「美人弁護士」に異議を唱えた「市民派弁護士」
1999.2.26
岩瀬達哉が本多勝一らを訴えた名誉毀損事件に関しては、すでに、本多勝一側の弁護士が、いわゆる市民派ばかりで、しかも、すべて私とは旧知の仲だったことを記した。その内の唯一の女性、小笠原彩子は、私が日本テレビ放送網株式会社を相手取って不当解雇撤回闘争をしていた時の弁護団の一員でもあった。
彼女と、男性の高見沢弁護士が並んで座っているのを見た時に、直ちに思い出したのが「美人弁護士」という言葉に関する酒席での応酬だった。小笠原彩子は、父親も弁護士だったとの噂で、それらしい「上流」の雰囲気がただよう一応の美人型である。彼女は、私の事件の弁護団の一員に加わる以前に、わが「民放労連日本テレビ労組」(これが日本テレビ放送網株式会社の唯一の組合の名称)の労災事件の弁護団に加わっていた。労組員は皆、彼女のことを「美人弁護士」と呼んでいた。つまり、衆目が一致して認める程度の一応の美人である。彼女は、中野区で教育委員が公選になっていた時期、立候補したこともあり、地元で知る人も多い。私に言わせれば、商売とは言え、本多勝一の弁護などをさせて置くには惜しい人材である。
高見沢弁護士とは、地元武蔵野市の元市長選挙落選候補、石崎弁護士の父親の葬式で初めて会った。お清めの席で、私の労働裁判の弁護団の話をしている内に、彼と小笠原彩子とが、いわゆる同期の仲だと分かった。弁護士の同期というのは、普通の若者らしい遊びは一切抜き、必死の暗記ガリ勉の末、司法試験を通って後の2年間の司法修習所での同期生ということである。そこで初めて遅れた青春をする彼等にとっては、この2年間に生まれた友情、恋情に、特殊な味わいがあるようだ。同期生の中には、その後に裁判官や検事になるものもいる。
きっかけは忘れたが、そこで私の口から何時の間にか、言い慣れた「美人弁護士」という言葉が出た。すると彼は、普通以上に力んで、法廷用語で「異議あり!」と叫び、「美人という評価を認める訳にはいきませんがね」と大声で言うのである。かなり酔いが回ってからの話だったので、私も、「いや、一応の美人の部類」とか何とか切り返して、また同じ大声の異議が出て、それが3度程続いた。いやに力むな、これは何か因縁でもあるのかな、という印象だった。
その2人が、目の前に並んで座ったのだから、以上の会話の記憶が蘇るのは当然のことだった。私は、心の中でニヤリと笑ってしまった。
さて、閑話休題。改めて手帳で確認すると、岩瀬達哉が本多勝一らを訴えた名誉毀損事件の次回口頭弁論の期日は、3月17日16時から17時までの予定、場所は、東京地裁721号法廷である。またその時には、法廷で、2人の男女の同期生の弁護士が、私よりは年下なのに今はかなり老けて座っているのを見ることになる。必ずや、また、あの言葉の応酬を思い出すであろう。
それまでにも本誌の発行日は、今週号の2月16日、3月5日、3月12日と、3回ある。そこで、この3回の間に、私の方の名誉毀損事件に至る経過を、別途のホームページ「裁判」のような固い断片的な記述ではなくて、小笠原彩子と本多勝一との、そして小笠原彩子と本多勝一と私の、別に三角関係ということではない意外も意外の世間は狭い類いの関係をも含めて、物語風に語り直してみたい。
さる2月16日に出た私の方の事件の判決については、先週号(2月19日、8号)の時事論評欄に簡略な報告をしたので、まだの方は、そちらを見て頂きたい。
では、では……、時代は今からおよそ26年前、4分の一世紀以上も前のことになる。
私は、その頃、『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』(鷹書房、1974)を執筆していた。これは私の主義で、それ以前から広義の歴史、最近は文化人類学とも呼ばれる民俗学などの文献を、可能な限り収集していたが、その際は特に、参考になりそうな資料には、すべて目を通す努力をした。今、その本の巻末の資料リストを見ると、本多勝一の本が1冊だけ入っている。
巻末の資料リストは、2つの部分に分かれている。「引用した本」が70冊、「とくに参照した本」が58冊で、後者に『ニューギニア高地人』(本多勝一、講談社文庫、1971)が入っている。実際には「とくに参照」してはいなかったという記憶である。
そこで、『週刊金曜日』相手の裁判の「本人陳述」では、つぎのように記した。
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被告・本多勝一が執筆した通称「極限民族3部作」も購入して通読したことがありますが、特に参考になる点がなかったので、狭い住居ゆえに時折古本をまとめて売却する際、手放したままです。私が手放すのは特に所蔵しておく価値を認めない雑本の類いです。
被告・本多勝一の「極限民族3部作」に関して、薄ぼんやりと残っている記憶は、「まるで学問的価値がない思想性欠如の雑文」です。その感想を、被告・本多勝一と個人的に知り合う以前に、某朝日新聞記者も交えたジャーナリスト会議(JCJ)所属の仲間との雑談の場で明言したこともありますので、必要があれば、本法廷における証言を求めることもできます。
それゆえに返す返すも残念至極、我が身の軽率さを深く深く反省しなければならないのは、後述するような物理的事情の下でとはいえ、迂闊にも、そのように「思想性欠如」、つまりは社会人としての信頼性が低いことが明らかだった被告・本多勝一に、本件「ガス室」を焦点とする「ホロコースト見直し論」のごとき重大な政治的案件に関する意見を求めてしまったことなのです。
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そんなことで、私は、本多勝一には、敬意どころか、まったく興味を抱いていなかったのだが、ある日、突然、拙宅に、「斉藤・小笠原法律事務所」の封筒に入った手紙が届いた。斉藤弁護士は、やはり旧知の市民派弁護士で、彼女の再婚の相手である。
手紙の内容は、まるでプライヴェイトなものではないが、私に対する善意に満ちていた。実に有り難い手紙だった。しかし、カール・マルクスは言った。「地獄への道は善意で敷き詰められている」と。この時の彼女の善意こそが、意外も意外の世間は狭い類いの関係で、私と本多勝一との橋渡しとなり、やがては、名誉毀損の提訴にまで至るのである。
「世の中は一寸先が闇」とは、まさに、このことであろう。
私にとって、彼女の手紙は、そのような「岐路を見て哭く」類いの運命的なものだったので、上記のごとく、まるでプライヴェイトなものではないこともあり、ここに全文を収録し、世間に公表する。[ ]内は現時点での私の注記である。
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前略、
「新聞記者は正義の味方か」の集会での発言を「奔流」[毎日新聞労組機関紙]で読んだりして、ご活躍のこと拝見しております。
全教系の組合が1月29日から2月1日まで東京で「教育研究全国集会」を開きました。私も「人権と教育」の共同研究者の1人でしたので参加しました。29日、全体集会、記念講演はフェリス女学院大学学長、弓削達氏でした。同氏は、2時間の講演の中で、2つの本を引用(書名、著者名、出版社)して自説を展開されたのですが、その内の1冊が、湾岸戦争に関する貴方の本でした。「この本によって、あの戦争はアメリカが、用意周到にしかけたものであることが明らかになっている」という趣旨だったと思います。
私も、つれあいから、「この本は面白い」とすすめられて読みはじめ、最後まで読んでしまいました。この本以前に浅井隆著『仕組まれた湾岸戦争』を読んでいたのですが、参考引用文献がいまひとつはっきりせず、どこまで信用していいのか……という思いを抱きましたが、貴方の本は、この点の不安がなく、私も大変興味深く読ませていただいた訳です。弓削先生も手にされ、きっと同じような感想を持たれたのだと思います。多くの人に読まれていることをお知らせしたく、筆をとりました。
(本多勝一氏が、この戦争に関する本のことを問合せてきたので、浅井氏の本と、貴方の本をすすめました。彼も、アラビア石油の友人に右2冊を読んでもらい、感想を聞いたといってました。)
ますますのご活躍と、健康を念じております。とりあえず、お知らせ、かたがた……
1993年2月12日 小笠原彩子
木村愛二 様
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よもや、この善意に満ちた手紙が、1997年春から1999年春の現在に至るまでの2年間もの長きにわたる名誉毀損訴訟への導火線となろうなどとは、まことに信じ難い運命の悪戯なのであった。
以上で(その9)終り。次回に続く。