『本多勝一"噂の真相"』 同時進行版(その10)

本多勝一流「自己文章改竄癖」軽視のわが反省録

1999.3.5

 前回の前置きを繰り返すが、岩瀬達哉が本多勝一らを訴えた名誉毀損事件に関しては、すでに、本多勝一側の弁護士が、いわゆる市民派で、しかも、すべて私とは旧知の仲だったことを記した。その内の唯一の女性、小笠原彩子は、私が日本テレビ放送網株式会社を相手取って不当解雇撤回闘争をしていた時の弁護団の一員でもあった。

 前回は、小笠原彩子からの、まるでプライヴェートではない手紙を紹介した。そこには、拙著『湾岸報道に偽りあり』を、本多勝一に推薦したとあった。それを見た時に、そう言えば確か、本多勝一が文藝春秋相手に裁判をしていたな、などと微かな記憶が蘇り、その弁護団に小笠原彩子が加わっているのかな、とも思ったのだが、特に興味はなかったので、別に詮索はしなかった。小笠原彩子からは、もう一度、やはり、まるでプライヴェートではない手紙を貰った。それには、当時準備中だった『週刊金曜日』の定期購読者になって予約金を振り込んでくれという推薦の辞がしたためられてあり、定期購読者募集の申込書付きチラシが添えてあった。しかし、この手紙の方は、捨てたはずはないのだが、どこへしまったものか、心当たりの場所を探しても出てこない。

 その手紙と同時期に、本多勝一から著書の献呈を受けた。こちらは残っており、対『週刊金曜日』裁判の書証として提出した。私は、同裁判の本人陳述書の「被告・本多勝一からの著書献呈と『週刊金曜日』創刊以前の寄稿依頼」の項目に、つぎのように記した。

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「私は、1993年[平5]5月ごろに被告・本多勝一から、同人の著書、『貧困なる精神Z集』(毎日新聞社、1993年[平5]5月10日発行、甲第10号証の1)の献呈を受けました。この献呈本には、「引用箇所」を示す付箋が貼られており、その箇所には、私の著書に関しての、つぎのような評価が記されていました。

「たとえば最近刊行された木村愛二氏の『湾岸報道に偽りあり』(汐文社)(前略)などは、『中東の石油支配を狙うブッシュのワナにはめられたイラク』という構図が実にわかりやすく分析されている」(甲第10号証の1,67頁5-7行)

 この部分を含む旧稿の出典に関しては、「(『サンデー毎日』1992年8月16/23日合併号)」(同右69頁2行)と記されていました。私は、その『サンデー毎日』記事を見ていませんでしたし、右『湾岸報道に偽りあり』(甲第1号証)出版後も湾岸戦争関係資料の収集に努力していたので、内容としては重複になると思いつつも、日課のような図書館通いのついでに武蔵野市立中央図書館で右『サンデー毎日』の取り寄せを依頼し、入手するとすぐに該当記事を複写しました。

 ところが、右記事(甲第10号証の2)には、拙著『湾岸報道に偽りあり』(甲第1号証)についての記述がまったくないのです。

 はてなと思って、『貧困なる精神Z集』(甲第10号証の1)の方を見直すと、やはり、そのどこにも出典記事への増補の事実が記されていません。これでは読者が、最初の『サンデー毎日』記事のままだと誤解します。

 出典を明記しないのは新聞界の悪習であり、誤報、虚報、冤罪推進・拡大の根本的原因をなしています。それでも、個人名で出版する単行本の場合には、現または元新聞記者の多くが出典を明記しています。出典明記はするものの文章は断りなしに改竄するという被告・本多勝一の仕事振りは私の主義に反することなのですが、今にして思えば、被告・本多勝一の杜撰さに一応は気付きながら「一事が万事」という警句を忘れ、その後の仕事上の付き合いを拒否しなかったのは、まさに「千載の悔いを残す」というほかありません。

 その後に私は、被告・本多勝一からの直接の電話で、その当時創刊準備中であった『週刊金曜日』への寄稿を依頼されました。

 私の寄稿は、同誌の1994年[平6]1月14日号に、「湾岸戦争から3年/だれが水鳥を殺したか/湾岸戦争報道操作は続いている」という題名の5頁の記事(甲第9号証の2)として掲載されました。本件の場合と比較するために、ここで、その際の原稿料に関する事実経過を述べておきますが、記事掲載後に同誌からの電話の問い合わせに答えて私が告げた銀行の個人口座に振り込まれる以前には、一切、金額や支払い条件の提示はなかったのです。だがこれは、電話一本の寄稿依頼と同様に、現在の日本の出版界の通常の慣行ですから、その際には、私はあえて問題とはしませんでした。

 私は、その間及び以後に、被告・本多勝一と、日本ジャーナリスト会議(JCJ)などが主催する集会で何度か顔を合わせる機会があり、その都度、短い友好的な会話を交わしました。被告・本多勝一は、同会議をかつて退会していましたが、1993年[平5]11月5日に予定されていた『週刊金曜日』の創刊を前にして、支援を訴えるために再加入していました。

 私は、同会議に、1991年[平3]から1996年[平8]まで加入していました。

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 実は、上記の記事、「湾岸戦争から3年/だれが水鳥を殺したか/湾岸戦争報道操作は続いている」の『週刊金曜日』(1994.1.14.)掲載に当たっても、今にして思えば、いささか奇妙な事実があったのである。

 上記記事には、つぎのような部分がある。

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 詳しくは拙著『湾岸報道に偽りあり』をご参照いただきたい。歴史学者の弓削達氏は、「イラクがまんまとCIAの『挑発』にのった、という構図がほぼ疑いえない」とし、過分ながら拙著が「このことをみごと追究してほぼ立証」(『21世紀に平和を』)したものと評価している。

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 文中の『21世紀に平和を』は、前回紹介した「全教」の教育研究集会の記録をまとめた単行本だが、『週刊金曜日』の編集実務担当者は、なぜか、紙面の関係と言うだけで特に箇所を指定する理由は言わずに、以上の部分を削ってほしいと申し入れてきたのである。私は実は、この部分で、本多勝一の本の方の評価にもふれようかなと一度は思ったのだが、くどくもなるし、前述のように『サンデー毎日』の記事と単行本との関係があったし、なによりも掲載誌『週刊金曜日』の代表格におもねるようなことはしたくなかったので、それは省いたのだった。だから、この部分を削れないかと言われた瞬間に、あっ、これは本多勝一の指示ではないのかな、と思ったのである。

 しかし、これは本当に事実経過の通りなのだが、その時すでに私は、弓削達宛てに礼状を出していた。評価への感謝と同時に、お陰様で記事掲載に至ったと報告していたのである。これは事実通りだから、編集実務担当者に対して、「こういう事情で、この部分は削れないから、ここ(箇所は忘れた)を、こう短くする」という主旨のファックス通信を送って、それでパスした。

 この記事の掲載直後に、当時は結成したばかりの「アジア記者クラブ」の主宰者で、結構きついことを平気で言う菅原秀が、あるパーティの席上、私の顔を覗き込みながら、ニヤリと笑って、つぎのような主旨のことを言ったのである。

「木村さん、『週刊金曜日』に取り上げられてご機嫌のようだけど、あそこは前宣伝とは大違いで普通の週刊誌に比べれば桁外れに原稿料は安いし、本多勝一は酷い奴ですよ」

 まずは、本当に「原稿料は安い」のだった。

 以上で(その10)終り。次回に続く。


(その11)『創』1999.4月号で「疋田・本多vs岩瀬裁判」寸評
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