『本多勝一"噂の真相"』 同時進行版(その25)

地裁で本多・疋田側が「情報源を明かせ!」

1999.6.18

 1999年6月16日、久し振りの再び東京地方裁判所の721号法廷に赴く。午前11時から12時まで、「岩瀬vs本多・疋田」名誉毀損損害賠償請求事件の第5回口頭弁論が開かれたのである。

 当日の法廷の内容は、おおまかに言うと、「朝日新聞著名記者リクルート接待スキー旅行」事件の証拠の有無に迫る場面となった。これは、いわゆる「事実」に関する中心的な争点をめぐる応酬なので、本連載では、今回と次回の2回に渡って紹介する。

 まずは、その前提として、「事実」にこだわり続ける報告者の私自身の、当日の気持ちを知って頂きたい。

 JR中央線の快速電車で三鷹駅から四ッ谷駅に行き、地下鉄丸の内線に乗り換えると、東京地方裁判所の真下の霞ヶ関駅に着く直前に、国会議事堂前駅を通過する。思い出の多い駅である。しかも、当日の日付が、まさに決定的な日付なのだった。

 思えば、出来立ての頃の地下鉄丸の内線は、古くからの銀座線と一緒に、電車賃が何十円かは忘れたが、定期券でも同じで、一定料金で全線乗車可能だった。しかし、それだからと言って、別に、古き良き時代でもなかった。わが青春の1960年安保改定阻止闘争の山場では、その前日に国会の構内で起きた惨劇を、翌日、つまり、1960年6月16日付けの読売新聞社会面で、つぎのように報じていた。

「乱闘になってからは全学連と警官隊の攻守の立場はガラリと変わった。警官隊の警棒の雨が学生たちを追いまくった。頭を割られ、血みどろになった学生たちがアチコチにうずくまる。……小柄な女子学生が仲間の学生にはさまれながら構内に走りこんだが、警棒の一撃で倒れた。……血とドロにまみれた手、両足はだらりと下がったまま。新館1階の議員団面会所に仮設された診療室に入れたときは一言も発しなかった」

 その39年後の1999年6月15日の深夜、私は、本誌別掲「Racak検証(9)共同通信の配信状況」の末尾に、「1999.6.15.入力」と、ことさらに日付を記したばかりだった。つまり、私の頭の中では、「報道検証」というテーマ追及の継続として、翌日、1999年6月16日の法廷に向かうのであるから、いよよ、彩鮮やかな追憶が蘇る。そして今、なぜそれをここで記すかというと、これにも、「報道検証」上の緊急かつ具体的な理由がある。

 というのは、今年の1月11日の日経連載小説「風の生涯」(27)の中で、読売新聞の独裁者、ナベツネの学生時代の後輩で、私にとっては都立西高校の先輩、元共産党員の作家、辻井喬(本名:堤清二)が、こう実録風に書いていたからである。

「女子学生が一人死んだという報告が警視庁から届いたが、それはデモの揉み合いの最中のことで警官の発砲によるものではないことも確認できた」

 私は、実は、この惨劇が起きた時、国会南門から構内に突入した学生のデモ隊の中にいた。先頭から少し遅れていたが、それには、ここで初めて文字にする特別な理由があった。私は、当時、いわゆるノンポリの演劇青年、それも大道具専門だった。直前の5月祭では、英文科の出し物の演劇の予算を獲得するため、仕方なしに、「アメリカ帝国主義」とか「スターリニズム」とか黄色い嘴から泡を飛ばせる無粋な学生自治会委員どもの度肝を抜く魂胆もあって、予算決定の会議に、大道具作りの最中の泥絵の具が飛び散ったジーパンのバンドに鋸とかトンカチとかを差したまま出掛けたことがある。

 そのためであろうかと推測したまま、確認する暇もなかったのだが、ともかく、国会の南門の前で顔見知りの嘴の黄色いのから、いきなり彼がジャンパーの内側に隠し持ってきたナタを手渡された。頼まれるままに私は、私と「凶器」を周囲の監視の目から遮蔽するためにできた数十名の人垣が自然に発する掛け声に合わせて、新品のナタを力一杯振り降ろしては、節無しの上物の檜の太い柱を、ザック、ザックと切り倒し、檜に特有の濃厚な匂いを、たっぷりかいだのである。

 門が倒れるなり、デモ隊は、後片付けをしていた私を追い抜いて、われ先にと構内に突入した。私は、それより以前、6月3日に、首相官邸突入の際、先頭にいて、「警棒の一撃」を受け、額を3針縫って貰ったばかりだった。額には絆創膏も貼ってあった。そこで、6月15日当日には、ハンチングを被り、「警棒の一撃」に備えて、内側にタオルを畳んで入れていた。この厚めのハンチングを被って警察の車を乗り越える姿が写った16ミリフィルムを、その後に入社した日本テレビ放送網の関係者から記念に貰って、今も持っている。その部分の映像は、時折、ドキュメンタリーで再現されている。

 つまり、上記の特別な理由で、構内に入るのが少し遅れた私は、私の前にいたデモ隊の先頭部分がスクラムを組み、そのために手の自由を失っている状態の下で、指揮官の号令が掛かるや否や、「警官隊の警棒の雨が学生たちを追いまく」り、学生たちが「頭を割られ、血みどろ」になる有様を、そのすぐ背後で目撃していたのである。これは決して「デモの揉み合いの最中」などという生易しい状況ではなかった。

 さて、ことほど左様に、事件報道の検証は難しいものであるが、この1960.6.15.事件に関しては、フィルムなどの物的証拠も残っているし、なによりも現場にいた関係者が多いから、「警棒の一撃」の否定は不可能である

 ところが、「岩瀬vs本多・疋田」名誉毀損損害賠償請求事件、または「朝日新聞著名記者リクルート接待スキー旅行」の場合、本多・疋田側は、「接待ではない。パック料金」などと反論するものの、何らの物的証拠も出せないのである。本多勝一は、「領収書は」と裁判長に聞かれて、弱々しく首を振り、代理人は、「メモがありますので、それを書証として提出します」と言う。(なお、この「領収証」の件は次回で詳述する)。

 その癖、岩瀬に対しては、「新幹線代を含めて3万5千円の根拠を示せ。誰に聞いたのか」と反撃する。岩瀬が、当然のことながら、「取材源を明かせば、これからのジャーナリストとしての仕事に支障が生ずる」と答えると、今度は疋田側代理人の梓沢弁護士が、「取材源を明かさないと不利になるのを覚悟せよ」と念を押す。

 これには、本連載の最初に記したように、梓沢弁護士が成り立てのホヤホヤの頃に東京争議団副議長の法廷闘争対策担当として「司法反動阻止」の運動を一緒にやった仲の私としては、憮然とし、慨嘆する他なかった。そこで、まずは、この「取材源」の問題についての旧稿の一部を再録する。

 旧著『マスコミ大戦争/読売vsTBS』(1992)の中心的事件、両大手メディア同士の名誉毀損訴訟合戦の途中経過を、私は、その後、その訴訟のきっかけとなった「土地売買疑惑」の買い手、「佐川急便」の背景を追う本、『中曽根vs金・竹・小』の中で、つぎのように記した。


 昨年(1992)11月17日の夕刻、私は東京地裁の615号法廷を出た。

 法廷には4時間ほどいた。現在の裁判所の法廷は、最高裁・東京高裁・東京地裁とも共通して窓がないという奇妙な構造になっている。まるでコンクリートの穴蔵だ。法廷の中にいると時間の感覚が失われる。法廷を出て廊下の窓から外を見ると、空はすでに夕暮れ色だった。

 エレヴェーターで1階に降りて裏口にまわる。振り仰いで向かいの東京地検の建物を見上げ、思いっきり夜気を吸いこむ。新鮮な酸素が頭部に流れこんだ途端に、それまでこわばっていた脳神経の結び目のシナプスがパチパチと弾けてほぐれた。やっと平常心の余裕が蘇ると、満身の血管に溢れていた怒りの濁流がすうっと消え去り、途端に腹の底からの洪笑が沸き上がってきた。横隔膜の伸縮運動が爆発したまま制御がきかず、しばし収まる気配がない。「ヒュウヒュウヒュウ」、と喉元を押しひろげて呼気が吹き出る。独り照れて掌で唇をぬぐい、乾いた笑いをこらえながら周囲をみまわすと、さいわいなことにだれも見てはいない。安心して掌で首筋をたたく。

「まったく、とんだ茶番だったな」と独りつぶやく。

 東京地裁615号法廷では、その日の証拠調べ終了直前に読売vsTBS裁判の一番のハイライト、「××(バツバツ)先生に関する反対尋問」のシーンが、大略次のように演じられたのだった。

読売側代理人の弁護士:「大物政治家の××先生とは、どなたでしょうか」

TBS側証人の記者:「名前は申し上げるわけにはまいりません」

読売側代理人の弁護士:「裁判長(芝居気たっぷりにキッと顔の向きを変え)、××先生の場合は取材源ではないので、名前を証言させていただきたいと思いますが」

裁判長:「どうでしょうか。やはり名前はいえませんか」

TBS側証人の記者:「先程も申し上げましたように、放送では大物政治家としか表現しておりません。放送していない事実については、××先生という以上に申し上げることはできません」

読売代理人:「名前をおっしゃっていただけないと、証言の信憑性を疑わざるをえませんが……」

 いかにも気取ってクールに同趣旨の質問を繰り返す読売の代理人。その慇懃無礼で、余りにもしつこい態度に対して私は、徐々に募る怒りを意識していた。こういう問答を黙って聞いていなければならないという状況は、やはり「腹ふくるるわざ」であり、不愉快至極である。最近は法廷の傍聴席でもメモが許されるようになっているが、殴り書きだけでは溜った怒りのはけようがない。きっと、脳細胞を取り巻く網細血管の全面に微少なストレス物質が次々と送りこまれ、網目が渋滞し始めているに違いない。いっそのこと、大声で野次ってやりたくなった。台詞も直ちにまとまり、のど元までこみ上げていた。

「読売さん、よう、なんでそんな分りきったこと何度も聞くの。カマトトぶっても、さまにゃならないよ。ナベツネ社長と中曽根の古い古い仲を知らなければ、読売グループじゃモグリもいいとこでしょ」

 TBSは、佐川急便疑獄の一環として昨年(1992)2月20日、読売の土地売買疑惑を報道した。日本の政治史上でも最大の金額をばらまいた疑惑の企業、佐川急便が、日本ばかりか世界でも最大の発行部数を誇る読売の社有地を、なぜか時価を100億円も上回る260億円もの高値で買ったというのだ。TBSは「商談の背後には大物政治家の影もちらついています」と報じたが、その大物政治家とはだれなのか。ことは単なる土地の不当な売買では済まされない。日本の中央政治とマスコミ報道全体のありかたに関わる決定的な問題である。読売は、このTBSの報道の訂正と謝罪を求め、TBSが拒否すると、「名誉毀損」に当たるとして損害賠償の民事訴訟に訴えた。そのため一時は週刊誌種になったものの、以後はパッタリ報道されていない。

[中略]前著の『マスコミ大戦争/読売vsTBS』で、この間の事情を次のように論評しておいた。

報道機関は、社会的に大きな影響を持つ組織や個人の言動に疑惑があったならば、即刻報道すべきなのであって、相手が大手メディアの同業者だからといって遠慮されては困るのだ。また、報道内容に疑問があれば、自らも報道で対抗するのがメディアのあり方ではないか、という考え方もある。そうすれば、さらに公衆の面前で事実が次々と暴露され、早期に白黒がはっきりしたのかもしれない。」

 以後の経過も、この論評の範囲内に止まっている。冒頭に述べた東京地裁での証人調べの翌日には、非常に短い記事が各紙に載ったが、前後の事情を知らない読者にはなんのことやら判読しかねるような内容だった。まさに「お義理」の報道振りであった。

 ただし、重視されていなかったのかというと、決してそうではなかった。私は当日「先んずれば人を制す」のことわざに従い、早目に法廷に入った。狭い法廷で傍聴席が全部で42しかないのだが、その前部左から中央にかけての2列14席には白地に青で「報道記者席」と書かれたビニールカヴァーがかぶせられていた。悪名高い日本式「記者クラブ」所属企業のサラリーマン記者だけに特設された専用席であるが、普通の事件の場合よりは数が多い。あとで地裁広報部に問い合わせると、やはり事前に司法記者クラブ側から取材参加人数の連絡があったという。この「司法記者様専用席」に普通の傍聴人が座わろうとしようものなら、すぐに制服の廷吏がすっとんできて、追い出される仕組みになっている。傍聴人が溢れ、記者席が空いたままの場合でも、なかなか傍聴人の着席を許さないものである。

 私は最初、専用席に黙って座り、「フリー記者」としての権利を主張してみようかとも思ったのだが、右前部の端にも空席があったことだし、やはり大人気ないかと、その一般席で我慢することにした。そこから首を左に曲げて、記者席が埋まるかどうか注目していたのだが、これがまた意外な状況であった。この「読売vsTBS」裁判の時には、用意の14席が、裁判所から貸与される青地の布製腕章をつけた記者で全部埋まったばかりか、「報道」の腕章をつけた記者が普通の傍聴席にまで進出してきた。これもあとで地裁広報部に聞くと、本来なら地裁から貸与の青腕章しか着用を許されていないので、「勘違いしたのでしょう」という返事だった。一般人が腕章やゼッケンをつけたまま裁判所に入れば、大騒ぎで「外せ!」となるのが最近の常だから、これまた特別扱いである。

 私は何度か重要事件の判決日などの傍聴を経験しているが、こんなに多数の司法記者が一度に競って法廷に現れるのを見たのは初めてである。念のために数えると腕章組は最大時で17人もいた。そのほかにも記者用のメモ帳を使っているのが10人ほどいた。見覚えのある大手メディア企業のバッジを胸に着用しているのもいた。途中の休み時間に弁護士から取材していると、何人かのメモ帳組が後から参加してきたので、彼らが弁護士に渡している名刺をチラリと見ると、大手紙の社会部記者が2人も確認できた。つまり、記者クラブ担当以外にも大手紙記者が何人かきていたのだ。

 それでいて翌日の紙面には、ほんの「お義理」の記事しか載らない。ましてや「××先生」に関する論評など載るよしもない。これは一体、何のための法廷取材なのか。他社の動静を探るための「企業スパイ」まがいの仕事だったのであれば、読者をあざむくにもほどがあるといわざるを得ない。

「××先生」の実名に関してはすでに『噂の真相』(92.5)が、出所の「怪文書」を「そのまま信用するわけにはいかない」としながらも、そこに「ナベツネと刎剄の友である中曽根康弘」とか、「金丸信に20億、笹川良一と中曽根に10億ずつ、18億が渡辺広康にキックバックとして流れた等の記述がある」ことを紹介している。さらに同誌8月号の「疑惑を追跡!」においては、「予想通りナベツネの盟友・中曽根康弘だったと考えてほぼ間違いないだろう」という判断を示している。だが、読売はこの『噂の真相』報道を訴えたりしてはいない

 私は、そのほかの情報をも得て、前著ではっきり「中曽根康弘その人にほかならない」と断定した。この前著は、取材の経過もあって読売への「公開質問状」と明言してあり、すでに読売の広報部長宛てに献呈してあるが、やはり、なんらの抗議もないし、訴えられてもいない。このような対応振りは、ミディコミやミニコミを「小石のごとくに無視する」という大手メディアに共通する姿勢でもあろう。だがこちらは「回答もしくは公開論争の場は裁判所であってもかまわない。再び受けて立つ」と挑戦しているのだから、いまのところ、読売と中曽根は「尻尾を巻いて逃げている」としかいいようがない。おそらくいつもの手で、佐川疑獄の嵐が過ぎるのを物影に隠れて待っているのだろう。

[中略]

 佐川疑獄が何だったのか、ほとんど分らないままに再三再四日本国民は愚弄され続け、巨悪の企みを野放しに許してしまう結果となるのだ。


 さて、私に言わせれば、何ともはや、「市民派」の梓沢弁護士らが、上記の読売新聞の代理人が用いた伝統的かつ陳腐極まりない「法匪」(中国人が日本の法律家による土地取上げに抗議した呼び名)の手法に従って、元朝日新聞著名記者の「名誉」を守ろうとしていることになるのである。これがなぜ、慨嘆せずにいられようか。

 以上で(その25)終り。次号に続く。


(その26)短評:『週刊金曜日』の言論詐欺
本多勝一“噂の真相”連載一括リンク