『電波メディアの神話』(0-1)

電波メディアの国家支配は許されるか?……
マルチメディア時代のメディア開放宣言

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.1

はしがき

 本書でもちいる「ラディオ」と「テレヴィ」はともに初期の一般的な表記法だった。本文中でも事情の一部を記すが、新聞が「ラディオ」を「ラジオ」、「テレヴィ」をテレビ」、「ヴィデオ」を「ビデオ」、「ヴェトナム」を「ベトナム」などとしたりする理由は、ただ単なる字数倹約にすぎない。私は「あの」軽薄かつ横柄な大手新聞などに、「あの」時代錯誤な文部省でさえできないカタカナ表記法の強制をする資格があるとは思わない。つまり「テレヴィ」「ラディオ」の表記は、単なる原音へのこだわりにとどまらず、大手新聞による電波メディア系列支配へのつもりにつもったいかりの意思表示の一つでもあり、絶対にゆずれないのである。

 昨年(九三年)秋にテレビ朝日の椿舌禍事件が発生して直後に、これはテレヴィ会社で半生をおくった私自身の生き方に直接かかわる問題だから、ぜひともひと勝負しなければと思いさだめた。以後、すべての予定を変更して本書の執筆準備に集中することにした。

 私は、自分の仕事のやり方を「体力勝負」とこころえている。資力は人並以下だが、さいわいなことにまずは人並の体力がつづくかぎり、手あたり次第に資料をあつめる。フリーをしめだす「封建的」記者クラブ取材とは正反対の方式である。当局発表にたよらず、まずは資料の比較検討によって問題点をさぐり、ポイントだけを現場で確認する。そのうえで、私が勝手に想像する敵方のCIA分析官にまけないように、適確な総合分析をこころがけるのだ。

 その際、目、耳、鼻、舌、皮膚などの五感があつめた外界情報の断片の数々は、大脳の中心部にある左右一対の海馬(タツノオトシゴ)をくぐりぬけて整理され、やがてはヒトニザル科で異常に発達した新皮質に蓄積されるらしい。私の場合には、いつの間にかその真中に息抜き用の引きだしを作る習性があり、今回はそこに絶妙な台詞がおさまっている。それがなんと、椿舌禍事件の深刻な社会的影響とはまるで真反対で、「たかが人生、死ぬまでのヒマツブシ!」なのだ。おかげでときおり、気分転換をはかる休憩室ができた。ここにたちよるとふたたび、客観的に距離をたもって椿舌禍事件を観察する余裕をとりもどすことができる。

 この「たかが人生、死ぬまでのヒマツブシ!」という台詞は、白石要之助(自由業)が『放送批評』(94・2)の「“椿発言問題”に異論あり/放送批評懇談会会員アンケート」によせた文章のなかにあった。読点のすくない長文なので要約は遠慮するが、この台詞が直接的には「自分流のヒマを公器をつかってやるには、それなりの戦略と戦術が必要なはず」につながり、文脈全体としては、放送現場の「ゲリラ戦」における椿個人の「戦略と戦術」の欠如から、「権力に一本とられてしま」った事態をなげく趣旨のようである。

「死ぬまでのヒマツブシ」という発想は、掲載誌の発行が一月だから、「正月は冥途の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」とかさなる。これらは私もかねがね息ぬきに活用してきた貴重な発想であるが、そこから消極的なあきらめとは正反対に「それなりの戦略と戦術が必要なはず」という積極的な提言がでてくるところがおもしろい。私は、この台詞と、これもかねがねストレス解消用にときおり思いおこしている魯迅の文章とをくみあわせて、椿舌禍事件をめぐる黒雲とのたたかいにそなえることにした。

 魯迅は、短編小説『故郷』で、少年期のキラキラ輝く想い出と二十年後の幻滅をえがいたのちに、なおも子供たちの未来に希望を託す。その最後が、よく引用される一節である。

「思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」

 椿舌禍事件以後のテレヴィに、おおくの人がいだくことのできる「希望」をみいだすためには、いかなる「戦略と戦術」をあめばいいのだろうか。到達目標、戦場をいかに設定すべきか。味方、原点、補給路をいかに確保すべきか。クラウゼウィッツが『戦争論』の冒頭で強調した「精神」の重要さを、この場合、いかに解釈すべきか。これら設問への回答が、本書執筆にあたって私が自分自身に課した課題である。

 さて、誤解をさけるために最初にことわっておくが、本書で展開する放送の歴史と理論は、これまでに日本のアカデミズムが放送に関して流布してきたものとは、およそ正反対の主張からなりたっている。というよりも、私とアカデミズムとでは「希望」がまったくことなっている。または階級的立場や視点が決定的にちがうというべきだろうか。ハッキリいえば本書は、あくまでも私の「希望」の立場からではあるが、あまたの証拠をつきつけて、いわゆるアカデミズムの教えを「学説公害」と断定し、長年のあやまちをあらためよと要求し、人生をかけたたたかいを宣言するための真正面からの挑戦状である。

「学説公害」とは、権力の神官たるアカデミズムが庶民の「希望」をうちくだき、または胎児のまま流産させるべくまちがった学説を守護し、たれ流し、社会に害毒をあたえつづける状態の表現である。しかもこの場合、もっとも基本的なところがまちがっているのだ。

 近代物理学にたとえをもとめれば素粒子理論、または、中性子と陽子で構成される原子核の周囲を陽子とおなじ量でマイナスの電荷をもつ電子が回転するという、原子の構造に関する基礎知識のようなものである。これなしには近代物理学は理解できないし、そのうえになりたつ理論展開は不可能である。

 私はたまたま、電波メディアにおける(物理的ではなく)政治的な基礎理論のまちがい、もしくはごまかしを十数年前に発見し、三冊の旧著の中で指摘したが、アカデミズムは無視したまま公害をたれ流しつづけてきた。ところが、この基礎理論の問題が、昨年(九三年)秋に発生した椿舌禍事件という千載一遇のチャンスによって、一般市民の目にもふれ、議論の対象となりはじめたのである。まさに好機いたれりの観がある。象牙の塔のなかだけの陰微なコンニャク問答ならいざ知らず、公開論争をすればかならず勝てる自信のある勝負だから、実に愉快な事態をむかえたことになる。最近は「辛口批評」とか「悪口雑言」とか「ゴーマニズム」とか、痛烈ラッパ方式がはやっているから、私もこの際、旧著執筆以来の十数年、いや、テレヴィ会社にまよいこんで以来、いささか辛酸をなめてしまった三十有余年のうさをもまとめてはらすために、思う存分、にくまれ口をたたきつくしてみたい。

 にくまれ口の相手には、当然、アカデミズムだけではなく、アカデミズムの背後の資本、権力はもとより、それに追随する新聞などの活字メディアもふくまれる。とくに大手新聞関係者は、この際、ゆるしがたい。郵政省を足場とする権力機構とグルになって、民放の独立をふみにじってきたのは大手新聞社である。その身内の犯罪をいささかも糾弾することなく、「テレヴィは未熟なメディア」だとか「テレヴィ人間は云々カンヌン」だとか、まったくよくいうよ! 放送のことなどなにも知らないくせしやがって! いや失礼!

 アカデミズムの尻をなめるばかりで、マージャン相手の番記者型発表報道専門、ノー天気の大手新聞関係者(いや失礼!)などが知りうるはずもない基本理論とはなにか。それがなんと、椿舌禍事件の報道と論評にかかすことのできなかった最大の前提条件、放送法(資料参照)の「不偏不党」「公平」云々という規定の理由説明なのである。あれだけ騒々しく展開された議論の前提がくるっているのだ。いわば天と地がさかさま、中世ヨーロッパの「天動説」のような神話的理解の状態だったのだから、事件の現象も説明不足になるし、ましてや本質の解明などができるわけはない。

 なお、「公正」「中立」という用語は放送法にはないが、私は、これに日本の戦前の「公共性」をもふくめて、ほぼ同趣旨としてとりあつかう。理由はのちにくわしくのべる。この理由自体に結構ややこしく、しかも本質的な問題がふくまれているのだ。以下ではとりあえず便宜上、これらの基本概念をまとめて「公平原則」とする。「公平原則」の源流には「学説公害」があるのだが、その初期型基本形を、私は「電波メディアの有限性または希少性神話」、略して「希少性神話」とよぶ。これものちにくわしく証拠をあげて論証するが、この神話の構造の説明を最少限度に簡単にするとつぎのようになる。

 ラディオ放送の発足当時、監督官庁の逓信省は最初から「厳重監督」のために「一本化」の方針を内定し、それを実現した。「混信」をさけ、「希少」な公共の電波を有効に利用するために云々という趣旨の法的根拠なるものは、「リクツとコウヤクはどこにでもはりつく」のたとえどおりにスリカエの口実として、あとからつけくわえられたものでしかない。「希少性神話」は放送の国家による統制を容易にするための当局見解への追随にすぎず、学問的な理論の名にはあたいしない。「希少性神話」にささえられた「公平原則」の政治的性格は、反体制勢力には絶対に電波メディアを使用させないという国家権力の決意の隠れ蓑であった。

 さらについ最近、二十年ほど前に発生した「多メディア」とか「メディアの多元化」とよばれる状況がある。この状況を利用する「多元化神話」にも重大な「学説公害」がひそんでいる。「多元性神話」は「希少性神話」と連続技でふたたび市民をだます。今度は逆に「多元化」を理由として「公平原則」の見せかけのはどめさえはずし、巨大資本がブランドつきの大手メディアを自由にあやつるための隠れ蓑だ。この点ものちにアメリカの実例を紹介しながらくわしく論証する。

 私は、以上のような電波メディアに関する神話的理解を「天動説」にたとえる。本書の主題は電波メディアにたいする市民主権の「地動説」確立、または電波使用権の平等の主張である。もっとわかりやすく私の気持ちに即していうと、「うばわれた電波」という考え方に立つかどうか、腹の底からそう感じうるかどうかが、決定的な別れ目である。理論的かつ情緒的な具体化の手順を三段階にわけて要約するとつぎのようになる。

 第一には、権力の神官たるアカデミズムもしくは象牙の塔がたれ流してきた「学説公害」を、歴史的事実にもとづく実証および論証によって、「天動説」と同様に完膚なきまでに粉砕し、永遠に除去すること。

 第二には、電波メディアに対する市民主権の「地動説」を確立し、長年うばわれつづけてきた言論主権の回復にむけて、言論主権に関する自然的かつ本来的な要求を刺激すること。

 第三には、市民による市民のための市民の言論主権宣言を発し、七〇年の電波利権によって蓄積されたツケの返還を要求し、電波メディアを手はじめに、あわせて既存の言論支配構造の全体を根底からくつがし、真の意味での文化革命への起爆剤となること。

 さて、以上のように文字で書けば、いかにもものものしいが、私はそんなに力みかえっているわけではない。なるべくリラックスしながら既存の権威にさからい、楽しんで挑戦するつもりだ。権威主義と権威への依存こそがもっとも危険な知的障害である。読者も、大いに私の主張を疑いつつ、気楽につきあってほしい。

 私が意図するのは、電波メディアを中心課題としながらも、実は、言論の自由の過去・現在・未来の全体をさぐる壮大な知的大冒険への旅立ちである。言論の自由と人権とは不可分だが、人権に関する歴史的視野をも思いきりひろげ、古代史をもふまえながら、グーテンベルクの活字から「市民トマス・ペイン」の『コモン・センス』を起爆剤とするアメリカ独立革命、フランス革命の『人間と市民の権利の宣言』にもさかのぼり、人権の自覚、すなわち、はだかのサル本来の野生をとりもどすよすがとしたい。

 「野生をとりもどす」といったのはほかでもない。近代政治学の祖とされるマキアヴェリは、その主著『政略論』(または『ローマ史論』)において、君主政の統治になれきった国民の場合には、「たまたま解放されたとしても、自由を維持していくのは困難である」と論じている。戦後の日本人の運命を約五百年も前に予言してくれたような気がするのだが、その「しごく当然な理由」はつぎのようにのべられている。

「このような国民は、本来あらあらしい野生の猛獣が檻に入れられたまま飼育され、言うなりにされてきたのと似ている。こんな獣は、たまたま原野に放たれても、どのような餌を手に入れたらよいのか、どこにひそんでいたらよいのか、いっこうにわからないので、捕えようと思えばだれでもわけなく捕えるころができるのである」(『政略論』)

 野生の回復が「困難」なことはうたがいない。だがマキアヴェリも「不可能」とまでは断定していない。「希望」はあるのだ。野生を回復するための第一歩は、心の底からの遠慮のない討論である。私は、これまでも多くの権威に盾をついてきたが、今度は無謀にも、自分が三十余年すごした業界、ジャーナリズム関係の学会主流をも相手にくわえ、ドン・キホーテよろしく手製の槍で突っかかることになる。行く手に見えるのは風車ならぬ象牙の塔である。いざ、見参!

 マキアヴェリの故地イタリアでは、今年(九四年)の三月二十七、二十八日に総選挙がおこなわれ、右派連合が勝利した。中心は「メディアの帝王」の異名をもつベルルスコーニのフォルツァ・イタリアだ。ベルルスコーニが五一%の株をもつフィニンベストは、全国規模の民放テレヴィ六局のうちの半分にあたる三局と、新聞、出版、広告などを多角経営し、「メディア企業体としては欧州第二、民間企業としてもイタリア第三位のビッグビジネスだ」(毎日94・4・6)。「ある調査によると」(同)、フィニンベストは「広告媒体の八五%、テレビ視聴者の四五%、出版物の二〇%を支配しているとされる」(同)。ベルルスコーニはまた、「公式選挙が始まってメディアによる宣伝が禁止されてからも、自局のテレビで『フォルツァ・イタリア』の属する右派関連のニュースを流すことによって、合法的に宣伝を続けることができた」(『エコノミスト』94・4・12)。この選挙結果が示すメディアの歴史的な役割についてもおおいに議論をふかめるべきであろう。

 なお、本書で指摘する「電波メディアの神話」の数々は、十数年前の拙著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』『テレビ腐蝕検証』(共著、第三部「日本版“ザ・ネットワーク”戦略」担当)『NHK腐蝕研究』で発表したものと基本的におなじである。もちろんあらためて推敲をくわえたし、あたらしい発見もした。とくに歴史的な人権と言論の関係や、いわゆる社会主義国と社会主義運動の関係については、いささか議論を発展させたつもりだ。だが、歴史的事実も理論的可能性も、すでに何年もまえから明らかなことだった。理屈のうえでも、そんなに複雑な問題ではない。おそらく、おおくの博学のメディア論研究者は、学会主流にあえてさからって「王様は裸だ!」とさけぶには、あまりにも大人になりすぎているのであろう。または、私のように単純に、反体制もしくはアウトローの側から現実をみるという立場をとらないのであろう。

 本書は以上の旧著と、近著の『マスコミ大戦争/読売vsTBS』、および椿舌禍事件以後に寄稿した『創』(94・2、3)、『噂の真相』(94・4)の文章をふくんでいるが、いずれもあらめて構成しなおし、加筆したものである。

 以下、「過去・現在・未来」の時間的制約にとらわれず、序章で総論的に「学説公害」批判のうえに立った理論確立の重要性を主張し、第一部ではおもに「過去」にさかのぼる「希少性神話」、第二部ではおもに「現在」進行中の「多元化神話」、第三部ではおもに「未来」をあざむくマルチメディアの「近未来神話」をくわしく批判し、最後の終章では「言論の自由および人権」の全体像と「未来」への「希望」を概観する。なお、文中、敬称は省略させていただく。


(0-2) 原本目次

序章 電波メディア再発見に千載一遇のチャンス
(0-31) おしゃべりアンテナ』創刊三〇周年を目前にして