連載:元共産党「二重秘密党員」の遺言(その3)

「ギヨチニズム」の根源に「理論」崇拝の矛盾

1999.1.15 WEB雑誌憎まれ愚痴連載

 日本共産党における「個人崇拝」の事実に関しては、最早、多言を要しない。

 野次馬ジャーナリズムの格好のネタだった「ミヤケン」は、ついに引退を表明したが、私自身がまだ党籍があったころにも、党員の間で「まだかまだか」と一日も早い引退を期待する公然の、しかし、党内の儀式上ではあくまでも非公式の発言は、むしろ、あたり構わずの状態だった。

 表面上の理屈から言うと「太古の皆が平等だった原始共同体(コミュニティ)」(これ自体が最近の研究の発展によれば幻想だったが、それは別途紹介とする)の今日的再現を目指す政党なのに、しかも、一応は個人崇拝を戒める規約等があるのに、なぜそれが改まらないのか。

 これは不思議な現象のようで、実は、まったく不思議ではない。

 人類の集団を形成するのは人類そのもの以外の何者でもあり得ないからである。

 私の表現によれば、裸の猿は、一番自己中心の強い遺伝子を保有する権力志向の固まりである。思想的に右だろうと左だろうと、集団ができれば、ただちに、お山の大将型と茶坊主型の強固な連携が、ラグビーのルーズ・スクラムそこ退けのスピードで形成される。これはもう、お互いが生まれ持つ本能と条件反射による瞬時の共同作業であって、この椅子取りゲームに落ちこぼれるのは、ごく少数の臍曲りだけでしかない。

 日本共産党の規約で定めた「対等平等」の類いは、人類社会の長い歴史の中で見れば、何も特別に新奇な珍しいものではない。似たような「御札」の類いは、何千年も前から何度も作られている。しかし、すぐに反古と化すのである。神棚に奉って拝むだけで、実質的には同じような上下関係の支配が続くのである。同類、同根のソ連共産党の歴史を見れば、最早、議論の余地はない。

 その上に、これは私が勝手に「還暦記念の新発見」と自称しているマインド・コントロールの条件付けなのだが、とりあえず特に日本共産党に限って指摘できる問題がある。

 これを私が発見したのは、 2年ほど前の午後11時頃、日課の就寝前の散歩の途上のことだった。よくあることだが、前々から考えていた問題の答えが、突然、しかも、その時にしていることとは何の関連もなしに、突然、ひらめくことがある。実は、本人が表面的に意識していないだけであって、脳味噌の中では継続して思考が働いているのである。

「そうか。何だ。理論政党だからだったのか」というのが、その「ひらめき」だった。この「理論」には、あえてカッコを付けない。からかうつもりではないからだ。それどころか、実に深刻な問題をはらんでいるのだ。

 いったん脳裏にひらめいてみれば、実は、これも原理的には単純なことであって、理論政党を自称する以上、何よりも、かによりも、理論的に「正しい」ことが第一の条件となる。自民党などの保守政党のように、「なあなあ」で話を付けることはできなくなる。

 日本共産党では、指導者は、当然、一番「理論的」で「正しい」のである。逆に言えば、一番「理論的」で「正しい」からこそ、指導者に選ばれているのでなければ、ならないのである。

 さらには、だからこそ、その一番「理論的」で「正しい」、しかも専従で飯を食う経験豊かな指導者が何十人もいて、専門的に考え抜き、書記局とか中央委員会とかで「集団討議」して作成した方針に対して、たったの一人で日常の飯のためのしがない仕事の合間に思い付いただけの反対意見を提出するなどという行為は、規約上の権利が明記されているにもかかわらず、「正しくない」のである。

 この一番「理論的」で「正しい」指導者という神話が崩壊するのは、前述の「お山の大将型と茶坊主型の強固な連携」による組織にとっては、最大の危機である。一番「理論的」で「正しい」のだから、何としても誤りを認めることはできない。だから、「ミヤケン」がルーマニアの独裁者、チャウシェスクの「評価を誤った」か否かという事件の際には、ついに誤りを認めることなしに最後まで押し切り、その後の選挙での後退については、「東欧の嵐」の影響などという他人事の評価で済ましてしまい、自分たちの責任ではないと澄ましていたのである。

 チャウシェスク問題に関しては、私自身が二度も中央委員会に呼び付けられるという経験をしているから、別途、詳しく述べる。

 私は、そういう党の体質を十分承知の上で、何度も意見を提出した。いかなる上級機関に対しても直接意見を提出して回答を求めることができるという、明確な規約に基づく権利を行使して、チャウシェスク問題に関する意見を提出したのであるが、代々木の党本部の一室で、確か「国際部長」の肩書きだったと記憶するが、典型的な組織官僚に、ねちねちと陰湿な脅しを受け、さらに、そのやり方に対して、抗議の意見書を提出した。

 このチャウシェスク問題での衝突は、一応規約に違反しない行為だったから、それで処分を受けるということはなかったが、実質的には以後に影響した。これもまた後に詳しく述べるが、私が「除籍」になった時、中央委員会の実情に詳しい先輩党員の一人が、その経過を聞くや否や、ハッハッハと笑って、「別件逮捕だね」と言い放ったのである。

 自分たちは「正しい」のだから、反対派は「民衆の敵」なのであって、ギヨチンで首を切り落とすのが当然だというのが、私の命名では「ギヨチニスト」である。

 今の日本共産党の場合には、除名、除籍であり、「反党分子」「トロッキスト」などなどによる「追い討ち」である。こういう「戦国時代」のような風習は、即刻改めるべきである。

 ただし、私の場合には、今までのところではあるが、「追い討ち」を掛けられてはいない。フリーの貧乏ものかきのことだから、「追い討ち」の掛けようもないだろうが、私には、日本テレビ相手に16年半の不当解雇撤回闘争をした経験もあるから、場合によっては「不当除籍・名誉毀損」で裁判を起こす覚悟もある。それぐらいの覚悟がなければ、真実を語り、論ずることはできないと思っている。

 なお、今回は「理論」という表現を用いて論じたが、私は決して、「理論的水準が低い」とペダンチックに侮蔑したり、だから駄目だと主張しているのではない。「羊頭狗肉」とか「ブラッフ」とかを戒めているのである。

 私は嘘を憎む。嘘付きを軽蔑する。などと力むと唯物論者らしくないから、「正直は最良の政策」というアングロ・サクソン流にしておいてもいい。

以上で(その3)終り。次回に続く。


(その4)「科学的社会主義」vs「元祖
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