連載:元共産党「二重秘密党員」の遺言(その14)

ルーマニア特派員「いわなやすのり」告発の原文1.

1999.4.2 WEB雑誌憎まれ愚痴連載

 前回の終りに、私は、「特に怒ったのは、増田が、『日本共産党本部にはアムネスティ・インタナショナルの年次報告書があります』と記している部分である」とか、「この実に下らないごまかしは、それ以前の現衆議院議員、緒方靖夫のごまかしに発していた」などと記した。私が、そう断言する理由は、いくつかあるが、それを述べる以前に、やはり、この「ルーマニア問題」の発端となった記事を直接読んでもらいたい。人物評価は別として、この問題を一番詳しく知る「はず」の立場にいたのが、すでに「中央区の地区委員時代の渾名はクレムリン」など、一部情報を紹介済みのルーマニア特派員「いわなやすのり」であることは、間違いのない事実なのである。

 下記の記事の経歴紹介と、「渾名はクレムリン」情報は、矛盾するのであるが、その件は、また後に考察する。

『サンデー毎日』(1990.3.4)

スクープ連打18ページ総力特集「仁義なき衆院選」完結編
Part4. 元赤旗ブカレスト特派員が宮本共産党を告発!!

[写真入りの経歴紹介]

 いわな やすのり

 1953年、早大在学中に日本共産党に入党。同党機関紙『赤旗』特派員として北爆下のハノイ特派員。外信部副部長を経て、1977~80年、同ブカレスト特派員。この間、宮本顕冶氏の第2回ルーマニア訪問の際には現地特派員として随行取材に携わった。1984年、日本共産党の体質が「人間の顔をした社会主義」の理想に合致しないという理由で離党を通告、不当に除籍される。「人間の顔をした社会主義」を実現するためには、上意下達の軍隊的・官僚的党ではなく、人間的で。民主的な党でなければならないと信じている。

「私のルーマニア警告はこうして無視された」

 「両被告は人間の尊厳および社会主義の諸原理とあい入れない行為を行い、ルーマニア国民の名において指導者と自称しながらその国民を破滅させる方向で、決定的に犯罪者として行動しました」……『チャウシェスク軍事法廷記録』から

 いわなやすのり
 (ジヤーナリスト)

 総選挙の結果はご存じの通り。日本共産党は大いに苦戦した。共産党の苦戦については、東欧・ソ連で起きだ歴史的激変が社会主義、共産主義のイメージダウンとなり、大きくマイナスに作用したとの見方がもっぱらだが、なかでも、20年来親密な友好関係にあったルーマニアのチャウシェスク独裁政権崩壊にあたって同党指導部がとった姑息な「辻つま合わせ」が、支持者をふくめ国民多数の理解と納得を得られなかったことが、重要な一つの要因としてあげられている。

 そこで、この際、問題をルーマニアにしぼり、「私自身も当事者の一人であった」(『赤族』1990年2月8日付)宮本顕冶氏に尋ねたい。とりあえず以下の6点について宮本氏の明確な返答を聞きたいと思う。

 (一) 日本共産党は、1971年、1978年、1987年の3回にわたり、チャウシェスクとの間で共同コミュニケ、共同宣言を結んでいる。前2回は宮本氏みずからが代表団長としてルーマニアを訪問して調印し、最後の一回はチャウシェスクと宮本氏のあいだの書簡のやりとりを中心に、両氏間の共同宣言という形で行われている。

 前2回については、宮本氏自身、「個人的にもぜひくるようにとくりかえし招待をうけて」(「日本共産党重要論文集8』280ページ)、「言わば首脳会談のための訪問」(宮本顕治『激動の世界、日本の進路』152ページ)と語っている。

 3回目の共同宣言についてはいわずもがな、いずれも、宮本氏の強いイニシアチブと責任で行われたものである。その意味で、宮本氏の先に引用した「当事者の一人」という言い方は、一種の意図的な責任のがれ、すり替えではないか。

 (二) 宮本氏は、『赤旗』に載った今年の新春インタビューのなかで、「そういう態度の変化(天安門事件の擁護、東欧の動きに軍事介入しようという態度などを指す……筆者)が……はっきりしたので、わが党は、過去はどうあろうと、き然とした正論にたって、すぐそれを公然と批判しました」と述べでいる。

 「世界の公理に……反する」(同インタビユー)ルーマニアの態度を批判したこと自体、いわば世間の常識からみて当たり前のこと(だからこそ「公理」といえる)で、なにもことさら「き然として行動する党」などと力んで自慢するにはあたらない。

 むしろ、ここで重要なのは、「過去はどうあろうと……」というさりげない一言で、19年間もチャウシェスク独裁体制と友好関係を続けてきたことについての責任を一括棚上げしてしまっていることである。

 宮本氏にとって、まさに「過去こそが問題」なのであり、問われているのは「宮本氏の過去」なのである。

チャウシェスク独裁を美化!

 (三) ルーマニアにおけるチャウシェスク独裁体制・個人崇拝の確立は、概路、次のような過程を経ている。

 1967年12月 大国民議会で、先輩のキブ・ストイカをしりぞけてみずから国家評議会議長となり、党書記長との兼務により、党と国家の権力を掌握。

 1969年8月 第10回党大会で、それまで中央委員会の互選によっていた書記長を大会代議員による直接選挙制に改め、書記長を中央委員会より上位におき、党にたいする絶対的支配を確立。

 1973年6月 中央委員会総会で、妻のエレナ・チャウシェスクを政治執行委負会のメンバーに加え、現代世界であまり例をみない一族支配に乗り出す。

 1974年3月 大国民議会で、それまでの国家評議会議長からルーマニア社会主義共和国初代大統領となり、いっさいの国家大権を一身に集中、個人独裁体制を完成。

 ところで、宮本氏は、1971年の最初のルーマニア訪問のあと、1971年10月11日付の『赤旗』に載ったインタビュ-のなかで、「ルーマニア解放記念のパレードをみて、……あそこで示されたルーマニア共産党指導部にたいする大衆の支持の感情というものは自発的なものです。……党指導部にたいする熱烈な支持をあらわしていると感じました」と述べている。この発言は、チャウシェスク個人崇拝・個人独裁体制にたいする支持、美化以外のなにものでもない。

 ルーマニア国民は、チャウシェスクの圧制下で6万人(『チャウシェスク軍事法廷記録』)ともいわれる人命の犠牲を払った。宮本氏は、みずからがチャウシェスク独裁を美化し、その強化に一役買ったことについて、ルーマニア国民にたいし良心の痛みをまったく感じないのだろうか。

 (四) 宮本氏は、今年の新春インタビューのなかで、「当時対ソ追随が多いなかで、ルーマニアがチェコ侵路に反対という公正な立場にたったこと、……核兵器廃絶の問題でも、共産党間の誤った干渉に反対する『立場』[この部分がゴシック]でも、正当なことをいっていたから、われわれもそういう立場で交流しできたわけです(ゴシックは筆者)」と述べでいる。

 どうやら宮本氏がここで強調したいのは、ルーマニアの国内体制を支持したわけではないということのようである。

 事実はどうか。

 1971年の共同コミュニケには、「日本共産党代表団は、ルーマニア共産党が……多面的に発展した社会主義を建設するうえで、注目すべき成果を上げていること、人民を国の政治生活に広範に参加させる社会主義的民主主義を拡大していること……を心から喜んだ」(『世界政治資料』1971年9月下旬号)と述べられている。

 1978年の共同宣言では、「宮本顕治委員長は、ルーマニア共産党の指導下で……社会主義建設においてかちとられた大きな成果、社会主義の魅力の高まりにたいして、……心のこもった祝意を伝えた」(『日本共産党国際問題重要論文集11』462-463ページ)と述べられている。

 それだけではない、1979年6月3日の第20回赤旗まつりでは、数万人の聴衆を前に記念演説を行い、このなかで、「私はルーマニアで見たのでありますが、日本の4DKぐらいの大きさの団地の部屋が200万円から 300万円くらいの値段で勤労者に渡されている。私は、社会主義がこういう国民生活を守る点では、資本主義が太刀打ちできないすばらしい達成をしていることを、人類のために喜びたい」とまでほめあげている(宮本氏が訪ねた家は入居後15年のアパートで、新築の場合は、もちろん日本ほどではないが、宮本氏があげている例よりは高く、家計収入対比でもそれなりの負担になっている)。

 また、第2回訪問の際、筆者も随行したブカレストのデパート視察で、宮本氏は、見るもの見るもの、「安い」「安い」の連発だった。この「安い」は価格を公定レート(当時、1レイは約20円)で日本円に換算してのことで、労働者の月収との比較はまったく欠落している。当時、労働者の平均賃金は約2000レイ。これにたいし、一例をあげれば、筆者が実際に買った、肩がこるほど重い100%合繊の粗悪なブレザーが 485レイ。平均賃金の4分の1に相当する。ルーマニアの勤労者にとって、決して生活は楽ではなかった。

 いずれにせよ、ここで明らかなのは、宮本氏が、対外政策だけでなく、ルーマニアの社会主義建設、国内体制にたいする肯定的評価、ひいては、この面でのチャウシェスク体制支持にまで深くコミットしていたという事実である。

 これでも、宮本氏は、チャウシェスクとの親密な付き合いは、対外政策の面での一致に限られていたと強弁すみつもりだろうか。

「本当に、あなたに責任ないか」

 (五) 宮本氏は、1990年2月8日付の『赤旗』に載った「共産主義運動の劇的な変化と日本共産党の確信」のなかで、「ルーマニア側のガードは堅く、破局後暴露されたような、秘密警察とか内戦用地下道とかの生々しい事実を事前に知ることは不可能だった」と弁解している。

 かつてはすぐれた政治家として尊敬したことのある宮本氏から、まさかこんな子どもじみた弁解を聞かされるとは、筆者も思ってもみなかった(『ル・モンド』紙によれば、フランス共産党の指導部も、下部党員からの責任追及にたいし「知らなかった」と答え、失笑を買っているようだが)。

 秘密警祭にしろ、地下道にしろ、ルーマニア側が外部の人間に簡単にその存在を明かすはずがないではないか。地下道に至ってはルーマニア側でもチャウシェスク周辺のほんの一握りの人間しか知らなかったことだろう。

 そんなことより重要なのはアムネスティ・インタナショナルの年次報告で、1970年代以後、ルーマニアがつねに世界でも有数の人権抑圧国としてとりあげられ、チャウシェスク独裁体制の人権じゆうりんは世界周知の事実だったということである。たとえば、宮本氏が2回目にルーマニアを訪問した1978年の同年次報告は、次のように指摘しでいる。

 「1977年3月の重要な人権アピールに署名した多くの人びとが拘留され、セクリターテ(治安警察、つまり、チャウシェスクの秘密警祭のこと……筆者)によっで計画的に殴打され、虐待された。同アピールはパウル・ゴマニ(1977年後半に亡命した反体制作家)が発したもので、これには少なくとも 200人が署名していた」

 これは、ほんの一例である。アムネスティ・インタナショナルの年次報告は、毎年、数ページを割いてルーマニアの人権じゆうりんをきびしく非難している。

 筆者自身、チャウシェスク独裁政権の人権じゆうりんについて、警告の意味で何回か「情報」を送ったが、紙面に載らないのは別として、「なんでこんな余計なことをするのか」とつよく批判された経験がある。

 宮本氏はこうした事実をまったく知らなかったとでもいうのだろうか。それとも、チャウシェスク同志が認めない以上、アムネスティ・インタナショナルなど信用できないとでも考えていたのだろうか。

 (六) どんなすぐれた指導者でも、20年もの歳月のなかでは、言説や態度に矛盾をきたし、誤りを犯すことはありえないことではない。

 筆者が問題にしたいのは、そういう矛盾や誤りそれ自体ではない。そんなことは、複雑困難な革命闘争では、むしろ、あって当たり前なのである。レーニンは、必要な場合にはいつでも、「諸君、われわれは間違った」と卒直に誤りを認めたことで知られている。

 問題は、あくまで白を黒といいくるめ、「宮本顕治無謬」論、「日本共産党無謬」論を押しとおそうとするところにある。

 宮本氏は、いまなお、ルーマニア問題でまったく誤りを犯さなかったといい張るのだろうか。それならそれでよい。日本共産党は、あなたの「名誉」とともに衰退の道をたどるしかないだけのことである。

以上で(その14)終り。次回に続く。


(その15)ルーマニア特派員「いわなやすのり」告発の原文2.
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