第一部 「電波メディア不平等起源論」の提唱
電網木村書店 Web無料公開 2005.4.6
第四章 権力を守護する象牙造りの
「学説公害」神殿 6
電波の「政治的」特性を理解することの重要性
「神話」「神話」と何度もいうな、つまらぬことに力みすぎているのではないか、と感じる読者もいるだろう。
しかし私は、この種の神話的カラクリ、ないしは世間一般の思いこみの解明こそが、電波メディアが最初からおわされてきた「政治的」特性を理解し、電波メディアによるイデオロギー支配の構造をくつがえすための、必要不可欠な必須条件だと考えている。天動説をくつがえした地動説が、やがては教会と王家の権威をもくつがえしたように、電波メディアに対する市民の主権意識確立こそが、決定的な重要性を持っていると確信している。神話が横行しているようでは、電波メディアに関する市民一人一人の主権の自覚はたかまらない。だから、椿舌禍事件のような事態が発生し、しかもその本質が理解されないままになっているのである。この際、市民一人一人が数十年来、権力にだまされつづけていたのだという怒りをおぼえることこそが、もっとも重要なのだ。だから私は、あらゆる角度から、神話と、それを打破する思想と行為のもつ意味を追及する。
ヨーロッパの近代史における共和政治の実現、または共和政治の伝統の復活は、新教の普及と、王権神授説の打破なしにはありえなかった。「打破」はしかも、理論のみにとどまらず、一賛同はできないが)マサカリやギロチンによる処刑さえともなって実現されたのである。
日本のあやしげな「民主主義政治」は、あやしげな西欧のものまねとして上からの手なおしに終始し、これまたあやしげな象徴天皇制をのこしたままである。だから、神話のたぐいにたいする感度が、きわめてにぶいのかもしれない。
活字メディア関係者は、電波メディアを馬鹿にすることによって、自分たちのアイデンティティを維持している。とくにゆるせないのは、放送を系列支配している大手新聞の関係者である。かれらの鈍感さは、かつてみずからが「庶民宰相」ともちあげた田中角栄にたいする関係と酷似してい る。かげでは馬鹿にしながら、利権の配分には遠慮なくあずかるというエセ・インテリ特有の処世術である。だが、活字メディア関係者がいかに馬鹿にしようとも、田中角栄的金権政治は、ほかならぬ活字メディアの協力をもえながら、いまだに権力の主流をにぎっている。それと同様に、いかに低俗であろうとも電波メディアは、現代の国家権力にとって、民衆支配のための最大の武器なのである。たとえば最近のソ連崩壊に際しての度重なる実例は、そのなによりの証拠である。どの政治勢力も、新聞杜ではなくて、放送局の実力による確保を最優先したではないか。
つまり、電波メディアの神話は、現代の国家独占資本または全体主義政党による国家支配のための神殿の、もっとも中心的な大黒柱なのである。逆にいうと、電波メディアの神話の打破は、現代政治を改革する上でも、もっとも重要な課題の一つだといえる。神話の光輪を完膚なきまでにはぎおとし、そのうえで、市民の電波メディア主権を宣言し、主権意識を強めなければ、いつまでたっても「百年河清を待つ」のなげきをつづけることになるであろう。