「ガス室」裁判 原告本人陳述書 その7

本多勝一及び『週刊金曜日』との関係 ―
『週刊金曜日』創刊以前の寄稿依頼


四、私と被告・本多勝一及び『週刊金曜日』との関係

1、被告・本多勝一からの著書献呈と『週刊金曜日』創刊以前の寄稿依頼

 私は、一九九三年[平5]五月ごろに被告・本多勝一から、同人の著書、『貧困なる精神Z集』(毎日新聞社、一九九三年[平5]五月一〇日発行、甲第10号証の1)の献呈を受けました。この献呈本には、「引用箇所」を示す付箋が貼られており、その箇所には、私の著書に関しての、つぎのような評価が記されていました。

「たとえば最近刊行された木村愛二氏の『湾岸報道に偽りあり』(汐文社)(前略)などは、『中東の石油支配を狙うブッシュのワナにはめられたイラク』という構図が実にわかりやすく分析されている」(甲第10号証の1、67頁5~7行)

 この部分を含む旧稿の出典に関しては、「(『サンデー毎日』一九九二年八月一六・二三日合併号)」(同右69頁2行)と記されていました。私は、その『サンデー毎日』記事を見ていませんでしたし、右『湾岸報道に偽りあり』(甲第1号証)出版後も湾岸戦争関係資料の収集に努力していたので、内容としては重複になると思いつつも、日課のような図書館通いのついでに武蔵野市立中央図書館で右『サンデー毎日』の取り寄せを依頼し、入手するとすぐに該当記事を複写しました。

 ところが、右記事(甲第10号証の2)には、拙著『湾岸報道に偽りあり』(甲第1号証)についての記述がまったくないのです。

 はてなと思って、『貧困なる精神Z集』(甲第10号証の1)の方を見直すと、やはり、そのどこにも出典記事への増補の事実が記されていません。これでは読者が、最初の『サンデー毎日』記事のままだと誤解します。

 出典を明記しないのは新聞界の悪習であり、誤報、虚報、冤罪推進・拡大の根本的原因をなしています。それでも、個人名で出版する単行本の場合には、現または元新聞記者の多くが出典を明記しています。出典明記はするものの文章は断りなしに改竄するという被告・本多勝一の仕事振りは私の主義に反することなのですが、今にして思えば、被告・本多勝一の杜撰さに一応は気付きながら「一事が万事」という警句を忘れ、その後の仕事上の付き合いを拒否しなかったのは、まさに「千載の悔いを残す」というほかありません。 その後に私は、被告・本多勝一からの直接の電話で、その当時創刊準備中であった『週刊金曜日』への寄稿を依頼されました。

 私の寄稿は、同誌の一九九四年[平6]一月一四日号に、「湾岸戦争から三年/だれが水鳥を殺したか/湾岸戦争報道操作は続いている」という題名の五頁の記事(甲第9号証の2)として掲載されました。本件の場合と比較するために、ここで、その際の原稿料に関する事実経過を述べておきますが、記事掲載後に同誌からの電話の問い合わせに答えて私が告げた銀行の個人口座に振り込まれる以前には、一切、金額や支払い条件の提示はなかったのです。だがこれは、電話一本の寄稿依頼と同様に、現在の日本の出版界の通常の慣行ですから、その際には、私はあえて問題とはしませんでした。

 私は、その間及び以後に、被告・本多勝一と、日本ジャーナリスト会議(JCJ)などが主催する集会で何度か顔を合わせる機会があり、その都度、短い友好的な会話を交わしました。被告・本多勝一は、同会議をかつて退会していましたが、一九九三年[平5]一一月五日予定されていた『週刊金曜日』の創刊を前にして、支援を訴えるために再加入していました。

 私は、同会議に、一九九一年[平3]から一九九六年[平8]まで加入していました。

2、『週刊金曜日』への三年分の予約購読料金振り込みと創刊の趣旨への期待

 私は、収入が少ないばかりか非常に不安定なフリーランスですから、通常は雑誌等の資料を可能な限り図書館で利用することにしているのですが、この『週刊金曜日』に関してのみは、創刊準備委員会の呼び掛けに応じて、無い袖を振る思いで三年分の予約購読料金を振り込みました。

 そうした理由の一つには、創刊以前に依頼された右の寄稿の原稿料という収入の当てがあったという事情もありますが、前記JCJの代表委員であり、被告・本多勝一の大先輩に当たる元朝日新聞外信部長・取締役の秦正流が、同誌の創刊支援の呼び掛け人に加わったこと、私が一九七二年[昭47]から一九八八年[昭63]まで日本テレビ放送網株式会社を相手に争っていた不当解雇事件の弁護団の一員、小笠原彩子から支援を訴える手紙を受け取ったこと、同誌の初代編集長が、私が日本テレビ在籍中に所属していた日本民間放送労働組合連合会(略称「民放労連」)発行の『放送レポート』の版元として旧知の晩聲社社長、和多田進だったこと、などの特別な理由がありました。私は、それらの知人への一定の信頼感から、同誌創刊の趣旨が真に貫かれることを期待しつつ、あえて、無い袖を振る思いで三年分の予約購読料金を振り込んだのです。

 同誌創刊に当たっては、まず、テスト版の『月刊金曜日』が4号出ていますが、それらの誌面には「新しいジャーナリズムを創る」(同1号巻頭・編集委員・井上ひさし、甲第8号証の1)、「この雑誌は『[被告]本多勝一さんが始めた』のではありません。[被告]本多さんは応援者であり、編集委員のひとりには違いありませんが『始めた』のではない。(中略)誌面が多様性を発揮し、苛烈な論争によって問題を前進させていくことを身につけていきたい」(同2号・編集後記、甲第8号証の2)などの抱負と創刊準備の事情がこもごも記されていました。同誌の「編集委員」の最年長者である哲学者、久野収は、「『週刊金曜日』の発刊に寄せて」(同2号巻頭、甲第8号証の2)と題し、次のように記していました。

「いかなる機構、どんな既成組織からも独立し、読者と編集者の積極的協力の道を開き、共同参加、共同編集によって、週刊誌における市民主権のモデルを作りたいと願っている。(中略)一九三五年、ファッシズムの戦争挑発を防ぎ、新しい時代と世界をもたらすために、レ・ゼクリバン(作家、評論家)が創刊し、管理する読者として出され部数十万部を数えた『金曜日』(ヴァンドルディ)の伝統もある」

 一九九三年[平5]一一月五日発行の『週刊金曜日』創刊号の巻末(甲第9号証の1)には、「挑戦する雑誌」「一切のタブーに挑戦し、自由な言論をくりひろげる」「論争する雑誌」「反論を重視」などの字句が踊っていました。

 しかし、以上のような創刊当時の事情には、以後、大幅な変動が見られました。JCJの代表委員として支援の呼び掛け人に名を連ねていた秦正流は、すでに他界しました。初代編集長の和多田進は一年を経ずして辞任し、編集委員の被告・本多勝一が編集長を兼任しました。編集委員では、石牟礼道子と井上ひさしとが、相前後して辞任しました。

3、本件と被告・本多勝一の関係

 一九九四年[平6]一一月三日、JCJは、当日の読売新聞朝刊の一面トップ記事として発表された「改憲論」の批判を中心とする緊急集会を開いきましたが、その後の懇親会の席上、被告・本多勝一が原告の隣席に座ったので、私は、たまたま別人に渡す予定が外れたために所持していた『アウシュヴィッツの争点』の第二草稿(当時の仮題は『「ガス室」神話検証』)のコピーを同人に見せました。

 右の「別人」とはは、当日の集会で被告・本多勝一らとともにパネラーの一員となっていた色川大吉(当時は東京経済大学教授)のことですが、私が色川に原稿のコピーを渡そうとした動機は、その発表に関する売り込みではありませんでした。同原稿の発表についてはすでに、のちに『アウシュヴィッツの争点』と改題して発表する際の出版元となった「リベルタ出版」と契約を交わしていました。

 色川は、その翌年の春に、戦後五〇年を記念して、第二次世界大戦で「枢軸国」となった日本、ドイツ、イタリアの三か国の識者を東京経済大学に招いて国際シンポジウムを行おうと企画しており、当時私が所属し、企画委員会の一員でもあったJCJに、協賛を求めていたのです。そこで私は、色川に本件に関わる問題を認識してほしいと願い、草稿のコピーを渡そうと考えたのです。

 色川からは、のちに、丁重な文面の葉書による礼状を受けとることになりますが、その当日は、色川を招いた直接の担当者が「お荷物になるから後日郵送してはどうか」と言うので、その旨を色川にも伝えて、草稿のコピーは手元に留保していたのです。

 だが実際にはまだ、その直後に予定していたアメリカとポーランドへの調査旅行後に書き加える部分も出てきます。色川が企画中のシンポジウムの開催は数か月後のことでしたから、書き直したのちにまた新しくコピーを作り直して送る方が、私としては、より望ましいという判断もありました。そうなると私自身にとっても、そのコピーは当夜の「お荷物」だったのです。そこで、たまたま二次会の酒場で隣に座った被告・本多勝一にも、意見を求めてみようかと思い立ち、「売り込み」などではまったくなく、気軽に見せてしまったのです。

 ところが同人は、私の予想に反して即座に、「これは有り難い」と、いささか芝居がかって原稿のコピーを額の前に押し頂きました。そして、「[私が執筆した]『噂の真相』の記事(前出。一九九四年[平6]九月号、「映画『シンドラーのリスト』が訴えた?ホロコースト神話、への大疑惑」、甲第4号証)を見て、電話をしたのだが、その時は、お留守だった。この原稿は単行本向けのようだけど、雑誌の連載向けに直せるでしょ。ぜひ、これを連載させてほしい。四〇〇字詰め一枚で四〇〇〇円しか出せないけれど、あとでまた単行本もだせるし、良いでしょ」と、異例の積極的かつ具体的な申出をしたのです。私は、この被告・本多勝一の申出を、前述のような日本の出版界の慣行から見て完全な成約と見なし、すでに契約していた前記リベルタ出版にも単行本出版を連載後にする条件で了解を得て、直ちに「本書」とあった何十か所もの記述をすべて「本稿」に打ち直すなどの連載向けの作業を行い、第三草稿を、被告・本多勝一本人及び担当編集部員向けに2部作成し、『週刊金曜日』編集部宛てに郵送しました。

 しかし、この連載の計画は、同誌編集部内に反対意見があったことも手伝ってか、話が中断したまま年を越えました。

4、『マルコポーロ』廃刊事件以後の経過

 一九九五年[平7]一月三〇日、文藝春秋は、「ナチ『ガス室』はなかった」という題名の記事(甲第19号証)を掲載した『マルコポーロ』(一九九五年[平7]二月号)に対しての不当な言論抑圧の攻撃に屈して、同号の全面回収と、同誌廃刊の決定を発表しました。

 以後、私と被告・本多勝一との関係は、本件で争われる基本問題をめぐって急変しました。右のように話が中断したままの連載の申出は、事実上、破約の状態になっていましたが、被告・本多勝一はまず、私に対して一言の詫びの言葉も発していません。

 事態急変の真因は、被告・本多勝一と『マルコポーロ』の出版元の文藝春秋およびその社員である編集者、花田紀凱との間の「不倶戴天の敵」と言うべき関係にありました。

 被告・本多勝一は、文藝春秋と、同社発行の『諸君』一九八一年[昭56]五月号に掲載された記事、「今こそ『ベトナムに平和を』」(甲第48号証の1)における同人への批判についての訂正と反論掲載を求めて訴訟(一審、二審とも同人の敗訴、本件提訴後の一九九八年七月一七日に言い渡された最高裁で敗訴決定)を起こしました。

 廃刊決定当時の『マルコポーロ』編集長、花田紀凱とは、同人が編集長だった時期の『週刊文春』の一九八八年(昭63)一二月号一五日号に掲載された記事、「?創作記事、で崩壊した私の家庭、朝日・本多記者に当てた痛哭の手記」(甲第44号証)に反論掲載を求め、この件については訴訟を提起せずに、文藝春秋・花田紀凱と同時に日本の裁判制度への非難を機会あるごとに綴り続けているという関係です。被告・本多勝一が提訴しなかった理由については、『週刊金曜日』(96・5・31、甲第15号証)に本人の弁が記されていますが、その怪しさは、すでに略述した通りです。提訴すれば、それこそ「藪蛇」だったでしょう。

 この間の事情は複雑多岐にわたりますが、あえて要約すれば、私は即座に、被告・本多勝一が、自己の文藝春秋及び花田紀凱に対する宿年の恨みを晴らすために、本件の主題を利用するという許しがたい政治的な過ちを犯していると見抜きました。

 しかし、私は、被告・本多勝一の過ちと動揺を知りつつも、手段を尽くして反省をうながし、合わせて、前述のような『週刊金曜日』創刊の趣旨の一つ、「苛烈な論争によって問題を前進させていく」(甲第9号証の1、裏面)編集方針を論拠にして、反論記事の掲載を求め、結果としてまず、同誌の一九九五年(平7)三月一七日号「論争」欄に「『マルコポーロ』?疑惑、の論争を!」(甲第7号証の4、32頁)を寄稿しました。

 右寄稿は本来、投書としてではなくて、被告・本多勝一自身から二頁見開きの「今週の反撃」欄への執筆を依頼され、その後、最初は「編集部の議論」のために「原稿を依頼しておいて失礼だが草稿を送ってほしい」、次には「編集部の議論に時間が掛かるが、論争欄なら一存で掲載可能」との電話があり、早い方を選んだまでのことでした。

 以後、若干の投稿の応酬を経て、本件「論争」は「論争」欄から「投書」欄へと縮小され、一時、誌上の議論は途絶えていましたが、一九九六年[平8]一月一八日に発表された花田紀凱の朝日新聞移籍、及び、その後に具体化された朝日新聞社発行の『ウノ!』編集長への就任を新たな契機として、議論は再燃しはじめ、『週刊金曜日』は前記の合計一四回の連載記事、「『朝日』と『文春』のための世界現代史講座」(乙第35~41号証、甲第9号証の5~9)を掲載するに至ったものです。


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