『電波メディアの神話』(2-1)

第一部 「電波メディア不平等起源論」の提唱

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.1

第二章 「公平原則」の玉虫色による
民衆支配の「奇術」 1

「公平原則」の玉虫色による民衆支配の「奇術」/「公共性」「不偏不党」「公平」「公正」「中立」

 さて、ここまではまとめて「公平原則」とよんできた規定は、椿舌禍事件に際しての報道や論評のなかで、「公共性」「不偏不党」「公平」「公正」「中立」などと、まちまちに表現されていた。私は冒頭で、これらをすべてほぼ同趣旨としてとりあつかうとのべた。

 以上の用語の意味を厳密に区別したり、「公平」よりも「公正」をえらぶと主張する論者もいる。これらの用語の意味のちがいにこだわる論議にも、もちろん積極的な意義がある。だが私は、「はじめにことばありき」というような神がかりの考えかたには、基本的に反対である。むしろことばは、つねに事実のあとにうまれ、場合によっては事実をおおいかくしたり、ゆがめて伝えたりするものだ。

 私が「公共性」「不偏不党」「公平」「公正」「中立」などをひとまとめにして、ほぼ同趣旨として論ずるのは、ことばによってではなく、放送の歴史的事実に即して考えるからである。ことばには、たしかにニュアンスのちがいがある。しかし、この場合のことばの問題の核心は、むしろその細部のニュアンスのちがいとは逆に、「公共性」「不偏不党」「公平」「公正」「中立」などのすべてに共通する「あいまいさ」のなかにこそある。

 権力はつねに、この種の「あいまいさ」な表現をこのんでもちい、いかにも仲裁者的な立場にいるかのような見せかけをとりつくろう。そこにこそ「希少性神話」を利用した国家権力による電波ジャックの問題点がひそんでいるのだ。だから私は、細部のニュアンスにこだわらないだけでなく、もしくは面倒だからとか消極的にではなく、はなはだ積極的にひとまとめにして論じたのである。

「公平原則」のあり方に疑問をなげかけていた論評の例は数おおい。

 原寿雄(共同通信社相談役)は「椿発言報道に四つの疑問」(朝日93・10・31)のなかで、「第三に『不偏不党』『公正』の具体的な内容を、自明のように考えて議論が進んでいたことも問題だった」と指摘している。『アエラ』(93・11・1)ではさらに、「『不偏不党』はもともと政治的なものです。この看板は降ろし、少数派を重視して多様性を確保する」という提言に論旨をすすめている。

 やはり同趣旨で非常にわかりやすいのが、『井上ひさし響談』の最終回「意味があった『椿舌禍事件』」(毎日93・11・8)である。とくにつぎの部分がそうだ。

「わたしの考えでは、そのものだけで偏向していないものなどない、つまり、そのものだけで公正中立なものなど、この世になに一つ存在していません。(中略)では公正中立は、この世ではついにあり得ないものなのかというと、そうでもありません。たった一つだ け、公正中立を目ざす方法がある。それは複数の意見をはっきりと提出することです。そのことによってのみ、辛うじて公正中立が保たれます」


(2)「多様性の確保」や「複数意見の提出」は可能か