連載:元共産党「二重秘密党員」の遺言(その19)

1960年安保に溯る共産vs新左翼諸派の抗争

2000.3.3 WEB雑誌憎まれ愚痴連載

まずは長期休載に関する編集長の舌代

 ユーゴ戦争の勃発、というよりも、その報道のあまりのお粗末さに気付いたがゆえの編集方針の急遽変更のために、このシリ-ズは、ほぼ10か月の休載となった。しかし、その間、別途記事で、「利権ならぬ沽券」、いやさ、「元祖焼き芋の沽券も組織と椅子確保のための利権の一種」、略してリコケンケン主義政党の日本共産党の方針、またはその中央機関紙こと『しんぶん赤旗』の報道を、批判せざるを得ない事態が何度も発生した。

 これは避け難い事態である。宇宙や地球にまで話を広げる気はないが、この何とも狭苦しい島国、日本国の政治・経済・文化・軍事などなどを論ずる上で、一応は「反体制」の店を張っている中央政党こと日本共産党の動きは、嫌でも耳に入らざるを得ない。それどころか、その上に、わがホームページの愛読者でもある日本共産党の党員が、疑問を抱く『しんぶん赤旗』の記事を切抜いては、わが仮住まいに送ってくれるものだから、その期待に応えて、論評せざるを得ないという編集部の内部事情すらあるのだ。

 で、それらの新しいネタは、追々取り上げ直すことにして、話を前回の(その18)、代々木の日本共産党本部でのチャウシェスク問題の最終段階、「愕然の勝利」に戻す。

6.15.:1960年安保40周年、ロフトプラス1で回顧座談

 前回の最後に、日本共産党本部での1960年安保闘争に溯る偶然の対話を記した。以下、その経過の記述を一部省略、一部増補して、再録する。原文は、そのままになっているので、まだの方は、お読み頂きたい。


 私の学生時代の文学部の同窓生で1960年安保闘争の死者、樺美智子は、当時の東大学生細胞がハンガリー動乱におけるソ連の武力干渉を批判した経過の中で、日本共産党から除名されたグループの一員だった。この経過が、今なお続く全学連の分裂につながる。その後、日本共産党中央委員会の方が、歯切れは悪いが、ともかく、スターリン批判に転じ、ハンガリー動乱におけるソ連の武力干渉についての当時の見解を修正した。その時に初めて、当時は「ノンポリ」の私は、樺美智子らの除名の政治的経過を知ったのである。

 上記のチャウシェスク問題の最終段階で、ふと、この「除名の政治的経過」を聞いたところ、同席していた中央委員の一人が、私の質問に答えて、樺美智子らが属していた東大細胞の一団が代々木本部に来て、揉めた時のことを言い出した。簡単に言えば「ここで暴力を振るった」というのだが、私が、「若いのが怒れば手ぐらい出るだろ。誰が手を出したのか。誰か怪我でもしたのか」と聞くと、それには返事がない。まるで具体的ではない。誰かが手を出したから、しめたとばかりに、まるごと除名処分して片付けたという感じだった。いずれにしても、警察に届けたわけではないから、何の公式記録もない。ともかく、些細な衝突を根拠に、その後の経過から見れば、当時は正しい主張をしていた方の若者のグループが、まるごと日本共産党から排除され、しかも、以後どころか、私も直接その姿を見ている樺美智子の場合には、国会の構内で警察官の軍靴と同様の固い靴で蹴り殺され、車の下に蹴り込まれていたというのに、死後にも「トロッキスト」呼ばわりされ続けているのである。

 さて、つい最近のことだが、たまたま今年、西暦で2000年が、1960年安保の40周年に当たることに気付いた友人がいて、樺美智子が死んだ記念日の6.15に、「新宿情報発信基地」こと激論酒場、ロフトプラス1の出し物として回顧の座談会を企画してくれた。ロフトプラス1の舞台の上に登るのは、これで5回目となる予定である。その際、これまでにも断片的に記した実録を、まとめて告白するが、対する相手が、1960年安保の国会前の隊列に殴り込みを掛けた護国団の元団長、石井一昌、などという驚天動地のメンバーになる。他にも若い世代に声を掛けてみようかと思っているので、もしかすると、史上最大のショーになるかもしれない。

除名組の学生党員たちも四分五裂の魑魅魍魎

 その間、といっても、本シリーズの前回(その18)発表後のことであるが、私には、「樺美智子らが属していた東大細胞」そのものを美化する気は一切ないので、別途、以下の主旨のmailを発信した。

「ハンガリー動乱におけるソ連の武力干渉への批判」が正しかったからといって、その細胞所属の除名組の学生党員たちが、その当時も、その後も、すべて正しかったということにはならない。

 これは、いわゆる「近親憎悪」関係の連中全体への批判の意味である。「除名組の学生党員たち」は、当然の経過として、自らの「近親憎悪」の最大の対象としての日本共産党に対抗するために、勢力拡大に走る。だから、「元」日本共産党員ではない様々な前歴、思想傾向の学生たちも、続々と仲間に加わる。結果として、むしろ、その後の全学連の四分五裂、ゲバ棒から赤軍派の殺人粛正に至るまでの「新左翼」諸流派の経過を見れば、日本共産党なり、その統制下の民主青年同盟こと「ミンコロ」などと罵られていた「民青」の方が、行儀が良いという世評にすらなってくる。日本共産党の本家は勢いを得て、「反逆者ども」への「トロッキスト」呼ばわりを強める。

 私が、職場の仲間から誘われるままに、民青、続いて日本共産党に加盟したのは、その時期のことである。

以上で(その19)終り。(その20)に続く。


(その20)共産党中央に国鉄闘争「4党合意」拒否の明確化を求める反主流(その1)
『憎まれ愚痴』51号の目次
連載:元日本共産党「二重秘密党員」の遺言リンク