「言論人」としての本多勝一の評価:2例
1999.4.2
前回までに何度も、本多勝一を「言論人」などと表現する事例を紹介したが、彼が果たして「言論人」と言えるものかどうか、ここらで、本多勝一らの朝日新聞ゴロツキ記者たちから激しいバッシングを受けた先輩の意見をも紹介して置きたい。この2例を掲載した『人民新聞』は、私が、1992年に、湾岸戦争への90億ドル支出を違憲とする市民平和訴訟の全国集会で大阪に行った際、その頃には「カンプチアPKO 反対」の立場で特集していた個人新聞『フリージャーナル』との交換を申し込まれ、以後、無料で郵送されてくる。だが、この種の運動の系図に興味のない私は、どういう運動の機関紙なのか、詮索したことがない。ともかく、時折、面白い記事が載るのである。
興味のある方は、下記にメ-ルで申し込まれたい。
人民新聞社:E-mail: people@x.age.ne.jp
1例:『人民新聞』(1998.4.15)
[数字は漢字をアラビア数字とし「今年」を1998年などにした]「私の発言」欄
再び「カンボジア革命とは何だったのか」を問うべき
本多勝一『噂の真相』(1998年4月号)コラムへの回答
鵜戸口哲尚
ポレミック・ダンディー気取りの本多勝一
本多勝一が、『噂の真相』1998年4月号の連載コラムで、私の小文も収載した本多勝一編『虐殺と報道』(すずさわ書店)の総括めいたことを、事情もしらない読者向けに相変わらずポレミック(論争好き)ダンディー気取りで書いているのが目に入つたので、論争(?)の経緯を報告すると同時に、本多の言論スタイルの内実を明らかにしておく。
もう、17,8年も前のことである。私が畏敬する東南アジア研究者、M・コールドウェルが、ポル・ポト政権下のカンボジアに現地入りし、折りしもベトナムの介入・侵攻が重なり、何者かの手によって暗殺された。
私は、カンボジアの事情の調査と究明に全力を賭していた彼の遺志を少しでも継ぐべく、やはり英人東南アジア研究者、Dボゲットと『カンボジアの悲劇』(成甲書房)を編集した。幸い、その本は好評裡に迎えられ、大阪朝日で何度か学者・研究者らによって取りあげられた他、『経済評論』では、加藤晴康に依る長文のコメントが出された。
虐殺キャンペーンによる問題のすり替え
加藤晴康が、そのコメントで「本書は……カンボジア革命とは何であったのかという問いに正面から取り組む意図をもって編集されている」と述べているように、私たちが目指したのは、センセーショナルな議論に隠されて見えにくいカンボジア革命を知るための基本研究文献を提示することであった。
そして、その主旨は、第一に、最も非難されるべきは、ベトナム戦争・パリ和平協定が隠れ蓑の役割を果たすことになった、アメリカがインドシナとりわけカンボジアで採った苛烈な政策であり、第二に、米中ソの谷間で中立外交を展開するシハヌーク政権下で弾圧され、しかも、フランスのインドシナ植民地政策の遺制としての、カンボジア共席党のベトナム労働党への従属という過酷な国際環境の下での、カンボジア民族主義・共産主義の固有の発展を跡づける必要がある。第三に、ポル・ポト政権の虐殺に関する報道では、数の誇張があり、米軍撤退に伴う食料問題などが全く無視されており、虐殺キャンペーンに依ってベトナムの介人・侵攻を正当化するのは問題のすり替えであり、当面議論の前提として守られるべき原別は、民族自決であるということであった。
レッテル張りが大好きな人々
ところが、本多勝一とその同僚井川一久は、私たちに「虐殺の擁護者」「連合赤軍張り」というレッテルを貼り、当時の大阪朝日担当記者や私たちに陰湿・姑息・執拗な激しい恫喝を加えてきた。
当時の私の立場は『日本読書新聞』『現代の眼』などに発表してきたし、カンボジア研究会で『カシボジアはどうなる?』(三一書房)という本も出したので繰り返さないが、とりわけ、先に述べた第二点に関しては、『読書新聞』に半年ほど連載した「東南アジアにおける共産主義の生成と展開」の問題意識の継続であった。
私たちは、虐殺がなかったなどと一度も言っていないし、1981年に主催した、研究者・学者が一同に会して、まる一日かけて行った報告と会場参加者全員のパネル・ディスカッションで構成されたシンポジウムは、問題点と焦点を洗いざらい議論することを目指したものだが、それはその参加者の一人加藤晴康が、「シンポジウムは、この種の会としては多種多様な議論が飛び交い、ある意味では混乱に終始した、おそらく近来まれといっていい会議だった……もしベトナム憎しの合唱のためのものであったのならば、それは今日の状況にいささかもこたえるものとはなり得ないだろう、というのが偽らぬ気持ちだったのである……しかし、右の懸念は杞憂にすぎなかった」と参加の印象を述べていることからも明らかである(シンポジウムの抄録と加藤の感想は『流動』1981年6月号掲載)。
「見てきた」「どっちに味方する」という子供じみた論拠
私は、本紙 412号に『虐殺と報道』に関し、「一読してみれば、井川一久は主役ではなく美人局であり、とぼけた顔で楚々と傍役に回っている本多勝一が本命であることは一目瞭然なのである」と書いた。
『マルコ』廃刊をめぐる袿秀実との論争を見ていても、袿にはっきり問題点を指摘された途端に、白ら論争をしかけながら相手の反論の掲載を意図的に遅らせ、挙げ句の果ては「この回答では、とても『論議の進展・深化』はできません」という捨て台詞を残して幕を引くという回じ手練手管が透けて見える。これを見ても同じだが、本多には昔から論議・争点を明確にするだけの「頭脳的資質」が欠けている。思考力に欠けているのである。従って、常に詰まるところ「見てきた」「行ってきた」「どっちに味方する」という子供じみた論拠しか出せないのである。
『噂の真相』の本多の言葉から拾おう。「カンボジア大虐殺めぐる賛杏の大論争」という言葉自体の中に三重の欺瞞がある。大虐殺の「大」をめぐって経緯と構造と実態の議論をしたのである。「賛否」というが、誰も賛成などという非常識な馬鹿はいない。大「論争」というが、「論争」が成立するほどには、本多たちに明晰で冷静な思考力も学問的蓄積も備わっていない。
二点の我々に「同情すべき背景」のうちの一点である、当時クメール・ルージュと北ベトナムが同一とみなされていたという点だが、先に述べたように早くから優れた研究があり、私たちはその種の研究を紹介してきたし、知らなかったのは逆に本多たちであり、従ってクメール・ルージュがベトナムに逆らい過激路線を採ったという発想が生まれるのである。
第二に、ポル・ポトを「中国が支援していた」という点である。私たちは中ソの覇権争いという要素はあるにしても、それがカンボジア問題の本質とは全く見ずに、カンボジアを第三世界固有の視点から捉えようとしたのである。
「中国派の日本知識人や政治家などが、虐殺を否定するという図式」と本多は言つているが、私が中国派を排除せずに一線を画すという立場を取ったことは、加藤の証言からも明らかである。私ははっきり1980年代における冷戦体制の崩壊を断言していたのである。私は、逆に本多にソ連邦の崩壊に関する御高説と、ベトナム労働党の変容、南ベトナム解放民族戦線の行方について訊きたいものである。
『朝日』の体質にこそメスを入れよ
本多は常にセンセーショナルな問題に飛びつき、常に最初から「正義」の御旗を手に、いや独古し、告発対象を探していくというスタンスを取り、それに『大朝日』という金看板に頼る「見てきた」「行ってきた」というルポルタージュを接ぎ木し、ジャーナリスト英雄史観に基づき、他者に耳を貸さず、ポレミークを装って一方的に「本多フアン」に御高説を流すのである。これは、(反体制)気取りのアナクロニズムの事大主義である。問題はルポの方法なのだ。
本多さん、私は井川一久が『虐殺と報道』で攻撃した柴山哲也の『日本型メデイアシステムの崩壊』の書評を『図書新聞』(昨年、1997年12月20号)に書きましたが、貴方たちはなぜ柴山のように、新聞社の体質、『朝日』の体質には公然とメスを入れるこができないのですか?
それこそ、あなたの得意とするルポルタ-ジュの本領の発揮所ではありませんか。
【付記】1998年4月17日付朝刊のポルポト死去報道に関する『朝日』『毎日』の記事を是非とも比較して頂きたい。
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2例:『人民新聞』(1998.11.15)
「水に落ちた犬」になった二人の「朝日」重鎮
本多勝一の「労害」
言うまでもなく、一つは『噂の真相』の「本多勝一『老害』への最終決別状」である。「ウンザリを通り越して、ほとほと愛想が尽きた」という文面で始まり、「本多は宿泊費やリフト代を支払っていなかったら(リクルートの接待を受けたことに関して…評者註)、筆を折るとはっきり約束した。本多勝一よ、これ以上の『老害』を晒さないためにも、潔くこの約束を実行してみせたらどうか」という厳しい口調で結ばれている。
それに対し、本多は同誌の連載コラム最終回で「いったい岡留氏(『噂の真相』の編集長…評者註)は、なぜこれほどまでにして、……私への根拠なき人格攻撃にばかり終始したのだろう」「それにしても、ジャーナリストの名誉と全著作破棄を賭した私の真摯な問いかけに対し、一切答えないばかりか『老害』の何のと、岡留さん、ひどいものでしたね。それでは、『天才的編集者』岡留安則さん、お元気で。どこかでまたお会いしましよう」と答えている。
『噂の真相』が、本多に「老害」という罵倒を浴びせているのには全く同調できない。というのは、「老害」という言葉の裏には、「老いて変わった」という含意があるからであなる。それは同誌の「本多勝一のこれまでの業績に敬意を表して」という言葉からもうかがえるが、本多のマスコミでの権力的な手口と、マスコミへの恋々たる姿勢と、『朝日』という企業内での処世術は一貫したものである。容易にキャンペーン報道を張れぬ大新聞社が、地域の運動やスターを渇仰(かつごう)する読者を購読者に結びつけるべく「作り上げた」反権力ジャーナリストだったのである。
本多が『朝日』の中で社内体制に対して(愚痴を言うことはあっても)反権力であったためしはなく、それどころか一貫して便乗型の提灯持ちであったことを見ればそれは明らかだし、共産党関係の出版物では匿名を使い、昔の新左翼系の雑誌では別名を使うといつた小器用なマスコミの泳ぎ方を見れば一目瞭然である。
読者に媚びるためと衆愚観から生まれる新聞社が押しつける文体と、大衆の生きざまと現実のはざまでの相克から本来生まれるべきジャーナリストの文体を、まるで新聞社0B代表よろしく文章読本にしてしまう無神経さも、やはり本多の企業内での姿勢に由来するものである。もうそろそろ読者も目を覚まさねばならない。
井川一久の「政治工作」的反論
『朝日』内の旧ソ連派の尻馬に乗つたもう一人の『朝日』の「重鎮」は、井川一久である。昨年一度本欄でも扱ったが、井川がベトナムの小説の翻訳の改ざんで告発されてから約10ヵ月ほど経てから、告発記事の載った『正論』誌に反論を掲載したが、その間余りに時間がかかっていたので、ウの音も出なくなり沈黙を決め込んだかと思っていると、その間必死の「政冶工作」に腐心し、駆けずり回っていたことがうかがえる反論であった。つまり、またもや「恫喝」である。
本多にしても井川にしても、タッチのソフトとハードの見かけの違いはあれ、どうしてこれほどマスコミ工作が好きなのだろうか。必ず会社の上に電話し、脅してかかるのだ。なぜ正面切った言論で勝負できないのか?
二人とも言論人でありながら、このような倒錯した言論感覚を持っているということは、二人の本質が日本の企業社会の中の典型的な俗物であることを表徴している以外の何物でもないだろう。
その井川も本多と同じく、批判を浴びるとすぐに「根拠なき人格攻撃」とやり返すのが口癖だ。両人とも被害妄想が甚だしく、常に「人格攻撃」という言葉を口に出すのは、プライドは高いものの、潜在意識の中で人格によほど自分でも不安を感じているのだろうと思わずにはいられない。
それはともあれ、『正論』1998年10月号で、井川は大川均に公開討論を要求されている。今後を注視しなければならない。
以上で(その14)終り。次回に続く。