木村愛二の生活と意見 2000年5月 から分離

40年目の真実:1960年安保の「右」「左」がロフト総結集の激論!

2000.5.22(月)(2019.6.7分離)

ああ、段々と近付いてくる「恐るべき主役」の日

 いや、日は日でも実は夜で、2000.6.15.19:00~。すでに『憎まれ愚痴』の連載「日本共産党“二重秘密党員”の遺言」に概略の予定を記したことだが、きたる6月15日、新宿情報発信基地こと、歌舞伎町の討論酒場、ロフトプラスワンにて、19:00ごろから23:00ごろまで、1960年安保闘争40周年記念の場が設定された。

 当日の「激白」の主役は、年長者から先に記すと、73歳の石井一昌、元護国団総本部団長に、10歳年下の63歳の私である。論客も、およその年齢順に記すと、高畠通敏(政治学者、当時は「声なき声の会」主宰)、宮崎学(ご存じ「キツネ目」の突破者、全共闘時代の早稲田大学民青行動隊長)、荒岱介(元「第二次」ブンド書記長)、篠田博之(『創』編集長)、木村三浩(一水会書記長)らの出席確認を得た。その他の関係者も続々登場の予定であるが、東大の学生時代に知り合った旧友、ということは私とだけではなくて、1960.6.15.に国会構内で死んだ樺美智子とも同期生、その後にはボクシング・チャンピオン、モハメッド・アリの呼び屋などとして名を馳せた日中混血児の康芳夫も、参加を約束してくれた。

ここでもやはり歴史的事実の確認は難しいのだ!

 この2000.6.15.プログラムを思い付いた仕掛け人は、『マルコポーロ』廃刊事件の主役、ロフトプラスワンでも何度も舞台に上がったことのある裏社会の著名人、西岡昌紀である。彼の職業を精神病医と間違える人が多いので明記して置くが、この神経内科医のマニアックなまでの博識に振り回されて、このところ、わが人生は何度も危険な紆余曲折を経ている。彼の博識から発する仕掛けの中心には、通説と歴史的事実の食い違いがある。

 ここでも彼は、私と石井一昌を組み合わせることによって、なにがしかの歴史見直しが起こり得ると期待したに違いない。そして、それが直ちに起きてしまったのである。

 私は、当時、全学連の部隊の何故かいつも先頭の東大、そして何故かそのまた先頭の文学部の隊列の先頭にいた。すでに時効だから、隠さず告白するが、私は、顔見知りの委員から、こっそりと鉈を渡され、国会の南通用門の檜の柱を切り倒した。これは自分がやったことだから、間違いはない。

 石井は当時、護国団の実権を握る護国青年隊の総隊長で、指揮下の部隊が1960.6.15.当日、国会前で全学連らの集団と衝突した。私は、右翼が釘を打ち付けた角材を振るって新劇人会議のデモ隊を襲い、女優などの怪我人が出たと聞き、それを信じていた。

 ところが、今回、ロフトプラスワンの部隊の背後の大画面に写すヴィデオ映像の素材として、今年の正月に贈呈を受けた石井の著書、『暗殺集団/ヤクザ右翼よ、去れ!』(恒友出版、1998)の中の写真を何枚かコピー機で拡大する際、ごくごく一部を斜め読みしたいたら、オヤッ、となった。

 石井の言によると、事態の順序は、まったく逆になる。しかも、この説明の方が、理に適っているのである。以下、要約する。

 石井らは、「6月16日に一大デモを敢行する」ための「下見をかねた、総勢80人ほどの小規模デモ」を行った。

「警察にもデモ届けをすませ」た「右翼のデモ隊」が、「全学連を中心とする左翼団体で溢れていた」国会周辺で、「道路の一番端をゆっくりと行進して」いたら、「全学連の間から『右翼は返れ!』の激しいシュプレヒコールが巻き起こった」。「全学連のデモ隊たちは、道路の敷石を剥し、それを適当な大きさに砕いて、私たちに投げつけはじめた」。「仲間がたった一人、前方10メートルほどのところで、全学連に取り囲まれ、ポカポカ殴られている」。「仲間を救出するために、クルマを飛び下りた私は、仲間に声をかけながら、竹ザオと石で武装した全学連の密集に向かって突進していった」。

 かくて、無残な乱闘の末、石井は逮捕され、「若手を庇うために、ほとんど自己を弁護することなく刑に服することになった。[中略]ほぼ10年間を、府中刑務所のなかですごした」。

「『右翼デモ隊が持っていたプラカードには、五寸クギが打ち込んであった』などという、いかにも右翼がテロを準備していたかのように思わせる報道もなされたが、これは、乱闘で壊れたプラカード棒にあった、表示板を打ちつけた跡のクギの残骸を見間違えたものと思われる」。

 つまり、新劇人会議の群れに右翼が襲い掛かったのは事実だとしても、前後関係の説明が逆転した可能性が残っているのである。

6.15が命日の樺美智子の死因も通説と違うのだ!

 さあ大変だ。歴史見直しが不可欠なのは「ホロコーストの嘘」問題だけではない。

 6.15が命日の樺美智子の死因についても、過日であるが、切抜きを探しだしてみると、最早、1年以上前の『日本経済新聞』(1999.1.11)連載小説「風の生涯」27回では、「デモの揉み合いの最中のことで、警官の発砲によるものではないことも確認できた」となっていた。作者は「辻井喬」こと東大在学中には日本共産党員だった堤清司である。

 当時、国史科の彼女と同じ文学部に属する英文科の学生だった私は、死体が収容された警察病院のロビーに学友とともに赴き、そこで、駆け付けた父親、樺俊雄の怒りの声を聞いて動転した。父親は、こう叫んだのだ。

「娘は、どこにいる! デモ隊に殺された娘は、どこにいる!」

 どうやら警察が、父親に、「デモ隊に踏み殺された」と伝えたらしい。当時は中央大学の教授だった父親は、その後、娘の日記を読むなどして、次第に真相に近付く。彼女の遺稿集『友へ』の冒頭には、国会構内から、やはり血だらけの学友の手で運び出される彼女の姿をとらえた濱谷浩の写真が、掲載されている。私も、国会構内の同じ場所に入っていて、号令を掛けられた警官が一斉に樫の木で作った警棒を振りかざして襲いかかる有様を目撃しているし、彼女が最前列にいた事も知っている。その場の惨状については、直後に同人雑誌の短編小説に記した。

 だから、この死因の件でも、歴史的事実の確認と、通説または俗説の訂正の義務を負う気分になってしまうのである。果たして真相は。ああ、…………通夜の客が物語る意外な真相。3回忌。40回忌。または、今年は40周年、10年後には50周年、100周年まで生き残ることができるであろうか。