第一部 「電波メディア不平等起源論」の提唱
電網木村書店 Web無料公開 2005.4.6
第四章 権力を守護する象牙造りの
「学説公害」神殿 1
放送を片手間に論ずる失礼なジャーナリズム関係者
これまで、具体的な歴史上および目前の事実にもとづいて放送の「公平原則」がはたしてきた政治的役割を論じてみた。そんなに難解な話ではなかったはずだ。では、どうしてこんなに簡単な問題が、著名教授や著名評論家や著名記者には理解できないのであろうか。それとも、なぜ理解しようとしないのだろうか、と問いなおすべきなのだろうか。
序章で指摘したように、社会科学とか人文科学は、ことばだけは「科学」をなのっていながらも、実際には封建時代さながらの権力維持を目的とするエセ学問がおおいのだ。
この分野で「学説公害」がたれ流されているのは、メディアとかジャーナリズム関係とかだけではない。日本における「学説公害」の源流は明治時代にまでさかのぼる場合がおおいが、その封建的な権威が現在の権力の維持にとって好都合なので、なかなか除去できない。それどころか、つぎつぎに新しい「学説公害」が製造されるのである。つまり、権力はつねに「学説公害」または「神話」のささえを必要としているのだ。
日本のこの分野の学問全体の理論水準がひくいのだから、とりたててジャーナリズム関係の学者や評論家、記者たちだけを非難するにはあたらない。どの分野でもそれを職業とする人々は、世間的に一応の権威をかつぐ必要にせまられる。何でも知っているような顔をしなければ商売にならない。だから結局、なにかもっともらしい学問が存在するかのように論ずる習慣にあまんじてしまうのである。とくに活字メディア出身のジャーナリズム関係者たちは、放送または電波メディアをかろんじており、放送法すら知りもしないくせに知ったかぶりで片手問に論ずる傾向がある。迷惑な話である。
いささか失礼な表現になったが、私だけが正しいなどと胸をはるつもりではない。私自身は、現場の労働運動や放送民主化運動の実践に関して、それなりの成果をあげたと自負はするが、同時におおくの間違いをも犯してきたという事実を率直にみとめるにやぶさかではない。しかも成果とはいっても、企業側の巨大化との比較からみれば、非常にちいさいし、影響もかすかにしかのこっていない。今後のためには、体制を批判する側の立場の人々が率直に不十分さをみとめあい、ひろく改善への協力をもとめる方がいいと思う。だから私は本書でも極力、自分のこれまでの判断のあやまりとその原因をもあきらかにしようと思う。この際、広くジャーナリズム関係の有志にも、肩の力を抜いて、ゼロから再出発するようにもとめる。ジャーナリズム関係者が肩をいからして、時代錯誤な権威をまもる必要はない。むしろほかの分野に率先して、日本の学問のおくれを積極的にみとめ、率直に白己のあやまりをもただすべきなのだ。
「学説公害」について、さきには「権力の維持」という要素を指摘したが、それは裏をかえすと「人権の無視」という側面にもなる。
日本人一般は、日本の戦後の経済発展に眩惑され、日本の学問水準が全体として高いと思いこまされているが、それはとんでもないまちがいである。江戸時代にイタリア人宣教師シドッチを尋問した新井白石は、西洋の学術は「形而下」の物質的な面にすぐれると評したが、現在の日本ですすんでいるのは、まさにその「エコノミック・アニマル」にかかわる部分だけであり、構造的には戦前の「富国強兵」時代とえらぶところがない。とくにひどいのは、言論をもふくむ人権にかかわる部分である。たとえば、ILO(国際労働機構)条約の批准状況などは、およそ先進国の水準ではない。だから当然、「学説公害」は、人権または市民権に関する部分で、特におどろくべき時代錯誤の影響力を発揮している。