続3:大川均氏への公開書簡
1999.4.30
〔井川一久本人反論の別紙:1998年1月24日 バオ・ニン(ヴィエット・ホア訳)〕
『正論』に掲載された大川氏の文章と写真は私を激怒させた。ヴェトナム人は一般に合意が得られなくても誠実に応対する。しかし大川氏は、拙宅での私との面談と、私と並んで撮った写真を、私自身の知らぬ私の政治的意図の証拠として利用した。これは倫理に反する。この際、事実をまとめて略述しよう。
一、私は井川一久氏と1991-1992年にハノイで会った。その後、彼は『戦争の悲しみ』を和訳したいと申し出た。私は次の理由で了承した。
(1) 井川氏は長期のヴェトナム体験を持ち、対米戦争以前から戦後に至る南北の事情を熟知している。また風俗、習慣、地理、宗教、哲学などにも詳しい。
(2) 何回かの話し合いで、私は井川氏がヴェトナム文学を深く理解していることを感じ取った。私と彼は、文学について多くの点で感覚を共にしていた。
だが『戦争の悲しみ』には、原文をそのまま外国語に移し換えると理解しにくくなる部分が多い。で、井川氏は1996年に再会したとき、原作のいくつかの部分について日本語の幅広い使用を認めてほしいと私に要請した。私はこれに全面的に同意した。
二、1996年、日本唯一の版権所有者であるめるくまーる社の代理人がハノイに来て、井川氏による翻訳を確認した。井川氏はこの小説を英語版から翻訳するとのことだった。だが井川氏は、日本語に通じたヴェトナム人の協力で、できるだけ原作に即して訳したいと語っていた。
三、1996年末から1997年春にかけて、日本から何度か電話があった。ゴックと名乗るヴェトナム人が「あなたの小説を訳している大川均氏」の代理人と称して、私の小説に出てくる地名や軍事用語について質問したのだ。私はこの「翻訳者」を元朝日新聞支局長と思い込んだ。その結果、私は大きなミスを犯した。ゴック氏が大川氏はヴェトナム語の原本から翻訳すると語ったとき、事情を確かめないで同意した。その後、私はこの方法に同意するとの手紙まで書いた。
しかし大川氏とゴック氏の側にも重大な問題があった。彼らは私とゴック氏の電話でのやりとりを通じて、私が井川氏と大川氏を混同していることを十分知ったはずだが、そのことを私に全く告げなかった。私が自分の錯覚に気づいたのば、ある出版社が別人の訳書を出そうとしているとの井川氏の手紙を受け取った1997年6月だ。それまで大川氏が私に翻訳の許可を求めたことは1度もなく、私と直接言葉を交わしたことすらない。
四、大川氏は1997年9月の初めにハノイに来て、私の自宅を訪問したいとの希望を伝えてきた。15分だけでも会って面識を得たい、と。私は承諾した。私と大川氏の対話は概要次の通りである。
(1) 大川氏は「井川氏が翻訳していることは知っていたが、私にも翻訳権がある。日本の法律はそれを許している。私は私の訳書を出版してくれる会社を必ずみつける」と語った。
(2) 私は「井川訳以外の訳書の出版には同意しない。それは道義的にも法的にも許されぬ常識外の行為だ」と述べた。しかし大川氏は、2種類の訳書の同時出版はごく普通のことだと主張した。
(3) 大川氏は井川訳を非難し、2ヵ所について大川訳と比較するよう要求した。私はこれに同意しながらも、「原文の言葉をいちいち外国語に移すのが翻訳だとは思わない。すぐれた翻訳は『越魂外文』だ」と明確に述べた。
大川氏は辞去に際して、私と一緒に写真を撮ることを要求した。私は拒まなかった。大川氏が私に無断で雑誌に載せるようなことはしないと考えて、彼の意図に少しも気づかなかったのである。
五、その後、私は日本語のできる友人たちに井川氏と大川氏の訳文を比較してもらった。彼らは井川訳の方を高く評価した。私は井川氏に感謝している。
私は原作者としての自明の権利にもとづいて、大川氏と日本の出版社に、大川訳の『戦争の悲しみ』を出版しないよう再度要求する。私はいかなる外国のいかなる人物やメディアだろうと、この小説を非文学的な目的に利用することを容認したくない。
1998年1月24日 バオ・ニン
(ヴィエット・ホア訳)
以上で(その18)別紙終り。次号に続く。