『電波メディアの神話』(5-8)

第二部 「多元化」メディアを支配する巨大企業

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.6

第五章 「打って返し」をくう「公平原則」信奉者 8

議会は「公平原則」復活まで放送関係の審議を拒否

 椿舌禍事件発生から三年ほど前に発行されていた『最新アメリカ放送事情』という単行本にも、「フェアネス・ドクトリン」の項がある。

 著者の立石直は郵政省郵務局調査官(発行当時)で、数年間、郵政省の放送行政局に在籍したのちに一九八七年から一九九〇年の間、NTTアメリカ(株)へ出向し、ワシントン事務所長として勤務した。FCCが「フェアネス・ドクトリン」を廃止したのが一九八七年八月だから、そのありさまを現地で身近に見聞できたわけである。

 同書の解説によれば、FCCが「電気的コミュニケーション手段が著しく多様化している現状」を廃止の理由にしたのに対して、議会で多数を占める民主党などは「電波資源の希少性は規則制定当時と変わっていない」と主張している。つまり、FCCが有線放送を含む「電気的コミュニケーション手段」の「多元化」を根拠として論じているのにたいして、議会の方は既存の無線「電波」のみに限定して論じている。私の命名にしたがえば、「多元化神話」派と「希少性神話」派の神々の対決であり、神学論争またはコンニャク問答に類する。だがともかく議論の土台さえちがうのだから完全に決裂状態だ。

 現在、日本でも放送の規制緩和が進行しており、アメリカのケーブルテレヴィが通信衛星を通じて日本に参入する日がちかい。形こそちがえ、本質的にはおなじようなことがおこる可能性がたかい。その際、大企業、それも多国籍の超々巨大独占の意向がおしつけられるのだ。そういう場合には、立場の相違をあきらかにしない議論は結局のところ、大衆欺瞞でしかなくなる。

 立石は現在も郵政省の官僚の立場だが、それでもまだ事実に即した報告をしている。議会が可決した「放送公平法」にレーガン大統領が拒否権を発動した件について、「レーガンがかつてハリウッドの映画界にいたこともあり、放送事業者よりの立場に立っていたからであった」などと記している。これが現地でも常識的な理解だったのだろう。先にあげたNHKの資料などをみても、この状況はあきらかである。

 こういう階級的な位置づけをぬきにし、いかにもNHK風の「公平」をよそおうきどった論評は、結果として資力のある体制側を有利にしてしまう。さきに紹介した「一橋大学教授・情報法学」の肩書きの堀部政男が朝日(93・10・27)の「論壇」によせた文章などは、その典型である。しかも堀部は「FCCが四九年に確立した公平原則は、もはや過去のものとなった」としるしたのち、議会の抵抗をNHK風に紹介し、「議論は続いている」という形でかるくしめくくっている。堀部は議会の反対のうごきについても一応はふれているわけだが、その消極性は、立石の報告と比較すればいかにも明瞭である。

「論壇」のみじかい文章にそこまでのぞむのは無理だといわれるかもしれない。だが、堀部は、同時期に発表した論文「放送の公平性と放送の自由/米国における公平原則の形成・展開・廃止」(『新聞研究』93・12)では、B5版で4頁をついやしているが、そこでも議会の反対のうごきについては「論壇」と同程度にしかふれていない。むしろ、「論壇」では単に日本の議論が「あまりにも貧弱」とし、「より本質的な議論が、放送界・言論界はもとより各界で展開されなければならない」という一見中立的な文章だったものを、つぎのように、より積極的な「公平原則」廃止への議論の発展を期待する論調におしすすめている。

「日本では、放送法における公平原則を廃止すべきであるという主張が強力になされるような段階にまでは至っていない。法令の違憲立法審査権が認められている(憲法第八一条)などアメリカと同様な憲法体制がとられているので、公平原則の違憲論が理論的に主張されうるはずである。今回も、そのような主張が明確になされないのはなぜであろうか」

 ところが立石の現地報告によると、事態は堀部の消極的な説明とかなりちがっている。アメリカの議会は、公平原則が復活するまでは「放送関係のいっさいの法案」の審議をこばむという強硬な姿勢をつらぬいている。日本でも野党が審議拒否して国会が空転することがあるが、アメリカでは放送関係に関するかぎり議会が空転状態なのだ。立石は「そのため、放送事業者の中には、もうフェアネス・ドクトリンについての議会の言い分を認め、そうすることで業界の他の重要課題の法制化をスムースにしてはどうかという声もあが ってきている」としるす。堀部の説明とは相当にニュアンスがちがう。アメリカでは「公平原則は、もはや過去のもの」と理解してニッポンがものまねにはしったのちに、アメリカの議会でFCCの決定がひっくりかえされたら、いったいどうする気なのだろうか。生半可なアメション・ザアマス型の議論はいいかげんにしてほしい。

「情報法学」の専門家と称する堀部や浜田の姿勢は、アメリカでいうと共和党の保守派の立場にちかい。民主党が名前のとおりに民主的だとはだれも思わないが、その民主党でさえ、「電波資源の希少性は規則制定当時と変わっていない」と主張しているのに、自分の立場をあいまいにしたまま無線と有線をゴッチャマゼにして、お題目のように「多メディア化、多チャンネル化」をとなえるのは、あきらかに大衆欺瞞の「学説公害」であり、学問の名をかたる詐欺にひとしい。つぎのように、実にすなおに財界の意向をしるす記事の方が事実を正確に反映しており、しかも正直でよろしい。

「事業者の参入意欲がそがれてしまうという視点からも、放送法見直しへの議論がさらに活発になることが必要になろう」(日経産業94・1・11)


(9)二重の神話利用による逆ハンディレースのおしつけ