ポト派「虐殺」本多勝一「回答」前に警告!
1999.9.3 hondaken・mail再録・増補。
インターネットのメーリングリストで、前代未聞の「本多勝一研究会」が発足した最大のきっかけは、「元」本多勝一ファンによる本多勝一の自己文章「改竄」発見、質問、回答拒否にあった。本多勝一は、『潮』(19975.10)で「ポト派虐殺は嘘」と書き、それを、雑文集『貧困なる精神』第4集に収めていたのだが、その第9刷では、何の断りもなしに書き換え、初出は、そのまま、『潮』(19975.10)としていたのである。
「元」本多勝一ファンによる熱心な質問継続によって、ついに下記の状況となった。以下、わがhondaken投稿を再録する。
『潮』(1999.10)で本多勝一が「回答」するとのことですが、あくまでも括弧付きで理解すべきであって、またぞろ新しい嘘を付く可能性が大であると警告して置きます。どだい、掲載誌自体が、希代のレイプ魔、現代日本で最も悪質な政治的詐欺師の提灯持ちメディアなのです。
ところで、このところ、同じ情報操作問題ではありますが、現代的応用編としてのユーゴ戦争に掛り切りで、hodnakenはROM(読むだけメンバー)のみでしたが、「回答」前に、もう一つの警告を発して置きたいのです。それは、英語でも“good guys, bad guys” propaganda long used to justify big-power intervention (NATO in the BALKANS,iacenter,1998)などと表現される「勧善懲悪」型の理解の危険性です。
hondakenには、どうやら、カンプチアのポト派「虐殺」を認めるのが「gud guys」と誤解している方が多いようです。しかし、まず、この調査不十分の「ポト派『虐殺』」宣伝が、より「big-power」であり、国連で拒否権を握る旧ソ連を後ろ盾としたヴェトナムの侵略を、合法化する「錦の御旗」の役割を果たし、以後にもズルズルと慣行化してしまい、現在のユーゴ侵略に至る「人道的武力介入」の道を築いてしまったことの方が、人類史の上では重要な問題なのです。
簡略に言えば、そういう際に調査団を派遣するのが諸国家連合(国連は誤訳)の役割なのであって、最も鋭い対決の場となっているパレスチナにおいてさえも、同種調査団が不十分ながらも活動しているのです。そういう活動とメディアの関係が、さらに重要なのですが、現実には、天下の「似非紳士」こと朝日新聞などを典型として、「花形記者」と言われる言論詐欺師の横行を許し、その周囲に自分の欲求不満を仮想の「右」バッシングに紛らす自称平和主義者、ミーハー・ファンの金魚の糞が群れてしまい、ますます真相を見抜き難くしているのです。
「虐殺」そのものの調査研究も、まるで不十分なままです。以下、私の旧稿を再録しますので、ご研究下さい。
拙著『国際利権を狙うPKO』(1994.1.20.緑風出版、p.126-128.[中略]あり)
真偽検証なしのポト派「悪魔化儀式」
真偽をも確かめずに「ポト派悪魔化儀式」に加わるのは、湾岸戦争での「サダム悪魔化」の場合と同様の愚行だということだけは指摘しておきたい。私は、この種の「悪魔化儀式」を、日本が中国を侵略した時に謀略で爆殺した張作霖に対して、「馬賊上がり」という宣伝をしていた歴史的事実と重ねて理解する。
1つだけ私自身のカンプチア現地での経験を記すと、私がプノンペンに着いた日に、シエムレアプの日本人文民警官宿舎が何者かに襲われた。日本人文民警官は留守で無事だったが、現地人の70歳の男性と17歳の女性が死亡した。私は翌日、UNTACの本部で報道官のブリーフィングを直接聞き、ヴィデオ録画した。報道官は英語の70と17の発音が誤解されないように、何度も口を最大限に開いて、「セヴンティー・イヤー・オールドマン」と「セヴンティーン・イヤー・ガール」といい、「セヴンティー」と「セヴンティーン」の違いを強調していた。英語に慣れない記者への配慮が感じられる慎重なしゃべり方だった。
襲撃犯人についても、まったく特定されていないと慎重に語っていた。この点は再度、質問に答えて明確にしていた。ところが、日本に帰ってみると、UNTAC発表直後の報道から、おおむねポト派の犯行だと断定していた。「現地主義」報道の仕組みに関しては、すでに大手メディア内部の友人の話を紹介しておいたので、ここでは繰り返さない。日本の記者のほとんどは、現地取材で裏を取る努力をせずに、主に英米系の外電からの翻訳で間に合わすのが常なのである。
ポト派そのものの評価に関して私は、一応、巻末の資料に目を通した程度であり、それ以上の材料は持たない。ただ、資料の検討すらろくにせずに、一方ではポト派の肩を持ってみたり、他方では、流血はもうこりごりという現地の事情も考えずにポト派は抹殺すべきだと力んだりする向きが、日本国内でのPKO法反対運動の中にも多く見られたのには、呆れる他なかった。いつもながらの勧善懲悪型講談が横行する村社会の風景である。
私の考えを一応述べておくと、ポル・ポト政権の下で、処刑、虐殺、強制労働、食糧や医薬品の不足などにより、少なくとも国民の5分の1が死んだとするのが、一応、妥当な推定だろうと思う。特に重視したい資料は初期の記録である。
バーチェットの『カンボジア現代史』とフランソワ・ポンショーの『カンボジア・0年』などによると、ポト派は、カンプチア全土を、最初の根拠地と、決起に呼応した地域、最後までロン・ノル政権の下にあった地域と、大略3つに分けて考えていたようだ。また一般にも、農村部のクメール人にとっては、首都プノンペンの住民は「プノンペン人」であって、同郷の民という意識ではなかったらしい。日本の江戸時代のような感覚だ。
ポト派は、最後に「降伏」した地域の住民、特に首都プノンペンに流れこんでいた難民など200万にも及ぶ人々を、「捕虜」として扱い、全員を農村に強制移動させた。その間に行われた旧ロン・ノル政権幹部への「処刑」も含めて、この部分の都市住民の被害が一番大きかったに違いない。これを逆に見ると、最初の根拠地の農村地帯は「味方」として処遇していたわけだから、そこでのポト派の支持基盤は強力なのであろう。
しかも、ポト派の根拠地建設の歴史は長い。ポル・ポト本人がすでに1955年、シハヌークのサンクムが総選挙で全議席を独占した際に、危機を感じてジャングルに身を潜めた。以後、何度かの政治情勢の変化と合流の経過があるが、現在の代表キュー・サムパン(シハヌーク政権で1962年から1963年まで商業相)らが、シハヌークから追放されて合流するのは1963年である。それからロン・ノル政権打倒の1975年までを数えても、12年の歳月が流れている。こうした農村根拠地における歴史と、都市部を中心として展開された政権の経過との違いを見ないと、ポト派の正確な位置づけは困難であろう。
引用終り。
以上で(その29)終り、次回に続く。