ルーマニア特派員「いわなやすのり」告発の原文2.
1999.4.2 WEB雑誌憎まれ愚痴連載
凡例……[ ]内は、本 Web週刊誌『憎まれ愚痴』編集部の注記である。日付等の漢数字はアラビア数字に直した。その際、西暦の2桁表記には19を加えて、たとえば76年を1976年とし、原文発表時の年度表記なしの箇所には[ ]をつけずに1990年を補った。[以下は「反論」の引用]とある部分は、『赤旗』記事の引用であり、『現代』記事の原文では小さい文字になっている。傍点部分は、[ ]内に再度記し、ルビは、[ルビ:ホモセクシュアル]などと記した。
『現代』(1990.5)
「宮本顕治議長よ 誤りを認めよ」
歴史に立ち遅れた「日本共産党」を徹底批判する
いわなやすのり(元「赤旗」特派員・ジャーナリスト)
筆者略歴:1953-1984年、日本共産党員。この間、「赤旗」ハノイ特派員、,外信部副部長、ブカレスト特派員など。訳書にフランソワ・フェイト著『ブダペスト蜂起1956年……最初の反全体主義革命』(窓社、近刊)など多数。
低劣な人身攻撃、言論テロ、批判の封殺……「チャウシェスクとの共同声明」の責任もとらず、宮本氏の名誉擁護に異常な努力を払う共産党は、党員、国民を愚弄していないか
特異な「民主的マナー」
筆者は「サンデー毎日」1990年3月4日号に手記を寄せ、ルーマニア問題での共産党中央委員会議長、宮本顕治氏の責任を問うた(別掲の編集部による「要約」参照)[本Web週刊誌では前回のその全文を掲載したので今回は省く]。これに対し、宮本氏は、「赤旗」1990年2月27日付の「変節した『元特派員』の日本共産党攻撃」と題した緒方靖夫氏(国際部長)の署名記事で、低劣な人身攻撃で始まる「反論」をのせた(「反論」の編集部による要約は本文中に随所挿入している)。
今回、この文章を書くにあたり、何回か「赤旗」の「反論」(以下、「反論」と略す)を読み返してみた。いろいろごちゃごちゃいっているが、結局、その趣旨は、(1)天安門事件まで、チャウシェスクは支持でき、ルーマニアは人権蹂躙国ではなかtった (2)だから、それ以前に結んだ声明・宣言は、当時も今も重要な意義をもつ (3)したがって、宮本顕治氏はルーマニア問題で完全に正しく、まったく誤りを犯さなかった、という粗雑な三段論法に尽きる。
選挙で 500万の得票を得ている野党第3党の最高指導者が、ほんとにこんなことでよいのだろうか。
そこで、再度、宮本氏は正しかったかについて事実を明らかにし、この問題をめぐるその政治責任を問いたい。
まず第一にいっておきたいが、一市民として宮本氏への批判を世に問うたのに対し元党員であったというだけで、「反論」の中で筆者が名前を呼び捨てにされるいわれはまったくない。かつて、ある演説のなかで、宮本氏は「共産党は、……除名された連中を敬称で呼ぶ習慣はない。それが共産党の伝統的な民主的マナー」「(そんな連中まで)立派な市民……扱いはしない。(そうすることが)日本の社会発展に有益なんだ」といったことがある。
今回の「反論」を読んてまず感じたことは、共産党が政権党になっていなくてよかったということである。筆者は1984年、日本共産党の体質が「人間の顔をした社会主義」の理想に合致しないという理由で離党を通告し、逆に不当に除籍されたが、規律違反やスパイ容疑で除名されたことはない(共産党の規約でも除籍と除名は違う)。もし共産党が政権党だったら、筆者はいまごろ、かつてのソ連・東欧の異論者たちと同様、国外亡命の道を選ぶよりほかなかったろう。
ところで、今の共産党にはもう一つ特異な「民主的マナー」がある。必ず人身攻撃で反論するという「伝統的習慣」である。これまた、かつてスターリン主義のソ連・東欧で異論者に“同性愛者”[ルビ:ホモセクシュアル]“寄生生活者”[ルビ:パラシット]などというレッテルを貼り、社会的に批判を封殺した手口と同じである。
要するに、「罪状」を高札に書き連ねて「罪人」の首を街角にさらす、あの中世的“さらし首” “見せしめ”の思想である。こんな批判をすればお前らもこうなるぞという恫喝である。
万年少数党に甘んずるつもりなら別だが、“いつかは政権を”と本気で考えているなら、こんな世間では通用しない「民主的マナー」は早く捨てたほうがよい。
これでも「自由と民主主義」か
宮本氏は、1990年2月14日、総選挙戦のさなかに出したアピールのなかで、共産党が1979年に発表した「自由と民主主義の宣言」(以下、「宣言」と略す)に関し、ルーマニア共産党機関紙「スクンテイア」の後継紙「アデバル」の幹部が「現在の東欧諸国の直面する諸問題を基本的に解明したもの……先駆的意義をもつ」と語ったことを材料に、「わが党はこの『宣言』を日本での展望として発表したもので、世界のモデルとしたものではないが、東欧の人々がこれを、そのように受け取っていることは興味ぶかい」と、例によって「先見性」「先駆性」を自画自賛している。
ここで、「興味ぶかい」のは、このアピールの載った同じ15日付「赤旗」外信面に、ブカレスト13日発特派員電で「先駆的意義をもつ『自由と民主主義の宣言』ルーマニア紙副編集長語る」という記事が同時掲載されていること。宮本氏は、これをアピールの裏づけとしたつもりだろうが、世間では、こういうのは「やらせ」としかいわない。
「宣言」が掲げている複数政党制、表現の自由、思想・信条の自由、その他の自由については、当然ながら、筆者をふくめだれでも賛成である。むしろ、このような自明のことをわざわざ「宣言」として出さなければならないこと自体、従来の共産主義運動がいかに歴史に立ち遅れていたかの証明だとさえいえる。
問題は、宮本氏の率いる今の共産党がこの「宣言」をいつ実行するのかということである。日本での将来の「展望」では困るのである。少数野党に過ぎない現状ですら、元党員が宮本氏を批判したからといって、言論テロにもひとしい人身攻撃で批判の封殺を試みるような政党が政権をとったら、日本はいったいどうなるだろうか。それとも、今は「市民扱い」しないが、政権をとったら翌日から市民にしてくれるとでもいうのだろうか。そんなことを信用する人はだれもいない。
破廉恥な人身攻撃
降りかかった火の粉は振り払わなければならない。今後だれに対しても2度とこのような破廉恥な手口を使えないようにもしなければならない。その意味で、若干の事実をのべておきたい。私事にわたり恐縮だが、我慢してつきあって欲しい。
[以下は「反論」の引用]
巌名は(『サンデー毎日』の記事で=編集部注)いかにも自分が先見性をもった大記者であるかのように書いていますが、実は在任中の1978年8月、中国の華国鋒(中国共産党主席=当時)がブカレストを訪問することを知りながら、日本の各社の特派員が取材にかけつけたのに、唯一の常駐日本人記者であった彼がその期間にささいな私用で一時帰国して取林を放棄したりするなど、万事自分のことが先で、日本共産党の専従活動家としてはもちろん、新聞記者という社会的な使命の意味でも、落第人物だったことを、まず指摘しておきます。
[以上で「反論」の引用は一端終了]
「反論」はまず、華国鋒訪間の取材に関し、筆者が「ささいな私用で」勝手に任務放棄したがのように攻撃している。しがし、事実は次のとおりである。
(1) 筆者は、1976年夏、ブカレストへの赴任に際し、海外出張の手続をした上、当時住んでいた住宅公団賃貸アパートに「赤旗」記者(その後、ワシントン特派員)を留守番のため入居させていた。本人が更新手続をしなければ満2年以後は不正入居となるため、1978年夏の一時帰国を外信部に申請。3月27日、「宮本代表団のルーマニア訪問終了後、ルーマニア側費用負担ならOK」との回答を得る。
(2) バカンス・シーズンで航空便の予約は困難をきわめたが、ルーマニア側の尽力でやっと8月16日発南回りの予約を確保。、
(3) この頃、一時帰国が近いことがらアスピリンでごまかしていた歯痛がひどくなり、アスピリンの過度服用で胃も痛み出した(一時帰国後、歯根膜炎、多発性胃潰瘍と診断され、約1ヵ月半、治療。胃潰瘍は、数年後に再発、胃を切除)。
(4) 帰国便確保の直後、華国鋒の訪問が発表され、8月3日、チャウシェスクが党と国家の活動者会議で、国際問題について説明。従来の方針の再確認で、華国鋒訪間に影響されないことを示唆(この旨コメントした記事を送る)。
(5) 8月7日、一時帰国の最終スケジュールを外信部に知らせ、承認を受ける。
この際、外信部長から、国際部の要請として、約1ヵ月前にルーマニア訪問から帰った宮本氏の帰国士産が足りなくなったので、ザンフィル(世界的なパンフルート奏者)のレコードを20枚ほど買ってきて欲しいと依頼があった。急ぐかと聞くと、「お土産だから、早いに越したことはない」との返事。
(6) 8月16日、華国鋒到着の記事を送信した後、ブカレストを発つ。
(7) 一時帰国後数日して、ある全国紙のブカレスト臨時特派員が「華国鋒・チャウシェスクが共同声明」と誤報。宮本氏が「共同声明など出るはずがない。現地に聞け」といいだし、筆者のブカレスト不在が問題とされた。
(8) 宮本氏のお土産の件を除き、以上の経過と反省を文書で提出。それ以後別段の追及はなかった。その後、主治医が英文珍断書を持参しブカレストで治療をつづけるとの条件で筆者の帰任を許可し、国際部(つまり、宮本氏)も認めたので、10月6日、ブカレストヘ戻る。その際、宮本氏がルーマニアを訪問したおり、ボティー・ガードを務めた柔道をたしなむ治安警察軍少佐への宮本氏からのお礼の品物(柔道着)を託された。
もちろん、以上の事実は、当時の一部関係者を除き、一般の党員も読者も知らない。事実を知らせず、一方的にゆがめるこうした手口が、宮本氏のよく口にする「フェアな」やり方といえるだろうが。「反論」全文をのせた「赤旗評論特集版」にも、いくつか低劣な人身攻撃がみられるが、手口は同工異曲。ばかばがしくて反駁する気にもならない。
使えなかった「目、耳、足、筆」
[以下は「反論」の引用]
「元特派員」の肩書き使って巌名がもっとも売り込もうとしているのは、見出しにもある「私のルーマニア警告は無視された」一件なるものです。彼は、いかにも、当時の自分だけが今日の事態を予知していたかのような大ウソを、平気で書いています。
赤旗編集局には、巌名が当時連絡としてブカレストから送ってきた「パリ発AFP(フランス通信)」記事の和訳があります。
これに添えられた本人の連絡文には、「この数日間に、ルーマニアにわける人権問題にふれたAFPの報道3通の全文翻訳(見出しもAFPによる)を手便に託して送ります。もちろん、内容の真偽、確度については確認の方法がありません」とあります。彼自身なんの確証もないこの種の、未確認情報の記事の転送を、いまになって「警告」だった、故意に無視されたと、勝手に作り上げているだけです。
彼が「つよく批判された」のは、どこでも入手できるパリ発の外国通信の翻訳をわざわざ送ってくるよりも、自分の目、耳、足で仕事すべきだという、特派員としての仕事の仕力だったのです。
[以上で「反論」の引用は一端終了]
「反論」は、筆者が警告の意味でルーマニアの人権問題についてのAFP電を訳し手便に託したことについて、「目、耳、足」で仕事しないやり方を批判したのだと中傷している。
開き直りもいいところである。その国の指導者が「わが国に人権問題など存在しない」と公言しているなかで、ブカレストを始め、当時、社会主義国に派遣されていた「赤旗」特派員が、生活費、通信費などの財政問題をふくめ、「目、耳、足」を使って自主的に取材できる状態にあったかどうか、筆者の口から説明するまでもなく、宮本氏のほうがよく知っているはずではないか。
このAFP電は、あるルーマニアの教師がアムネスティ・インタナショナル(以下、アムネスティと略す)に人権侵害を訴えたため「国家機密」漏洩罪で逮捕されたことなどを扱った記事である。電話やテレックス、郵便などで送るのは「危険」なため、信頼のおける族行者に託したものである。
後述するように、当時、社会主義国にいる各「赤旗」特派員は、宮本氏の指示のもとに、「社会主義の優位性について攻勢的な宣伝を書け」と命じられていた。筆者が「どこでも入手できるパリ発の外国通信」をわざわざブカレストから送ったのは、こうした方針に対する無言の抵抗であり、警告であった。
「内容の真偽、確度については確認の方法がありません」(傍点は今回付した[「確認の方法がありません」の部分に傍点])と書き送ったのも、褒めること以外に「目、耳、足」どころか「筆」も使えない「赤旗」特派員の境遇を皮肉ったものである。それとも、宮本氏は、今になって、当時、筆者が人権問題などルーマニアのひどい現実を自主的に取材することを期待していたとでもいいだすのだろうか。
王様は裸だった?
「反論」は、筆者が「自分が先見性をもった大記者であったかのように」書き、「当時の自分だけが今日の事態を予知していたかのような大ウソを平気で書いて」いると、口汚くののしっている。
筆者は、1972年、ハノイ在任中、同僚の「赤旗」特派員とともに、日本ジャーナリスト会議の奨励賞を受賞したことがあるが、別に自分を「大記者」などとは思っていない。土台、チャウシェスク独裁政権がどんなにひどいものか、こんな反人民的な政権がいつまでもつづくはずがないということは、当時あの国に住んだ人ならだれでも感じていたことで、格別の能力や「先見性」など必要としない。
ブカレスト在任中の日記の1978年1月23日付に、筆者は、「英雄の中の英雄」「天才政治家」などの賛辞であふれたチャウシェスク生誕60周年記念記録映画をみせられた感想として、「個人崇拝、極まれり」と記している。当時のルーマニア共産党機関紙「スクンテイア」は、全ペ-ジにチャウシェスクの写真を大きく掲げ、こうした賛辞を連ねていた。
重要なことは、こうした「スクンテイア」紙は東京にも送られており、日本共産党は、異常なチャウシェスク個人崇拝を容易に知りうる立場にあったことである。
それだけではない。その半年後の宮本氏の2回目のルーマニア訪問に副団長格で同行した上田耕一郎副委員長は、他の代表団員も何人か同席した代表団宿舎での雑談で、「この国はひでえんだな。女房をナンバーツーにしてんだろ」と筆者に語っている(事実、この頃、チャウシェスクは妻のエレナ、息子のニクを始め、一族縁者30数人を党と国家の要職につけ、同族支配体制を固めており、党幹部の人事は妻のエレナがにぎっていた)。
それ以前の1977年8月、村上弘氏(当時、副委員長)がルーマニアを訪問した際にも、学生らブカレスト在住の党員数人とともに現地の実情を話し、村上氏は「よく分かりました。やはり、こういう話は代表団の公式会談だけでは分かりませんね」と納得してくれている。
筆者が疑問に思うのは、代表団宿舎で雑談に加わっていたあの幹部諸氏や村上氏は、なぜ今日に至るまで宮本氏に率直に自分の意見をいえなかったのかということである。なぜ、王様を裸にしておいたのかということである。
筆者は、ベトナム、ルーマニア駐在の体験から、つねづね、「人間の顔をした社会主義」実現のためには、上意下達の軍隊的、官僚的な党ではなく、人間的で、民主的な党でなければならないと考えている。政治路線の転換と民主集中制の廃止ないしは大幅手直しが並行的におこなわれたソ連・東欧の現実も、このことを証明している。
宮本氏は、今年の新春インタビューで、「民主集中制ということは・…集中民主制でもあります。みんなの意見を最大限にくみあげ、それをまとめて……同じ方向をかがげることは政党政治として当然」と大見えを切っている。だが、側近の指導的幹部でさえ宮本氏に率直にものがいえなかったどすれば、今の共産党に「民主」はなく「集中」(つまり、軍隊的・官僚的な上意下達)しかないということになりはしないか。
注:この部分にパンフレットの表紙の写真があり、説明は「ルーマニア……1980年代における人権侵害」[本Web週刊誌でも、その存在を紹介したもの]となっている。
アムネスティを侮辱
[以下は「反論」の引用]
巌名は、なんとかして自分の言い分を根拠づけるために「アムネスティ・インタナショナルの年次報告で、1970年代のルーマニアが世界でも有数の人権抑圧国としてとりあげられ、チャウシェスク独裁体制の人権じゅうりんは世界周知の事実だった」から、1971年、1978年に、宮本議長がルーマニアを訪問したのはチャウシェスク独裁体制を支援するものとなったのであり、その党と関係をもつことは、誤りであったといっています。
そのアムネスティが最も重視して報告書を発行しているは拷問についでですが、1973年12月のパリでの国際会議に提出された報告は、ルーマニアについて「1964年以前には、肉体的、精神的な拷問がおこなわれ、拷問の結果多くの人々が死んだことが明らかにされた。しかしその後、アムネスティ・インタナショナルはルーマニアから拷問に関するこれ以上の申し立ては受けとっていない」(「アムネスティ・インタナショナル拷問報告書」1974年発行)とあります。チャウシェスクが書記長になったのは1965年です。年次報告には、1980年代に入ってルーマニアの記述がありますが、これは、訴えがあれば掲載されるというもので、ほとんどの社会主義国、発展途上国、さらにアメリカ、フランス、イギリス、日本をふくむかなりの数の資本主義国カらの個々の訴えがとりあげられているものです。ここでルーマニアがとりあげられたことをもって、即人権侵害の国と断定することができないことは明白です。
どうみても、巌名が金科玉条とするアムネスティの資料にもとづいても、1970年代以来、「チャウシェスク独裁体制の人権じゆうりんは、世界周知の事実」ということにはならないのです。彼自身が、1979年、特派員特代に、確認すらできないと外電の翻訳で送っていたルーマニアでの「人権問題」を、日本共産党が1971年、1978年当時非難しなかったからけしからん式の断定は、まさに特間を超越した空論といわねばなりません。
[以上で「反論」の引用は一端終了]
周知のように、アムネスティは、不偏不党、思想・信条にとらわれないことを柱に、世界的に人権擁護のため活動している組織である。ソ連・東欧のかつての異論者たちの心の支えとなり、間接的に、今日のソ連・東欧の民主化に貢献をしてきた。
ところが、「反論」は、いきりたつあまり筆をすべらし、以下の3点でアムネスティの活動を歪曲、侮辱している。
「反論」は、アムネスティ年次報告が、「1980年代に入って」初めて、ルーマニアをとりあげたかのように書いている。だが、現に、筆者の手元には1974年から1989年までの英文年次報告のルーマニア部分のコピーがある。すべて、2-3ページを割き、人権侵害を詳細に報告している。このような公刊物の存在を共産党は知らないのであろうか。それとも、知りながら、故意に党員・読者をだましているのだろうか。
「反論」は、アメリカ、フランス、イギリス、日本さえ載っているのだから、ルーマニアを人権侵害国とは断定できないといっている。ところが、日本、アメリカについては死刑が廃止されていないこと、フランスについては宗教上の理由からの「良心的兵役拒杏」が認められていないこと、イギリスについては北アイルランド紛争で治安部隊による武器使用がおこなわれたことなどが報告されているだけである。あのルーマニアと同列に扱うことは到底許されない。
アムネスティは1983年、「ルーマニア……1980年代における人権侵害」と題する、全文27ページの英文パンフレットを発行している。このようなパンフレットがわざわざ発行されたのは、過去にさかのぼっても、アルバニア、ケニア、バングラデシュなど数ヵ国に過ぎない。パンフレットの裏表紙には「ルーマニア当局は、国際的に承認された人権、とりわけ、表現の自由、外国移住の自由、公正な裁判を受ける自由、拷問、その他、犯罪的で非人間的ないしは尊厳を傷つける取り扱いを受けない自由を、一貫して侵害してきた」とのべ、明確に入権侵害国として告発している。
宮本氏は、これでもなおかつ、ルーマニアを人権侵害国と「断定することができない」というのか。いまなお、“盟友”チャウシェスクの名誉を擁護してやるつもりなのだろうか。
いつから「暴君」になったのか?
[以下は「反論」の引用]
時間をとびこえた「辻つま合わせ」
宮本議長は、1971年、1978年に他の国とともにルーマニアを訪問し、共同文書を発表しました。また、1987年には、両党首脳が直接の会談をすることなく、共同宣言をまとめました。これらは、世界政治と世界の共産主義運動にとって、当時も今日も重要な意義をもつものです。巌名は、こうしたルーマニア共産党との関係が、「チャウシェスク独裁を美化」しているというのです。それを「証明」しようと、巌名は、1971年の訪問のさいの共同コミュニケから引用し、また、宮本議長がインタビユーでのべた感想をもちだしています。
1971年というのは、1968年のチェコ事件にあたってルーマニアの党が、チェコ侵略と干渉に反対してから3年後です。国内には、自主独立の路線を支持する状況がみられました。しかも宮本議長ののべたことのなかに、チャウシェスク個人の名は一切ないにもかかわらず、巌名は、1971年のこの発言をもって、「個人崇拝・個人独裁体制にたいする支持、美化以外のなにものでもない」と断定するこじつけをおこなっています。
巌名は、宮木議長の1978年のルーマニア訪問のさいにも、チャウシェスク政権の国内体制を支持したとして、このときの共同宣言を引用しています・チャウシェスク政構が1989年12月に崩壊したがらといって、1965年に同政権が成立して以後、一貫して反人民的な政権であったと断定し、チャウシェスク政権下の国内問題はいっさい否定的に扱うべきだなどどするのは、事実にそってことを論じる者のやることではありません。
日本共産党は、チャウシェスク政権が咋年6月の天安門事件のさいの武力弾庄を支持したことを重視し、金子書記局長らを派遣して誤りを率直に指摘しました。さらには、8月のポーランドでの「連帯」主導の政府の成立を阻止するために、ワルシャワ条約機構の介入をよびかけたことを重大視し、批判的見地を「赤旗」で明らかにしててきした。ルーマニアがこうした動機からよびかげた「社会主義の防衛」のための諸党の国際会議の提案にたいしては、宮本議長が書簡に送って、きっぱりとした反対の立場を表明しました。
こうした事実にもとづき、宮本議長は新春インタビューで、「わが党は、過去はどうであろうと、き然とした正論にたって、すぐそれを公然と批判しました」とのべました。巌名は、「19年間もチャウシェスク独裁体制と友好関係を続けてきた」などと、チャウシェスク政権の全期間を独裁と決めつけたうえで、日本共産党の「責任」を追及したつもりでいます。
[以上で「反論」の引用は一端終了]
チャウシェスクは、党書記長に選ばれる前の年の1964年、ブカレストの党アカデミーでの講演で、ソ連共産党との関係悪化はスターリンの遺産との断絶を意味しないと説明し、「学生諸君が、マルクス・レーニン主義の基本文献として、スターリンの『レー二ン主義の諸問題』の学習をつづけるよう、率直に提唱し呼びかける」と強調している。チャウシェスクは、根っからのスターリン主義者だった。このような人物が党と国家の権力を独占したらどうなるか。結果は、ルーマニアの悲劇が雄弁に物語っている。
「反論」は、ごちゃごちゃ書き並べながら、「チャウシェスク政権が1989年12月に崩壊したからといって、…チャウシェスク政権下の国内問題はいっさい否定的に扱うべきだなどとする」のは、「時間をとびこえた『辻つま合わせ』」だと非難している。
ところで、つい最近、「赤旗」1990年3月4日付で興味深い記事を読んだ。昨年12月にチャウシェスク夫妻を裁いた裁判長が「神経衰弱」で自殺したという、ブカレスト特派員電による報道である。興味深かったのはその見出しである。なんと、「暴君裁いた裁判長が自殺」となっているではないか!
そこで、逆に質間したい。天安門事件以後「変質した」というのは以前から「赤旗」でも読んだことがあるが、宮本氏は、一体、チャウシェスクがいつから暴君になり、いつまでは暴君でなかったと考えているのか。天安門事件以前なのか以後なのか、ルーマニア国民に対する責任上からも、はっきりしてもらいたいものである。
ルーマニア国民を愚弄
[以下は「反論」の引用]
巌名は最初に、日本共産党のルーマニアとの共同文書の発表について、「宮本氏の強いイニシアチブと責任で行われたものである」のに、ルーマニア問題での「当事者の一人」というのは、「一種の意図的な責任のがれ、すり替えではないか」といっています。日本共産党は、集団指導の党であり、党の最高貴任者でも「当事者の一人」というのが当然です。巌名は、1987年の共同宣言を攻撃していますが、日本共産党が事実上イニシアチブをとったこの文書の意義を、宮本議長は、「世界情勢と世界の共産主義運動の現状を憂慮してまとめられたこの共同宣言は、わが党のイニシアティブが中心になったもので、その内容は、今日でも、その主題・論点いずれも、歴史的意義をもちうるものである」と堂々とのべています。
反共に転落した者の姿
巌名は、最後に「問題は、あくまで白を黒といいくるめ『宮本顕治無謬』論、『日本共産党無謬』論を押しとおそうとするところにある」と断じて、日本共産党は、「衰退の道をたどるしかないだけのことである」どのべています。いうまでもなく、日本共産党は科学的社会主義の党であり、「無謬」論に立つものでもなく、歴史を書き替えるようなことはありません。巌名の今回の売文が示しているのは、転落者が反共キャンペーンに加担するにいたったあわれな姿だけです。
[以上で「反論」の引用は一端終了]
筆者の手記と「赤旗」の「反論」を読んで、ある法律研究者は次のように語った。
「山口組が警察と喧嘩していた。共産党は山口組がやくざ組織だとは知らずに、山口組と手を結んで警察に反対する共同声明を出した。後になって、山口組がやくざ組織だとわかったが、共産党は、不当な警察に反対する正しい内容の共同声明だから当時も今も重要な意義をもっている、といいはっている」
という感想である。
「反論」は、宮本氏がチャウシェスクとのあいだで結んだ共同声明・宣言は、105ページ[『現代』誌の頁を指す]の要約に示されているように、「当時も今日も重要な意義をもつものです」と強弁している。ほんとにそれでいいのが。党員・読者、ルーマニア国民を愚弄するのもいい加減にしてもらいたい。この論法でいけば、ヒトラーとの共同声明さえ、状況が必要とし、内容さえよければ、今日でも意義があるということになってしまう。
共産党は、なぜ宮本氏の名誉の擁護にかくも異常な努力を払うのか。共産党の宮本氏なのか、それとも宮本氏の共産党なのか。
筆者は、なにも宮本氏の全生涯を否定するつもりはない。過去の一定の功績を認めるにもやぶさかではない。ただ、ルーマニア問題での「宮本顕治無謬」論だけは、絶対に許せない。間接的にしろ、ルーマニアでのチャウシェスク独裁を支え、結果として、ルーマニア国民の「魂を鉄鎖でつなぐ」(チャウシェスク軍事法廷全記録)ことに一役買い、ルーマニア国民に血の犠牲を強いたからである。
「この子が大きくなる頃には、ルーマニアもいい国になってるだろうか」とブカレストで筆者に問うた、生後数ヵ月の息子をもつあるルーマこア人の父親の切ないことばが、今も耳の底に鳴りひびいているがらである。
宮本氏の「最高指示」
現在ブカレストにいる「赤旗」特派員志賀重仁氏は、筆者が在任中、留学生として送られてきた青年だが、筆者は、ある日、かれをブカレスト市内のヘラストラウ湖公園に連れていき、盗聴のおそれのない青空の下で、「こんな国をつくるのだったら、人間一生を賭けるに値しない。わたしがルーマニア人に生まれていたら、今ごろは、おそらく監獄に入っているだろう。少なくとも、共産党の幹部にはなっていないよ」と語ったことがある。
ところで、1976年9月、筆者が特派員としてブカレストに赴任する数日前、当時副委員長で国際委員会責任者だった故西沢富夫氏の部屋に呼ばれた。西沢氏からは、赴任の心得として、「君も長いことベトナムにいってたから分かっているだろうが、今の社会主義にはいろいろ問題がある。だがら、けっして美化しないように、リアルにみて欲しい」といわれた。筆者も、これには大賛成だった。
ところが、1978年、宮本氏がルーマニアを訪問し、「手記」でも書いたような美化がおこなわれてから、方針が大きく変わった。とくに1980年衆参同時選挙後、「反共陣営が反社会主義宣伝をやり、社会主義のイメージ・ダウンを図ったため、選挙で後退した。今後は、社会主義の優位性について攻勢的な宣伝をやる。各特派員は、至急、任地の社会主義の優位性について企画を送れ。これは『最高指示』である」との指令が外信部から出された。
「最高指示」とは、いうまでもなく宮本氏の指示である。筆者は、このとき、帰国したら「赤旗」を辞めようと心に決めた。こんな国を美化させるようではどうしようもないと痛感したからだ(このことは、帰国前に、複数の党員にはっきり伝えてある。いつか、その党員たちの氏名やそのときの会話も明かせるときがくると思っている)。
筆者は、1982年、まだ共産党員だった頃、イギリスの政治学者マイケル・ウォーラー著『民主主義的中央集権制……歴史的評釈』(青木書店)を翻訳紹介したが、その「あとがき」の末尾に、「既存の社会主義国で自由を拘束されている異論者[ルビ:ディシデント]たちに心からの連帯を表明しつつ」と書いた。筆者の願いは、7年後に東欧・ソ連の激動となって実を結んだ。
昨年10月、改革に抵抗するホーネッカー時代に東独を訪問したゴルバチョフは、「遅れて来る者は、命であがなうことになる」と批判した。今回の宮本顕治氏に対する筆者の批判が実を結ぶにはおそらくそんなに長い年月は要しないと確信しているが、後は、すベてを第三者の積極的な討論参加と歴史の審判にゆだねることとして、この筆を置きたい。
以上で(その15)終り。次回に続く。
(その16)「渾名はクレムリン」による告発も拙劣な偽善へ
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