第一部 「電波メディア不平等起源論」の提唱
電網木村書店 Web無料公開 2005.4.1
第一章 「天動説」から「地動説」への理論転換 1
奇妙な矛盾におちいる反体制派の「公平原則」合唱
まず最初に、これまでにのべた電波メディアの基本概念を、さらにくわしく論証したい。「天動説」をくつがえして「地動説」の立場からみなおすためには、これまでの固定観念または先入観念を完全にひっくりかえさなければならない。ボタンのかけちがえとおなじで、最初からやりなおさないと、すべてがさかさまのままの理解になってしまうのだ。
私の実感をいうと、昨年(九三年)末は椿舌禍事件に関する活字メディアの論評をつぎつぎとみくらべながら、何度も唖然、いや暗然とした。ふとい、ふとい、ためいきがでるほどだった。
ためいきの根本的な原因は、電波の「希少性神話」のエンドレス・リピートにあった。日本の場合は現行放送法が成立した一九五〇年以来、今年(九四年)が四十四年目にあたる。昨年来、半世紀になんなんとする神話物語がくりひろげられた。電波は「希少」、または「有限」だから「公平原則」の義務云々という、あいもかわらぬ各界一斉のハレルヤ的大合唱が、当局、大手マスコミ、学者、評論家、ジャーナリスト、体制擁護派、反体制派、はたまた国会喚問の賛成派たると反対派たるをとわず、およそあらゆる立場の論者によって、無反省かつ無批判にくりかえされたのだ。
特に奇妙な矛盾におちいっているといわざるをえないのは、いわゆる反体制派の場合である。反体制派が椿舌禍事件を論じているのだというのに、体制擁護派と一緒になって一本調子で「公平原則」を錦の御旗にまつりあげ、当局もしくは体制による電波メディア支配の欺瞞をあばこうともせず、現行放送法制定以来の四十四年つづいたこの神話の合唱にくわわっている。このように無批判な一本調子では、国家権力が「公平原則」を武器として市民をあざむき、実質的に電波メディアを独占使用してきたという歴史的犯罪をあばくことなどは、のぞむべくもない。
なぜ一本調子になってしまうかというと、その根本には、近代の民主主義とか議会制度に対する理解の単純さがひそんでいる。その単純さには、日本の近代のおくれが反映している。いわゆる勧善懲悪型の思考である。善玉と悪玉の類型でしかものごとを理解しない習慣が骨のずいまでしみついているから、結果として「公平原則」の裏面をみぬく努力をおこたってしまうのだ。