『本多勝一"噂の真相"』 同時進行版(その15)

『週刊金曜日』読者が「本多勝一デッチ上げ」告発?!

1999.4.9

 以下の冒頭部分は、本多勝一研究会(hondaken)へのmailの「です」調を「である」調に直し、若干、手を加えたものである。


Sent: 99.3.21 10:22 AM

 本多勝一がヴェトナム戦争の記事でデッチ上げをしたとの疑惑に関して、『噂の真相』に、『週刊金曜日』読者会で「本多勝一による記事デッチ上げ」についての発言があったとの記事が載ったとの情報が流れたが、それは未確認である。印刷もしくはインターネット情報として確実に存在するのは、以下の私の裁判の書面、「本人陳述書」と、それ以前に提出していた書証、『歴史見直しジャーナル』20号(1998.9.25)である。

 同主旨の文章は、Web週刊誌『憎まれ愚痴』の連載にも入れてある。

『噂の真相』の記事掲載が事実だとすると、その発言者は、おそらく、私が、昨年の1998年12月9日に新宿のディベイト酒場、「ロフトプラス1」で、当日の一日店長、『噂の真相』岡留編集長からの質問に答えて、同主旨の発言をした際にいた客の1人であろう。その時にいた顔見知りの『週刊金曜日』読者が、すでに、その後、私も活動発表者として参加した1998年12月18日の民衆のメディア連絡会年末交流会の席上、朝日新聞の現役記者、伊藤千尋に対する質問の中で、同主旨の発言をしている。

 本多勝一研究会(hondaken)へのmailでは、その「本多勝一による記事デッチ上げ」が、「一次資料」なのかどうかという質問も出ているが、「一次資料」とは、いわゆる同時代の「古文書」とかの文書記録だけではない。近現代史の場合には、生身の人間の証言もある。この場合には、私自身が、現場にいた証言者から直接聞いた話を、文字にしているのである。私は、以下の裁判の書面のように、電話取材の状況を明記している。

 これは、相手の人物をも別途の取材で確かめた上での「聞き取り取材」による最高の一次資料である。それぞれの先輩には、「ぜひとも活字化を」と、お願いをしてはあるが、こういう場合には、周囲のしがらみで無理のできない場合もある。だが、前後の事情からも、十分に確信することができる内容である。しかも、すでに、かなりの友人知人に口頭で伝わっている情報だということも、確かめめることもできたので、むしろ、あえて本人の了解を求めずに、私個人の責任で発表に踏み切り、それによって、先輩たちにも、活字化の決意をうながしたものである。

 私が提訴した裁判の書面に関して言うと、本多勝一自身は、裁判の被告会社の代表なのだから、私の書面を見なかったと強弁できる立場ではない。私は、反論を期待し、抗議の「反訴」すら受けて立つ気構えで書面を提出したのだが、本多勝一側は、ウンともスンとも答えなかった。むしろ、この本人陳述書の提出以後、「被告会社」側の代理人は、何らの反論も用意しないどころか、前後の事情から間違いなしに、裁判官との直接面談による取引を行い、いったん予定されていた原告本人の私の口頭での証言を阻止し、急いで結審を求めたのである。裁判長は、私の口頭での証言を求めないで結審する理由として、「陳述書も出ているから」と述べている。つまり、陳述書という書面の提出で口頭弁論が行われたことにするという日本独特の処理方法を取ったのである。判決分には、この部分への言及はないが、裁判のルールで言うと、何らの反論もないのだから、私の主張を裁判所が、そのまま認めても良いケースなのである。

 以下、私の本人陳述書の方から、一部引用する。URLは下記の通りである。

 http://www.jca.apc.org/~altmedka/honnin-8.html

******************************

五、被告・本多勝一の準備書面(二)への新旧の証拠に基づく具体的な反論

[中略]

2、初期作品から始っていた記事デッチ上げと経歴詐称

 私はすでに『歴史見直しジャーナル』3号(甲第7号証の4)『週刊金曜日』誹謗中傷記事問題特集で、「試金石」による「本多の条痕色」は「黒」、つまり、本多勝一は「偽者」(同4頁の最後)と喝破しました。

 それまでの自称「省力取材」の結果に基づくだけでも、この判断には十分な確信がありました。ところが、その後、出るわ、出るわ。呆れを通り越して寒気がするほど、お粗末至極な記事デッチ上げの前歴が各地の各氏から寄せられました。

 ベストセラーで冒険記者の名を上げた「極地3部作」でも、同行の先輩写真記者、藤木高嶺氏(現大阪女子国際大学教授)が記事デッチ上げに呆れ果てて「決裂」宣言しています。

 ヴェトナム戦争当時の「戦場の村」連載では、現地の各社の先輩記者が、「来たばかりでヴェトナム語も知らずに、あんな取材ができるわけがない。昼は政府軍、夜は解放軍の乱戦状態で、政府軍に疑われれば爪を剥がれる拷問。半端じゃない。しかし、『嘘を書いた』という立証も難しいから、そこが彼の付け目だ」などと告発しています。

(以上、ともに「通報」を得て本人から直接電話取材)

 初期の作品「極地三部作」では、朝日新聞社が1963年(昭38)に発行した『カナダ・エスキモー』初刷(甲第56号証)の場合、「京都大学農林生物科を経て[中略]朝日新聞社入社」と記しており、それらの作品の講談社文庫社版では明確に「京大農林生物科卒」(甲第76号証)となっています。

 ところが、『現代』「新聞記者・本多勝一の崩壊」(73.8.甲第58号証)によると、京大は「中退」とあるので、朝日新聞社の人事部に問い合わせると、入社の経歴書には「千葉大薬学部卒業となっているから朝日新聞に学歴を偽って入社したのではない」とのことでした。

 被告・本多勝一自身は『貧困なる精神』第4集に収録した一文、「これも異色か」(初出1960年・千葉薬雑誌)の中で京大への学士入学の経過を記していますが、そこには「中退」の「チュ」の字も見えません。

 このような「記事デッチ上げ」「経歴詐称」の常習犯が、朝日新聞の看板記者だったことには、やはり、驚く他ありません。

******************************

 なお、冒頭再録のmailでは、「本多勝一は、デッチ上げ記事による思わぬ名声によって、もともと狂っていた回路がさらに狂ってしまった見本なのです」と付け加えている。

 さて、以上の経過の後、『歴史見直しジャーナル』の読者から、下記の本の奥付と本文の一部のコピーが送られてきた。以下、まずは、そのコピ-の主要部分を紹介する。

[ ]内は私の注記である。

******************************

[奥付の主要部分]

五十嵐智友(いがらし・ちゆう):1960年、朝日新聞社入社。ドイツ・ボン支局長を経て東京・大阪・名古屋各本社文芸部長、論説委員、北海道支社編集総務、名古屋本社編集局長。現在、朝日新聞社史総監修兼社史編修顧問、愛知学院大学教授(国際関系論・ドイツ現代史)

『歴史の瞬間とジャーナリストたち/朝日新聞にみる20世紀』

(五十嵐智友、朝日新聞社、1999.2.25.)

[本文の関連部分]

[頁に上に「393ベトナム戦争解決を訴えて」などとあるから、これが章の題名か?]

[ゴシック小見出しが「『戦場の村』の衝撃」

[写真が2箇所。1箇所には2人の顔写真。写真説明:]「本多勝一、藤木高嶺」

[もう1箇所には煙の上がる藁葺きの民家、ヘルメット、通信機、銃を持つ米兵たち。写真説明:「解放戦線がひそんでいそうな民家に発煙弾を投げ込む米第25歩兵師団の兵士たち。クアンガイ省バンハ村で、特派員・藤木高嶺撮影。1967年(昭和42年)9月30日夕刊、本多勝一執筆の「戦争と民衆・第5部 戦場の村」第2回に掲載」

[以下、この小見出しの本文]

 1967年(昭和42年)5月29日から東京本社社会部・本多勝一と大阪本社写真部・藤木高嶺のコンビによるベトナム・ルポ「戦争と民衆」が始まった。第1部は「首都のベトナム人」(夕刊、18回)で、8月1目から第2部「山地の人々」(朝刊、14回)・8月16日から第3部「デルタの農民」(同、15回)、9月3日から第4部「中部の漁民」(同、6回)、9月29日から第5部「戦場の村」(夕刊、20回)、11月6日から第6部「解放戦線」(同、23回)と、連載は半年間にわたり計96回を数えた。

 ルポは、北ベトナム、解放戦線側からと、南ベトナム側からの双方を取材し、戦争に痛めつけられ、傷付く民衆の生の姿を伝えた。特に第5部の「戦場の村」は、読者に強い衝撃を与えた。その一部を再緑する。

 ……ミゾのようなクボ地で、うつぶせになって死んでいる若い女ゲリラの遺体に、一人のアメリカ兵が近づいた。……3メートルほど離れて見ている私の目の前で、その米兵は彼女の片耳からイヤリングをもぎ取った。頭を足でひっくりかえすと、もう一方の耳からも奪って、自分のポケットに入れた。死体からものを盗むことなどは、しかし次に目撃した光景に比べたらもののかずではなかった。

 女ゲリラから、7,8メートル離れた芝生の上の遺体にも、上半身ハダカになった別の米兵が近付いた。ナイフを片手に、他方の手で解放戦線兵士の耳をつかんだ。エスキモーたちがトナカイの角先を切落としたときのように、彼はさっさとナイフを使って耳を切落とした。

 ことは余りにかんたんに行われたので、私は、最初その意味がわからなかった。なんとなく変な気待で、カメラマンたちのいる土手の方へ歩くうちに、その意味が少しずつわかり始めた。その瞬間、ベトナム人カノラマンP氏が「ミスター・ホンダ、あれを見なさい!」と、低い声で注意した。彼は同じものを見ていったのである。米兵は切落とした耳をビニール袋に入れたところだった。

 P氏の横にいた別のカメラマンも気付いていた。彼はそれまで話していた相手の米兵に「あの兵隊は、耳をどうするんだね」ときいた。相手は苦虫をかみつぶしたような顔をして短く答えた……スーベニア(記念品)さ」。……(昭和42.10夕刊)

 この年の「声」欄への投書は4本社合許で7万898通で、テーマ別分類では「ベトナム」がトップの3313通に達した。わけても「戦場の村」に寄せられた反響は大きく、「ひとつの連載記事に対し、これほど多数の投書が集中したのは『声』はじまって以来のこと」(11.4朝刊当初欄「今週の声から」)であった。朝日の海外向け英文季刊誌「ジヤパン・クォータリ」(1968年第2号)は、第5部を独自に英訳して海外に紹介した。

 本多は、南北ベトナム踏査報告シリーズで「ボーン国際記者賞」(43年度)などを受賞した。同賞は、1949年(昭和24年)に東京で船の転覆事故のため水死した米UP通信社副社長マイルス・ボーンの功績を記念して翌50年から、日米または国際理解の増進に寄与した日本人記者に贈られている賞で、のちにボーン副社長と同船してやはり水死した前電通社長・上田顕三の名前もとって、「ボーン上田記念国際記者賞」と改称される」

******************************

 以上の情報から判断すると、まず、この本の著者は、本多勝一より5年ほど後の入社の後輩である。ヴェトナム戦争の取材経験については不明だが、ともかく、ここに引用した部分と「読者に強い衝撃を与えた」と評価している。

 ところが、私に言わせると、こんなに「恐いもの見たさ」の俗耳に入り易くて、しかも実に怪しい記事はないのである。以下に決定的な疑問点を示す。

 当該記事の引用部分には、「カメラマンたち」(当然、複数)「ベトナム人カメラマンP氏」「P氏の横にいた別のカメラマン」とある。しかし、なぜか、著者が「コンビ」と記す一番重要な同行者の日本人、「写真部・藤木高嶺」の名前はない。それだけではなくて、この「読者に強い衝撃を与えた」場面の写真は載っていないのである。絶好の被写体であるはずの「アメリカ兵」は、「冒険記者」のベテラン、本多勝一が「命懸けで記録」したはずの記事を見る限りでは、別に周囲の目を警戒していたとは思えない。それなのになぜ、「カメラマンたち」は、それが「命」であるはずの写真に、この絶好の光景を収めなかったのであろうか。また、「冒険記者」本多勝一は、なぜ、それを依頼しなかったのだろうか。

 古今東西、戦争報道には、デッチ上げ付き物である。

 江戸川柳には「講釈師、見てきたような嘘を言い」とある。

 一般人を「危険を覚悟の取材」などと脅かして、素朴な疑問を封じ込めるのも、いわゆる「プロ」の常套手段である。

 本多勝一は、以上の、実に簡単至極な疑問に対して、誠実に答えなければならない。

 ともかく、これ以後に、藤木高嶺は、本多勝一と「決裂」(藤木発言通り)しているのである。

 以上で(その15)終り。次回に続く。


(その16)本多勝一の同志「朝日『重鎮』」井川一久「改竄疑惑」
本多勝一“噂の真相”連載一括リンク