの資料提供に努力したので、その出来上がりを期待している。
この種の仕事には、いわゆる「下駄を履くまでは油断ができない」側面があるから、執筆者や雑誌の発行元のことは書かないことにするが、乞うご期待!
以上で(その7)終り。次回に続く。
(その8)無言の『赤旗』広告拒否理由:もしやの意見書へ
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